東漢時代332 献帝(十四) 董卓誅滅 192年(2)

今回は東漢献帝初平三年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
董卓が弟董旻を左将軍に、兄の子董璜を中軍校尉に任命しました。どちらも兵事を担当します。
董卓の宗族内外(遠近の宗族)がそろって朝廷に列しました。
董卓の侍妾が懐に抱いている中子(長子と少子以外の子)も皆、封侯されて金紫(金印紫綬)を弄びます。
 
董卓は越権して天子を真似た車服を使い、三台(『資治通鑑』胡三省注によると、「三台」は尚書台、御史台、符節台です。または尚書を中台、御史を憲台臺,謁者を外台といい、合わせて三台と呼びました)を召呼(呼び出すこと。または通達、命令を出すこと)しました。
尚書以下が皆、董卓の府を訪ねて啓事(報告)するようになります。
 
また、郿(地名。『資治通鑑』胡三省注によると、郿は長安から二百六十里離れていました)に塢を築きました。
壁の高さと厚さがそれぞれ七丈あり、三十年分の穀物を蓄積しています。
董卓はこう言いました「事が成ったら天下に雄拠する。成らなくてもここを守れば老いを終わらせるに足りる(天寿を全うするだけの蓄えがある。原文「守此足以畢老」)。」
 
董卓は人を誅殺することを何とも思わず(忍於誅殺)、諸将の言語に過失があったらすぐに面前で殺戮しました。人々は安寧な生活ができなくなります(人不聊生)
そこで、司徒王允司隸校尉黄琬、僕射士孫瑞、尚書楊瓉が董卓誅殺を密謀しました。
 
中郎将呂布は弓馬に習熟しており、膂力(体力)が常人を越えていました。董卓は自分が人を遇す態度に礼がないと知っていたため、行動する時は常に呂布を自分の護衛として従わせており、甚だ寵信して父子の誓いを立てました。
しかし董卓の性格は剛褊(強情頑固)で、かつて呂布がわずかに董卓の意を失ったため董卓の意に合わなかったため)、手戟(小戟)を抜いて呂布に投げつけたことがありました。
呂布は拳捷(『資治通鑑』胡三省注によると、「拳」は勇力、「捷」は迅疾(迅速、俊敏)の意味です)だったので、手戟を避け、様相を正して謝罪しました(改容顧謝)
董卓は怒りを収めましたが、この件があってから呂布は秘かに董卓を怨みました。
 
後に董卓呂布に中閣(宮中の小門)を守らせました。この時、呂布は傅婢(侍婢)と私通したため、ますます不安になりました。
王允が以前から呂布に対して友好的に接していたため、呂布王允に会った際、自ら危うく董卓に殺されそうになったことを語りました。
王允はこれを機に董卓誅殺の謀を呂布に告げて内応させようとします。
呂布が「父子のような関係はどうするべきでしょう(如父子何)」と問うと、王允はこう答えました「君は元々、姓が呂なので、本来骨肉ではない。今、死を患いる余裕もないのに、なぜ父子というのだ(憂死不暇何謂父子)?戟を投げた時、父子の情があったというのか。」
呂布は同意しました。
 
夏四月辛巳(『資治通鑑』は「丁巳」としていますが、『後漢書孝献帝紀』『欽定四庫全書・後漢記』とも「辛巳」なので、『資治通鑑』の誤りのようです。中華書局『白話資治通鑑』も「丁巳」は恐らく誤りとしています)献帝が病を患いましたが、治ったため、未央殿に百官を集めて大きな会を開きました。
董卓も朝服を着て、車に乗って入宮します。
道を挟んで兵を並べ、董卓の営から皇宮まで左に歩兵が、右に騎兵が立ち、屯衛(守衛の兵)が周りを囲み(屯衛周帀)呂布等が前後を護衛します。
 
王允尚書僕射士孫瑞に自ら詔書を書かせ、呂布に授けさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、尚書僕射自身に詔者を書かせたのは漏洩を懼れたからです。
 
呂布は同郡の騎都尉李肅(『資治通鑑』胡三省注によると、「李順」と書くこともあります)と勇士秦誼、陳衛等十余人に偽って衛士の服を着させ、北掖門内を守って董卓を待たせました。
董卓が門に入ると、李肅が戟で刺します。
しかし董卓は服の中に甲冑を着ていたため(卓衷甲)、戟が刺さりませんでした。
董卓は臂(腕)を負傷して車から落ち、後ろを向いて「呂布はどこだ!」と大呼します。
すると呂布は「詔によって賊臣を討つ!」と応えました。
董卓が大いに罵って言いました「庸狗(飼い犬。または凡庸な犬)が何をするのか(庸狗敢如是邪)!」
呂布董卓の声に応じて(言い終わる前に)矛を持ち、董卓を刺しました。その後、兵を促して斬首させます。
 
主簿田儀と董卓の倉頭(奴僕)が進み出て董卓の死体に向かって走ったため、呂布が彼等も殺しました。董卓と合わせ三人が殺されます。
 
呂布が懐から詔版詔書を出して吏士に命じました「詔によって董卓を討っただけだ。残りは皆不問とする(詔討卓耳,余皆不問)。」
吏士は皆、正立したまま動かず、万歳を大唱しました。
百姓が道で歌舞し、長安中の士女が自分の珠玉や衣装を売って酒肉を買い、互いに慶祝する者が街肆(街中)を埋めました。
 
