東漢時代335 献帝(十七) 青州兵 192年(5)

今回で東漢献帝初平三年が終わります。
 
[十八] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、太尉皇甫嵩を罷免し、光禄大夫周忠を太尉にして尚書の主管に参与させました(参録尚書事。司徒淳于嘉、司空楊彪と今回太尉になった周忠の三人で尚書を主管しました)
 
[十九] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
曹操が黄巾青州黄巾)を追撃して済北に至りました。黄巾は投降を乞います。
曹操は全ての投降を受け入れ、戎卒(兵士)三十余万、男女百余万口を得ました。その中から精鋭を収めて青州兵と号しました。
 
曹操が陳留の人毛玠を招聘して治中従事に任命しました。
毛玠が曹操に言いました「今は天下が分崩(分裂崩壊)して乗輿(皇帝)が播蕩(流亡)し、生民が業を廃して饑饉流亡しており、公家には経歳の儲(年を越える蓄え)がなく、百姓には安固の志(安定平安を求める意志や希望)がないので、持久するのは困難です(このような状況は長く続きません。原文「難以持久」)。兵とは義の者が勝ち、財によって位を守るものです(夫兵義者勝,守位以財)。天子を奉じることで不臣(臣服しない者)に号令し、耕植(農業)を整えて軍資を蓄えるべきです(宜奉天子以令不臣,脩耕植以畜軍資)。このようにすれば、霸王の業を成すことができます。」
資治通鑑』胡三省注は曹操が群雄を除くことができた理由を「天子を迎えて許を都とし、屯田によって穀物を蓄えたからに過ぎない。この二事は毛玠が謀を発したのである」と解説しています。
 
曹操は毛玠の言を採用し、使者を派遣して河内太守張楊を訪ねさせました。張楊に道を借りて西の長安に使者を送ろうとします。
しかし張楊は同意しませんでした。
 
定陶の人董昭が張楊を説得して言いました「袁曹は一家になっていますが、久しく連合しているはずがありません(勢不久群)曹操は今は弱小ですが、実は天下の英雄なので、機会を探して結ぶべきです。今は縁(道を借りようとしたこと)があるのでなおさらです(当故結之,況今有縁)。上事を通じさせ(使者が朝廷に上書する道を通じさせ)、併せて上表して曹操を)推薦するべきです(宜通其上事并表薦之)。もし事が成ったら、永く深分(深い交情)になります。」
 
張楊曹操の使者が上書する道を通し、更に上表して曹操を推薦しました。
董昭も曹操のために書信を書いて李傕、郭汜等に送り、それぞれの軽重(地位の高低)に合わせて丁重に礼物を贈りました(各隨軽重致殷勤)
 
李傕と郭汜が曹操の使者に会いました。
しかし李傕等は関東が自ら天子を立てることを欲しており、今回、曹操の使命(命を受けた使者)が来たものの、誠実ではないと考え、使者を拘留することを議論しました。
黄門侍郎鍾繇が李傕と郭汜を説得して言いました「今は英雄が並び起ち、それぞれ矯命(偽の命令)によって専制していますが、曹兗州(兗州刺史曹操だけは王室に心があります(乃心王室)。それなのにその忠款(忠誠)に逆らうのは、将来の望にそうことではありません(非所以副将來之望也)。」
李傕と郭汜は(曹操に対して)厚く答礼しました(厚加報答)
鐘繇は鐘皓桓帝建和三年149年参照)の曾孫です。
 
[二十] 『三国志魏書一武帝紀』は、曹操青州黄巾討伐後にこう書いています「袁術袁紹に隙(対立)があり、袁術は公孫瓉に援助を求めた。公孫瓉は劉備を高唐に、単経を平原に、陶謙を発干に駐屯させて袁紹を逼迫した。曹操袁紹と合流してこれを撃ち、皆破った。」
資治通鑑』はこの記述を省略しています。
 
[二十一] 『資治通鑑』からです。
徐州刺史陶謙と諸守相(太守や国相)朱儁に)奏記(意見を述べた文書)を提出し、朱儁を太師に推しました陶謙等は中牟にいる朱儁を太師に推し、李傕等を討伐するために朱儁の指示を仰ぐという奏記を送りました。『後漢書皇甫嵩朱儁列伝(巻七十一)』によると、「徐州刺史陶謙、前揚州刺史周乾、琅邪相陰徳、東海相劉馗、彭城相汲廉、北海相孔融、沛相袁忠、太山(泰山)太守応劭、汝南太守徐璆、前九江太守服虔、博士鄭玄等」が奏記を書いています)
併せて各地の牧伯(州牧)に檄を届け、共に李傕等を討伐して天子を東方に迎えようとします。
しかしちょうど李傕が太尉周忠や尚書賈詡の策を採用し、朱儁を招いて入朝させました。
朱儁陶謙の議を辞退して招きに応じ、再び太僕に任命されました。
 
[二十二] 『資治通鑑』からです。
公孫瓉が再び兵を派遣して袁紹を撃ち、龍湊(地名)に到りました。
しかし袁紹がこれを撃破したため、公孫瓉は幽州に還り、この後、敢えて出撃しなくなりました。
 
[二十三] 『資治通鑑』からです。
揚州刺史汝南の人陳温が死にました。
そこで袁紹が袁遺に揚州刺史を領させました(原文「領揚州」。当時の袁遺は山陽太守でした。この「領」は「担当させた」という意味だと思います)
しかし袁術がこれを撃破したため、袁遺は逃走して沛に到りましたが、兵に殺されました。
袁術が下邳の人陳瑀を揚州刺史にしました。
 
後漢書孝献帝紀』は初平四年(翌年)三月に「袁術が楊州(揚州)刺史陳温を殺して淮南を占拠した」と書いており、『三国志魏書六董二袁劉伝』の本文にも、「袁術が揚州刺史陳温を殺してその州を領した」とあります。
しかし裴松之注は『英雄記東漢王粲。佚書)』から引用して「陳温の字は元悌といい、汝南の人である。揚州刺史になったが病死し(自病死)袁紹が袁遺を派遣して州を領させた」と書いています。
また、『資治通鑑』胡三省注によると、『九州春秋西晋司馬彪)』に「初平三年(本年)、揚州刺史陳禕が死に、袁術が陳瑀に州を領させた」と書かれています。
資治通鑑』は『英雄記』と『九州春秋』に従っており、『九州春秋』の「陳禕」を「陳温」に改めています。
 
 
次回に続きます。