東漢時代333 献帝(十五) 李傕等の反撃 192年(3)
兗州刺史・劉岱がこれを撃とうと欲しましたが、済北相・鮑信が諫めて言いました「今、賊の衆は百万もおり、百姓が皆震恐して士卒にも闘志がないので、敵にはできません(まともに戦えません。原文「不可敵也」)。賊を観たところ、多数の群輩(同類)が互いに従っているだけで(統率する者がおらず。原文「衆群輩相隨」)、軍には輜重がなく、ただ鈔略(略奪)によって資(資本。軍需)を為しています。今は士衆の力を蓄えてまず守りを固めた方がいいでしょう。彼等が戦いを欲しても得られず、攻めても攻められなかったら(攻略できなかったら)、その勢(形勢)は必ず離散することになります。その後、精鋭を選び、要害を拠点にしてこれを撃てば、破ることができます。」
劉岱はこの意見に従わず、東平で黄巾と戦い、殺されてしまいました。
東郡太守・曹操の部将・東郡の人・陳宮が曹操に言いました「今、州には主がおらず、王命も断絶しています。宮(私)が州中の綱紀(『資治通鑑』胡三省注によると、この「綱紀」は州の別駕や治中諸従事を指します)を説得することを請います。明府(曹操)がすぐに赴いて州牧になり(明府尋往牧之)、これを資(資本)にして天下を収めること、これが霸王の業です。」
陳宮は別駕や治中を説得しに行ってこう言いました「今は天下が分裂していて州に主がいません。曹東郡は命世の才(当世に名が知られた才)です。もし迎え入れて州を牧させれば(州を管理させれば)、必ず生民を安寧にできます。」
こうして曹操が兗州刺史を領すことになりました(原文「領兗州刺史」。「領」は「兼任」の意味として使われますが、恐らくここでは「担当」の意味です。『三国志・魏書九・諸夏侯曹伝』によると、この頃、夏侯惇が折衝校尉になり、東郡太守を兼任しています(遷折衝校尉領東郡太守)。曹操が兗州刺史になったので、夏侯惇が代わりに東郡太守になったようです)。
曹操が兵を進めて寿張の東で黄巾を撃ちました。
歩騎千余人を率いて戦地を視察します。この時、突然、賊営にぶつかりました。しかし戦っても利がなく、死者が数百人に上ったため、引き還しました。
すると賊がすぐに前進して来ました。黄巾は賊になって久しく、しばしば勝ちに乗じており、兵は皆精悍でした。
逆に曹操は旧兵が少なく、新兵も習練しておらず、黄巾に較べて寡弱だったので、軍を挙げて懼れを抱きました。
賊が曹操に書を送りました「昔、(曹操が)済南にいた時、神壇を毀壊(破壊)しました。その道は中黄太乙と同じだったので(曹操のやり方は黄巾の中黄太乙と同じだったので。『三国志集解』によると、太乙は天の貴神です。中黄太乙は黄巾による美号のようです)、道を知っているようでしたが、今また混迷しています(似若知道今更迷惑)。漢行(漢の道、命運)は既に尽きており、黄家が立つべきです。天の大運は、君(あなた)の才力で存続できるものではありません。」
檄書を読んだ曹操はその罪を叱責し、何回も投降の路を開示しました。
その後、奇伏(奇兵、伏兵)を設け、昼夜を分けずに会戦して、戦うごとに捕虜を得たため(戦輒禽獲)、賊がやっと退走しました。
しかし鮑信が戦闘によって死にました(最初の数百人が犠牲になった戦いで死んだのだと思います)。
『資治通鑑』からです。
朝廷が詔によって京兆の人・金尚を兗州刺史に任命しました。
『後漢書・孝献帝紀』は「五月丁酉、天下に大赦した。丁未、征西将軍・皇甫嵩を車騎将軍にした」と書いており、『欽定四庫全書・後漢記』は「丁未、天下に大赦した。征西将軍・皇甫嵩を車騎将軍にした」と書いています。
董卓が殲滅されてからは患難とすることがなくなったと思い、頗る驕傲になります。そのため群下があまり帰心しなくなりました。
王允が士孫瑞と議論して特別に董卓の部曲を許す詔を下そうとしました。しかし決定後に躊躇して「部曲はその主に従っただけだ。今、もしも悪逆の名を与えて赦したら、恐らく深く猜疑させることになる(恐適使深自疑)。これは彼等を安んじさせる方法ではない(非所以安之也)」と言い、中止しました。
また、王允は董卓の全ての軍を解散させることを議論しました。ある人が王允に言いました「涼州人は元から袁氏を憚り、関東を畏れています。今、もしも一旦にして兵を解かせて関を開けたら、必ず人人が危険を感じるようになります(必人人自危)。皇甫義真(皇甫嵩)を将軍にして現地で衆を統率させ(就領其衆)、そうすることで陝に留めて安撫するべきです。」
王允はこう言いました「それは違う(不然)。関東で義兵を挙げた者は皆、わしの徒(仲間)だ。今、もし険阻な地形に拠って陝に駐屯したら(距険屯陝)、たとえ涼州を安んじることができても関東の心を疑わせることになるから、そうしてはならない(不可也)。」
董卓の旧将校はそれぞれ恐動(恐れて騒ぐこと)し、皆、兵を擁して守りを固め、互いにこう言いました「蔡伯喈(蔡邕)はただ董公が親厚(信任・厚遇)していただけだったのに、それでも従坐(連座)した。今、(王允は)我曹(我々)を赦すことなく、しかも兵を解かせようといているが、今日、兵を解いたら、明日にはまた魚肉になってしまうだろう。」
呂布が李肅を陝に派遣し、詔命によって牛輔を誅殺させました。
牛輔等は迎撃して李肅と戦います。
李肅は敗れて弘農に走り、呂布に誅殺されました。
牛輔は恐れて平常心を失いました(恇怯失守)。ちょうどこの時、営内が理由なく驚いたため(兵達が突然騒ぎを起こしたため。原文「会営中無故自驚」)、牛輔は逃走しようとしましたが、左右の者に殺されました。
李傕等はますます懼れ、どうするべきか分からず、それぞれ解散して間道から郷里に帰ろうとしました。
討虜校尉・武威の人・賈詡が言いました「諸君がもし軍を棄てて単行したら(単独で行動したら)、一亭長でも君を拘束することができる。それぞれ兵を率いて西に向かい(相率而西)、長安を攻めることで董公の仇に報いた方がいい。事が済んだら(成功したら)、国家(皇帝)を奉じて天下を正し、もし計画に合わなかったら(うまくいかなかったら。原文「若其不合」)、それから逃走しても晩くはない。」
二人は東に向かいましたが、実際は兵を集めて(恐らく李傕等を先導したのだと思います)西に還りました(召兵而還)。
李傕は道中で兵を集めました。長安に至った時には十余万になります。
ところが、包囲して八日目(原文「守之八日」。『三国志・魏書六・董二袁劉伝』では「十日」ですが、『資治通鑑』は『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』に従って「八日」としています)、呂布軍の叟兵(『資治通鑑』胡三省注によると、「叟兵」は「蜀の兵」です。漢代は「蜀」を「叟」といいました)が内反(謀反・内応)しました。
次回に続きます。