東漢時代336 献帝(十八) 陶謙 193年(1)

今回は東漢献帝初平四年です。三回に分けます。
 
東漢献帝初平四年
癸酉 193
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月甲寅朔、日食がありました。
 
孝献帝紀』の注と『欽定四庫全書後漢記』によると、未晡八刻(「晡」の八刻前。「晡」は午後3時から5時、「一刻」は12分です)に太史令王立が上奏しました「晷(時計)が度を過ぎましたが、変化がありません(日食が予測された時間を過ぎましたが、変化がありません。原文「晷過度,無変也」)。」
朝臣が皆祝賀しましたが、献帝は秘かに尚書に命じて観測させました。
その結果、未晡一刻(「晡」の一刻前)に日食がありました。
尚書賈詡が上奏しました「王立は天象を観測して不明で、上下を困惑させました(司候不明疑誤上下)(中略。)理官(法官)に送ることを請います(請付理官)。」
しかし献帝はこう言いました「天道は幽遠で、事験(事の効果、現象)を明らかにするのは難しい。(中略)咎を史官に帰そうと欲したら、ますます朕の不徳を重くすることになる。」
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁卯(十四日)、天下に大赦しました。
 
『欽定四庫全書後漢記』は五月丁卯に大赦を書いていますが、『資治通鑑』は『孝献帝紀』に従って正月に書いています(胡三省注参照)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』はここで「三月、袁術が楊州(揚州)刺史陳温を殺し、淮南を占拠した」と書いています。
資治通鑑』は前年の事としています。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
曹操が鄄城(または「甄城」。『資治通鑑』胡三省注によると、済陰郡に属します)に駐軍しました。
 
荊州劉表袁術を逼迫して糧道を断ったため、袁術は軍を率いて陳留に入り、封丘に駐屯しました。
黒山別部(『資治通鑑』では「別部」、『武帝紀』では「余賊」です)匈奴単于於扶羅於夫羅等が全て袁術に附きます。
 
袁術が将劉詳を派遣して匡亭に駐屯させました。
曹操が劉詳を攻撃したため、袁術が救援に行きましたが、曹操がこれと戦って大破しました。
袁術は退いて封丘を守ります。
曹操が包囲を開始しましたが、包囲が完成する前に(未合)袁術が襄邑に走りました。
曹操は追撃して太寿に至り、渠水(水路。運河)を決壊させて城に水を注ぎました。袁術は寧陵に走りました(原文「術走襄邑,追到太寿,決渠水灌城。走寧陵」。『三国志集解』によると、太寿は襄邑と寧陵の間にあったようですが、詳しくは分かりません。袁術が襄邑から太寿に走り、追撃した曹操が水渠を決壊させて太寿城を水没させたのだと思います。しかし「袁術が太寿に走った」という記述がないので、あるいは、曹操が太寿で水渠を決壊させて襄邑に水を注いだため、袁術が襄邑から寧陵に走ったのかもしれません)
資治通鑑』胡三省注によると、封丘と襄邑の二県は陳留郡に属し、寧陵県は梁国に属します。封丘はかつての封父(国名)で、漢になって封丘県を置きました。寧陵県はかつての甯城で、漢高祖が寧陵県に改めました。
 
曹操袁術を追撃して連勝しました。
袁術は九江に走りましたが、揚州刺史陳瑀が袁術を拒否して受け入れませんでした(陳瑀は前年、袁術によって揚州刺史に任命されました)
袁術は退いて陰陵を守り、淮北で兵を集めてから再び寿春に向かいました。
資治通鑑』胡三省注によると、陰陵、寿春の二県は九江郡に属します。寿春は揚州刺史の治所です。
 
陳瑀は恐れて故郷の下邳に逃げ帰りました。
袁術が揚州を領し(揚州刺史を兼任し)、併せて徐州伯を称します。
 
李傕が袁術と結んで外援にしたいと欲したため、袁術を左将軍に任命して陽翟侯に封じ、符節を与えました(假節)
 
