東漢時代336 献帝(十八) 陶謙 193年(1)
癸酉 193年
春正月甲寅朔、日食がありました。
『孝献帝紀』の注と『欽定四庫全書・後漢記』によると、未晡八刻(「晡」の八刻前。「晡」は午後3時から5時、「一刻」は12分です)に太史令・王立が上奏しました「晷(時計)が度を過ぎましたが、変化がありません(日食が予測された時間を過ぎましたが、変化がありません。原文「晷過度,無変也」)。」
その結果、未晡一刻(「晡」の一刻前)に日食がありました。
『資治通鑑』は前年の事としています。
袁術は退いて封丘を守ります。
曹操は追撃して太寿に至り、渠水(水路。運河)を決壊させて城に水を注ぎました。袁術は寧陵に走りました(原文「術走襄邑,追到太寿,決渠水灌城。走寧陵」。『三国志集解』によると、太寿は襄邑と寧陵の間にあったようですが、詳しくは分かりません。袁術が襄邑から太寿に走り、追撃した曹操が水渠を決壊させて太寿城を水没させたのだと思います。しかし「袁術が太寿に走った」という記述がないので、あるいは、曹操が太寿で水渠を決壊させて襄邑に水を注いだため、袁術が襄邑から寧陵に走ったのかもしれません)。
袁術は退いて陰陵を守り、淮北で兵を集めてから再び寿春に向かいました。
『資治通鑑』胡三省注によると、陰陵、寿春の二県は九江郡に属します。寿春は揚州刺史の治所です。
陳瑀は恐れて故郷の下邳に逃げ帰りました。
士卒が疲困してどちらも糧食が尽きたため、互いに百姓から略奪します。その結果、野に青草がなくなりました。
袁紹は兵を還して斥丘に駐屯しました。
夏、曹操が軍を定陶に還しました。
徐州の治中・東海の人・王朗と別駕・琅邪の人・趙昱が刺史・陶謙を説得してこう言いました「諸侯(の支持)を求めるなら勤王に勝ることはありません(原文「求諸侯莫如勤王」。『資治通鑑』胡三省注によると、『春秋左氏伝』の晋大夫・狐偃の言を引用しています)。今、天子は西京に到っているので(天子越在西京)、使者を送って奉貢するべきです(貢物を献上するべきです)。」
また、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守に任命しました。
当時、徐方(徐州。この「方」は「州」の意味です)の百姓は殷盛(富裕)で、穀物が甚だ豊かだったため(『資治通鑑』は「穀実差豊」と書いていますが、『後漢書・劉虞公孫瓚陶謙列伝(巻七十三)』では「穀実甚豊」です。恐らく、『資治通鑑』の「差豊」は「甚豊」の誤りです)、流民の多くが帰順しました。
しかし陶謙が讒邪を信用して忠直を疎遠にしたため、刑政が治まらず、徐州はしだいに乱れて行きました。
この時、陶謙が甚だ厚い礼で許劭を遇しましたが、許劭は徒(弟子)に「陶恭祖(恭祖は陶謙の字です)は外(表面)は声名を慕っているが、内は真正ではない。私を厚く遇しているが、将来必ず薄くなる(待吾雖厚其勢必薄)」と言って去りました。
『後漢書・郭符許列伝(巻六十八)』によると、朝廷が許劭を召しても許劭は応じず、知人が仕官を勧めても「今は小人の道が長く(小人が権勢を得ており。原文「小人道長」)、王室が乱れようとしている。私は難を避けて淮海に移り、老幼を全うしたいと思う(吾欲避地淮海以全老幼)」と言って南の広陵に到りました。この時、陶謙が許劭に対して厚礼を用いましたが、許劭は曲阿にいる揚州刺史・劉繇に投じました。
五月癸酉、雲がないのに雷が鳴りました(無雲而雷)。
六月、扶風で大いに雹が降りました(大雨雹)。
華山が崩裂しました。
次回に続きます。