東漢時代335 献帝(十七) 青州兵 192年(5)
毛玠が曹操に言いました「今は天下が分崩(分裂崩壊)して乗輿(皇帝)が播蕩(流亡)し、生民が業を廃して饑饉流亡しており、公家には経歳の儲(年を越える蓄え)がなく、百姓には安固の志(安定・平安を求める意志や希望)がないので、持久するのは困難です(このような状況は長く続きません。原文「難以持久」)。兵とは義の者が勝ち、財によって位を守るものです(夫兵義者勝,守位以財)。天子を奉じることで不臣(臣服しない者)に号令し、耕植(農業)を整えて軍資を蓄えるべきです(宜奉天子以令不臣,脩耕植以畜軍資)。このようにすれば、霸王の業を成すことができます。」
しかし張楊は同意しませんでした。
定陶の人・董昭が張楊を説得して言いました「袁・曹は一家になっていますが、久しく連合しているはずがありません(勢不久群)。曹操は今は弱小ですが、実は天下の英雄なので、機会を探して結ぶべきです。今は縁(道を借りようとしたこと)があるのでなおさらです(当故結之,況今有縁)。上事を通じさせ(使者が朝廷に上書する道を通じさせ)、併せて上表して(曹操を)推薦するべきです(宜通其上事并表薦之)。もし事が成ったら、永く深分(深い交情)になります。」
李傕と郭汜が曹操の使者に会いました。
黄門侍郎・鍾繇が李傕と郭汜を説得して言いました「今は英雄が並び起ち、それぞれ矯命(偽の命令)によって専制していますが、曹兗州(兗州刺史・曹操)だけは王室に心があります(乃心王室)。それなのにその忠款(忠誠)に逆らうのは、将来の望にそうことではありません(非所以副将來之望也)。」
[二十] 『三国志・魏書一・武帝紀』は、曹操の青州黄巾討伐後にこう書いています「袁術と袁紹に隙(対立)があり、袁術は公孫瓉に援助を求めた。公孫瓉は劉備を高唐に、単経を平原に、陶謙を発干に駐屯させて袁紹を逼迫した。曹操は袁紹と合流してこれを撃ち、皆破った。」
『資治通鑑』はこの記述を省略しています。
徐州刺史・陶謙と諸守相(太守や国相)が(朱儁に)奏記(意見を述べた文書)を提出し、朱儁を太師に推しました(陶謙等は中牟にいる朱儁を太師に推し、李傕等を討伐するために朱儁の指示を仰ぐという奏記を送りました。『後漢書・皇甫嵩朱儁列伝(巻七十一)』によると、「徐州刺史・陶謙、前揚州刺史・周乾、琅邪相・陰徳、東海相・劉馗、彭城相・汲廉、北海相・孔融、沛相・袁忠、太山(泰山)太守・応劭、汝南太守・徐璆、前九江太守・服虔、博士・鄭玄等」が奏記を書いています)。
併せて各地の牧伯(州牧)に檄を届け、共に李傕等を討伐して天子を東方に迎えようとします。
しかし袁紹がこれを撃破したため、公孫瓉は幽州に還り、この後、敢えて出撃しなくなりました。
揚州刺史・汝南の人・陳温が死にました。
しかし袁術がこれを撃破したため、袁遺は逃走して沛に到りましたが、兵に殺されました。
『後漢書・孝献帝紀』は初平四年(翌年)三月に「袁術が楊州(揚州)刺史・陳温を殺して淮南を占拠した」と書いており、『三国志・魏書六・董二袁劉伝』の本文にも、「袁術が揚州刺史・陳温を殺してその州を領した」とあります。
『資治通鑑』は『英雄記』と『九州春秋』に従っており、『九州春秋』の「陳禕」を「陳温」に改めています。
次回に続きます。