東漢時代334 献帝(十六) 王允の死 192年(4)
[九(続き)] 六月戊午(初一日)、叟兵(蜀兵)が李傕の兵衆を城内に招き入れ、(李傕が)兵を放って虜掠(略奪)させました。
しかし王允はこう言いました「もしも社稷の霊を蒙って上は国家を安んじることができるのなら、これは私の願いだ(若蒙社稷之霊,上安国家,吾之願也)。もしそれができなかったら、身を奉じてこれのために死ぬだけだ(如其不獲,則奉身以死之)。朝廷(皇帝)は幼少で、私しか頼りにする者がいない(恃我而已)。難に臨んでとりあえず逃れるのは、私には忍びないことだ(臨難苟免吾不忍也)。(汝には)尽力して関東諸公に謝し(関東諸公に礼を尽くして頼み)、(関東諸公が)勤めて国家を念じるようにさせてほしい(努力謝関東諸公,勤以国家為念)。」
李傕と郭汜が南宮掖門に駐屯し、太僕・魯馗、大鴻臚・周奐、城門校尉・崔烈、越騎校尉・王頎を殺しました。吏民の死者も一万余人に上り、街中が混乱に陥ります(狼籍満道)。
李傕等が城門の下で地に伏して叩頭しました。
李傕等が言いました「董卓は陛下に対して忠であったのに、故(理由)もなく呂布に殺されたので、臣等は董卓のために讎に報いるのです。敢えて叛逆を為すのではありません。事が済んだら廷尉を訪ねて罪を受けることを請います。」
朝廷は李傕を揚武将軍に、郭汜を揚烈将軍に任命し、樊稠等を全て中郎将にしました。
『後漢書・孝献帝紀』は「董卓の部曲の将・李傕、郭汜、樊稠、張済等が反して京師を攻めた。六月戊午(初一日)、長安城を落とした。太常・种拂、太僕・魯旭(『資治通鑑』では「魯馗」)、大鴻臚・周奐、城門校尉・崔烈、越騎校尉・王頎がそろって戦没し、吏民の死者が一万余人に上った。李傕等が共に自ら将軍になった。己未(初二日)、天下に大赦した」と書いており、大赦前に李傕等が将軍になっています。
『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』では天下に大赦した後、李傕、郭汜、樊稠等が将軍になっており、『欽定四庫全書・後漢記』でも己未(初二日)に大赦してから李傕等を将軍に任命しています。『資治通鑑』の記述は『後漢記』に従っています。
李傕等は王允を殺そうとしましたが、二郡が憂患になることを恐れ、まず宋翼と王宏を招きました。
王宏が使者を宋翼に送ってこう伝えました「郭汜と李傕は我々二人が外にいるので、まだ王公を危めていない(故未危王公)。今日、召還に応じたら、明日には共に族滅されるだろう。良い計はないか(今日就徵明日俱族,計将安出)。」
宋翼が言いました「禍福は量り難いが王命だ。避けることはできない。」
王宏が言いました「関東の義兵が鼎沸(鼎が沸騰すること。騒乱、喧噪の様子)して董卓誅滅を欲していたが、今、董卓が既に死んだので、その党与は容易に制すことができる(其党与易制耳)。もし兵を挙げて共に李傕等を討ち、山東と互いに応じれば、これが禍を転じて福と為す計になる。」
宋翼はこれに従いませんでした。
王宏も一人で行動するには力が足りなかったため、共に招きに応じます。
王宏が臨命の際(死に臨んだ時)、罵ってこう言いました「宋翼の豎儒(愚かな儒生、読書人)は大計を議すに足りない!」
李傕は王允の死体を市に曝しました。
敢えて死体を収めようとする者がいませんでしたが、故吏(旧部下)の平陵令・京兆の人・趙戩だけは官を棄てて死体を収め、埋葬しました。
李傕等が賈詡を左馮翊に任命し、更に封侯しようとしました。
しかし賈詡は「これは救命の計です。何の功があるでしょう(何功之有)」と言って固く辞退しました。
李傕等は賈詡を尚書僕射にしようとしましたが、賈詡は「尚書僕射は官の師長であり、天下が望むところです(天下が望みを託している官です)。詡(私)の名は元から重くないので、人を服すことができません(非所以服人也)」と言いました。
賈詡は尚書に任命されました。
袁術はこれを患います。
丙子(十九日)、前将軍・趙謙を司徒にしました。
九月、李傕を車騎将軍・領司隸校尉(司隸校尉兼任)に任命し、符節を与えました(『資治通鑑』は「以李傕為車騎将軍領司隸校尉假節」ですが、『孝献帝紀』では「李傕自為車騎将軍(李傕が自ら車騎将軍になった)」です)。
また、郭汜を後将軍に、樊稠を右将軍に、張済を驃騎将軍に任命し、全て封侯しました。
李傕、郭汜、樊稠が共に朝政を行いました。
張済は京師を出て弘農に駐屯しました。
司徒・趙謙を罷免しました。
しかしちょうど董卓が殺されました。
次回に続きます。