[] 『資治通鑑』からです。
袁紹が公孫瓉に任命された青州刺史田楷と連戦して二年が経ちました。
士卒が疲困してどちらも糧食が尽きたため、互いに百姓から略奪します。その結果、野に青草がなくなりました。
 
袁紹は子の袁譚青州刺史に任命しました。田楷が袁譚と戦いましたが勝てません。
ちょうど趙岐が来て関東を和解させたため(前年、朝廷が太傅馬日磾と太僕趙岐を派遣して関東を鎮撫させました)、公孫瓉が袁紹と和親(婚姻関係を結ぶこと)し、それぞれ兵を退きました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月、袁紹は薄落津(漳水津。漳水の渡し場)にいました。
この時、魏郡の兵が叛して黒山賊于毒等数万人と共に鄴城を襲い、太守を殺しました。
袁紹は兵を還して斥丘に駐屯しました。
資治通鑑』胡三省注によると、斥丘は鉅鹿郡に属す県です。斥鹵の土地(塩化した土地)だったため「斥丘」といいました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
長安・宣平城門外の屋(屋根。または建物)が自然に倒壊しました。
孝献帝紀』の注によると、宣平城門は長安城東面の一番北に位置する門です。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、曹操が軍を定陶に還しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
徐州の治中東海の人王朗と別駕琅邪の人趙昱が刺史陶謙を説得してこう言いました「諸侯(の支持)を求めるなら勤王に勝ることはありません(原文「求諸侯莫如勤王」。『資治通鑑』胡三省注によると、『春秋左氏伝』の晋大夫狐偃の言を引用しています)。今、天子は西京に到っているので(天子越在西京)、使者を送って奉貢するべきです(貢物を献上するべきです)。」
陶謙は趙昱を派遣し、上奏文を持って長安を訪ねさせました。
 
献帝は詔を発して陶謙を徐州牧に任命し、安東将軍を加えて溧陽侯に封じました。
また、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守に任命しました。

当時、徐方(徐州。この「方」は「州」の意味です)の百姓は殷盛(富裕)で、穀物が甚だ豊かだったため(『資治通鑑』は「穀実差豊」と書いていますが、『後漢書劉虞公孫瓚陶謙列伝(巻七十三)』では「穀実甚豊」です。恐らく、『資治通鑑』の「差豊」は「甚豊」の誤りです)、流民の多くが帰順しました。
しかし陶謙が讒邪を信用して忠直を疎遠にしたため、刑政が治まらず、徐州はしだいに乱れて行きました。
 
許劭が災難を避けて広陵に移りました(避地広陵
この時、陶謙が甚だ厚い礼で許劭を遇しましたが、許劭は徒(弟子)に「陶恭祖(恭祖は陶謙の字です)は外(表面)は声名を慕っているが、内は真正ではない。私を厚く遇しているが、将来必ず薄くなる(待吾雖厚其勢必薄)」と言って去りました。
果たして後に陶謙が諸寓士(寄居の士)を逮捕しました。人々は許劭の先識(先見の明)に感服しました。
 
後漢書郭符許列伝(巻六十八)』によると、朝廷が許劭を召しても許劭は応じず、知人が仕官を勧めても「今は小人の道が長く(小人が権勢を得ており。原文「小人道長」)、王室が乱れようとしている。私は難を避けて淮海に移り、老幼を全うしたいと思う(吾欲避地淮海以全老幼)」と言って南の広陵に到りました。この時、陶謙が許劭に対して厚礼を用いましたが、許劭は曲阿にいる揚州刺史劉繇に投じました。
尚、『資治通鑑』では翌年に劉繇が揚州刺史になります。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
五月癸酉、雲がないのに雷が鳴りました(無雲而雷)
 
[十一] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、扶風で大いに雹が降りました(大雨雹)
 
[十二] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
華山が崩裂しました。
 
[十三] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
太尉周忠が罷免され、太僕朱儁が太尉に任命されて尚書を主管することになりました(録尚書事)
 
 
 
次回に続きます。