東漢時代332 献帝(十四) 董卓誅滅 192年(2)
董卓は越権して天子を真似た車服を使い、三台(『資治通鑑』胡三省注によると、「三台」は尚書台、御史台、符節台です。または尚書を中台、御史を憲台臺,謁者を外台といい、合わせて三台と呼びました)を召呼(呼び出すこと。または通達、命令を出すこと)しました。
壁の高さと厚さがそれぞれ七丈あり、三十年分の穀物を蓄積しています。
中郎将・呂布は弓馬に習熟しており、膂力(体力)が常人を越えていました。董卓は自分が人を遇す態度に礼がないと知っていたため、行動する時は常に呂布を自分の護衛として従わせており、甚だ寵信して父子の誓いを立てました。
呂布が「父子のような関係はどうするべきでしょう(如父子何)」と問うと、王允はこう答えました「君は元々、姓が呂なので、本来骨肉ではない。今、死を患いる余裕もないのに、なぜ父子というのだ(憂死不暇何謂父子)?戟を投げた時、父子の情があったというのか。」
呂布は同意しました。
夏四月辛巳(『資治通鑑』は「丁巳」としていますが、『後漢書・孝献帝紀』『欽定四庫全書・後漢記』とも「辛巳」なので、『資治通鑑』の誤りのようです。中華書局『白話資治通鑑』も「丁巳」は恐らく誤りとしています)、献帝が病を患いましたが、治ったため、未央殿に百官を集めて大きな会を開きました。
董卓も朝服を着て、車に乗って入宮します。
董卓が門に入ると、李肅が戟で刺します。
すると呂布は「詔によって賊臣を討つ!」と応えました。
吏士は皆、正立したまま動かず、万歳を大唱しました。
董卓の死体は市に曝されました。当時は暑くなり始めた時で、董卓は元々充肥(肥満)だったため、脂が地に流れました。守尸の吏(死体を監視する官吏)が大炷(大きな灯心)を作って董卓の臍の中に置き、火を灯すと、日が明けるまで光明を保ち、これが連日続きました。
塢には黄金二三万斤、銀八九万斤があり、錦綺(絹織物)や奇玩が丘山のように積まれていました。
董卓が殺されたと聞いて驚嘆したため、王允が勃然(憤怒の様子)として叱責しました「董卓は国の大賊であり、危うく漢室が滅ぶところだった(幾亡漢室)。君は王臣として共に憎むべきであるのに(所宜同疾)、個人的に遇されたことを懐かしみ(懐其私遇)、逆に傷痛(悲痛)している。これは共に反逆を為すのと同じではないか(豈不共為逆哉)!」
王允は蔡邕を捕えて廷尉に送りました。
蔡邕が謝罪して言いました「この身は不忠ですが、古今の大義は厭きるほど聞き、常に口ずさんでいます(耳所厭聞,口所常玩)。どうして国に背いて董卓に向くことがあるでしょう。黥首刖足(顔に刺青をして脚を切断する刑)に処されて、継続して漢史を成すことを願います。」
士大夫の多くも憐憫して蔡邕を助けようとしましたが、意見が聴かれませんでした。
太尉・馬日磾が王允に言いました「伯喈(蔡邕の字です)はこの世にまたとない逸材であり(曠世逸才)、漢事を多く知っているので(多識漢事)、後史を継続して完成させるべきです。これは一代の大典となります。しかも坐したのは極めて小さいことなので(所坐至微)、これを誅したら、人望を失うのではありませんか(無乃失人望乎)。」
王允が言いました「昔、武帝が司馬遷を殺さなかったため、謗書(漢の皇帝を批難する書)を作らせて後世に流すことになった。今は国祚(国運)が中衰し、戎馬(軍馬)が郊にいるから、幼主の左右で佞臣に筆を取らせてはならない。そのようにしたら聖徳に対して益がなく、また吾党(我々)も訕議(批難)を蒙ることになる。」
馬日磾は退出してから人にこう言いました「王公には後代がないだろう(王公其無後乎)。善人は国の紀(準則。模範)であり、制作(著作)は国の典(法典。経典)である。紀を滅ぼして典を廃しながらどうして久しくできるだろう。」
蔡邕は獄中で死にました。
以前、黄門侍郎・荀攸と尚書・鄭泰、侍中・种輯等が謀って言いました「董卓は驕忍(驕慢惨忍)で親しい者がないので(または「恩情がないので」。原文「驕忍無親」)、強兵を蓄えていても実際は一匹夫に過ぎない(雖資強兵実一匹夫耳)。直接刺殺できる。」
『三国志・魏書十・荀彧荀攸賈詡伝』は「荀攸が議郎・鄭泰、何顒、侍中・种輯、越騎校尉・伍瓊等と謀った」と書いていますが、何顒と伍瓊は既に死んでいるので、『資治通鑑』はこの二人を除いています(胡三省注参照)。
ちょうど董卓が死んだため、刑から免れることができました。
『三国志・魏書一・武帝紀』は「夏四月」にまとめて「司徒・王允と呂布が共に董卓を殺した。董卓の将・李傕、郭汜等が王允を殺して呂布を攻めた。呂布が敗れて武関を東に出た。李傕等が朝政を専断した」と書いていますが、王允が殺されるのは六月、李傕等が朝政を行うようになるのは九月の事です。
次回に続きます。