董卓の弟董旻や董璜等および宗族は老弱とも郿に居ましたが、全て群下(属僚、群臣)に斬られたり矢を射られて死にました。董卓の三族が滅ぼされます夷三族
 
董卓の死体は市に曝されました。当時は暑くなり始めた時で、董卓は元々充肥(肥満)だったため、脂が地に流れました。守尸の吏(死体を監視する官吏)が大炷(大きな灯心)を作って董卓の臍の中に置き、火を灯すと、日が明けるまで光明を保ち、これが連日続きました。
 
諸袁(袁氏)の門生が董氏の死体(ばらばらになった董卓の死体)を集めて焼き、灰を路に撒きました。
 
塢には黄金二三万斤、銀八九万斤があり、錦綺(絹織物)や奇玩が丘山のように積まれていました。
 
司徒・王允尚書の政務を主管し(録尚書事)使者・張种を派遣して山東を撫慰(宣撫)しました。
 
また、呂布を奮威将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、奮威将軍は西漢元帝が任千秋を用いて任命したのが始めです)に任命して符節を与え、儀礼を三公と同等とし(假節儀比三司)、温侯に封じました。
王允呂布が共に朝政を主持します。
 
董卓が死んだ時、左中郎将高陽侯蔡邕が王允の坐に居ました(客として王允の家に居ました。原文「在王允坐」)
董卓が殺されたと聞いて驚嘆したため、王允が勃然(憤怒の様子)として叱責しました「董卓は国の大賊であり、危うく漢室が滅ぶところだった(幾亡漢室)。君は王臣として共に憎むべきであるのに(所宜同疾)、個人的に遇されたことを懐かしみ(懐其私遇)、逆に傷痛(悲痛)している。これは共に反逆を為すのと同じではないか(豈不共為逆哉)!」
王允は蔡邕を捕えて廷尉に送りました。
 
蔡邕が謝罪して言いました「この身は不忠ですが、古今の大義は厭きるほど聞き、常に口ずさんでいます(耳所厭聞,口所常玩)。どうして国に背いて董卓に向くことがあるでしょう。黥首刖足(顔に刺青をして脚を切断する刑)に処されて、継続して漢史を成すことを願います。」
資治通鑑』胡三省注によると、蔡邕はかつて朔方に移された時、徒中(囚人の中)で上書して『漢書』諸志の続きを作ることを乞いました。
 
士大夫の多くも憐憫して蔡邕を助けようとしましたが、意見が聴かれませんでした。
 
太尉馬日磾が王允に言いました「伯喈(蔡邕の字です)はこの世にまたとない逸材であり(曠世逸才)、漢事を多く知っているので(多識漢事)、後史を継続して完成させるべきです。これは一代の大典となります。しかも坐したのは極めて小さいことなので(所坐至微)、これを誅したら、人望を失うのではありませんか(無乃失人望乎)。」
王允が言いました「昔、武帝司馬遷を殺さなかったため、謗書(漢の皇帝を批難する書)を作らせて後世に流すことになった。今は国祚(国運)が中衰し、戎馬(軍馬)が郊にいるから、幼主の左右で佞臣に筆を取らせてはならない。そのようにしたら聖徳に対して益がなく、また吾党(我々)も訕議(批難)を蒙ることになる。」
馬日磾は退出してから人にこう言いました「王公には後代がないだろう(王公其無後乎)。善人は国の紀(準則。模範)であり、制作(著作)は国の典(法典。経典)である。紀を滅ぼして典を廃しながらどうして久しくできるだろう。」
蔡邕は獄中で死にました。
 
以前、黄門侍郎荀攸尚書鄭泰、侍中种輯等が謀って言いました「董卓は驕忍(驕慢惨忍)で親しい者がないので(または「恩情がないので」。原文「驕忍無親」)、強兵を蓄えていても実際は一匹夫に過ぎない(雖資強兵実一匹夫耳)。直接刺殺できる。」
三国志魏書十荀彧荀攸賈詡伝』は「荀攸が議郎鄭泰、何顒、侍中种輯、越騎校尉伍瓊等と謀った」と書いていますが、何顒と伍瓊は既に死んでいるので、『資治通鑑』はこの二人を除いています(胡三省注参照)
 
荀攸の謀が成就しようとしましたが、発覚してしまいました。荀攸は逮捕されて獄に繋がれ、鄭泰は逃走して袁術を頼ります。
荀攸は獄中でも自若としており、言語飲食の様子が普段と変わりませんでした。
ちょうど董卓が死んだため、刑から免れることができました。
 
三国志魏書一武帝紀』は「夏四月」にまとめて「司徒王允呂布が共に董卓を殺した。董卓の将李傕、郭汜等が王允を殺して呂布を攻めた。呂布が敗れて武関を東に出た。李傕等が朝政を専断した」と書いていますが、王允が殺されるのは六月、李傕等が朝政を行うようになるのは九月の事です。
 
 
 
次回に続きます。