東漢時代337 献帝(十九) 徐州討伐 193年(2)

今回は東漢献帝初平四年の続きです。
 
[十四] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
下邳の人闕宣(『資治通鑑』では「下邳・闕宣」、『後漢書孝献帝紀』では「下邳賊・闕宣」です。『資治通鑑』胡三省注によると、闕氏は「闕党の童子」の後を継いだ者です。「闕党」は地名、「童子」は二十歳以下の男子で、『論語憲問』に「闕党童子」の故事があります。また、縦横家に闕子の著書があります)が衆数千人を集めて天子を自称しましたが、陶謙がこれを撃って殺しました。
 
三国志魏書一武帝紀』には「下邳の人闕宣が衆数千人を集めて天子を自称した。徐州牧陶謙が共に挙兵し、泰山の華費を取って任城を攻略した。秋、太祖曹操陶謙を征して十余城を下した。陶謙は城を守って敢えて出撃しなかった」とあり、『後漢書劉虞公孫瓚陶謙列伝(巻七十三)』にも「闕宣が天子を自称した。陶謙は始めは合従していたが、後にこれを殺してその衆を併せた(『三国志魏書八二公孫陶四張伝』もほぼ同じです)」とあります。
しかし胡三省は「陶謙は徐州を拠点にしており、義を理由に勤王していたので(託義勤王)、闕宣の数千の衆のために合従する必要はない(何藉宣数千之衆而與之合従)陶謙の別将と闕宣が共に曹嵩曹操の父)を襲ったので(下述します)曹操がこれを陶謙の罪にして討伐したのであろう」と解説しています。
 
[十五] 『後漢書孝献帝紀』からです。
大雨が降りました(雨水)
(朝廷は)侍御史裴茂を派遣して詔獄を調べさせ、軽繋(刑犯罪者)を赦しました。
 
資治通鑑』は「昼夜二十余日にわたって大雨が降り、民居を漂没(漂流水没)させた」と書いています。
これは『後漢書董卓列伝(巻七十二)』の「夏、昼夜二十余日にわたって大雨がふり、人庶を漂没させた。また、冬時(冬季)のような風が吹いた」が元になっています。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
袁紹が出撃して朝歌鹿腸山に入り、于毒を討ちました。五日間包囲攻撃して破り、于毒とその衆一万余級を斬ります。
 
袁紹はそのまま山に沿って北行し、諸賊の左髭丈八等を攻撃して全て斬りました。
 
また、劉石、青牛角黄龍左校、郭大賢、李大目、于氐根等を攻撃し、数万級を斬ります。それらの屯壁(営壁)は皆殺しにされました(皆屠其屯壁)
 
最期に黒山賊張燕および四営の屠各匈奴の一種)、雁門の烏桓と常山で戦いました。
張燕は精兵数万、騎兵数千頭を擁しています。
袁紹呂布と共に張燕を撃ち、十余日にわたって連戦しました。張燕の兵で死傷する者が多数出ましたが、袁紹の軍も疲弊したため、共に撤兵しました。
 
呂布の将士は多くが凶暴横柄だったため、袁紹が患いました。
そこで呂布は雒陽に還ることを求めました。
袁紹は承制(皇帝の代わりに命令を発すこと)によって呂布司隸校尉を兼任させ(領司隸校尉)、壮士を派遣して呂布を送り出しました。但し、実際は秘かに呂布を害そうします。
 
袁紹の謀に気がついた)呂布は帳の中で人に鼓箏(箏を演奏すること。箏は弦楽器です)させ、その間に隠れて逃走しました。
夜、呂布を送った壮士が起きて帳被(帳や寝床)を斬り、全て破壊しました(斫帳被皆壊)
 
明朝、袁紹呂布がまだ生きていると聞いて懼れを抱き、城門を閉じて守りを固めました。
呂布は軍を率いてまた張楊に帰順しました。
 
[十七] 『後漢書孝献帝紀』からです。
六月辛丑、天狗(星の名)が西北に移動しました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
元太尉曹嵩が難を避けて琅邪にいました。
その子曹操が泰山太守応劭に命じて迎えに行かせます。
曹嵩の輜重は百余両(輌)もありました。
 
当時、陶謙の別将が陰平を守っており、その士卒が曹嵩の財宝を自分の物にしようとしました(士卒利嵩財宝)
曹嵩と少子曹徳が華費の間で襲われて殺されてしまいます。
資治通鑑』胡三省注によると、陰平県は東海郡に属し、華費二県は泰山郡に属します。
 
三国志魏書一武帝紀』はこの事件をこう書いています。
曹操の父曹嵩は官を去ってから譙に還りましたが、董卓の乱が起きたため琅邪に避難しました。
ところがそこで陶謙に害されたため、曹操は讎に報いるために東伐するという志を抱きました(志在復讎東伐)
 
以下、『武帝紀』裴松之注からです。
曹嵩は泰山の華県に居ました。曹操が泰山太守応劭に命じて家族を兗州に送らせましたが、 応劭の兵が到着する前に、陶謙が秘かに数千騎を送って掩捕(襲撃逮捕)させました。
曹嵩の家族は応劭が迎えに来たと思っていたため備えを設けていません。
陶謙の兵は到着すると曹操の弟曹徳を門内で殺しました。
懼れた曹嵩は後垣(裏の壁)を穿って先に妾を外に出そうとしました。しかし妾が太っていたため、すぐには脱出できません。曹嵩は厠に逃げましたが、妾と共に害され、闔門(家族。一家)も皆、殺されました。
応劭は懼れて官を棄て、袁紹を訪ねました。
後に曹操冀州を平定した時には、応劭は既に死んでいました。
 
裴松之はもう一つの説を載せています。
曹操が曹嵩を迎えようとしました。曹嵩の輜重は百余両(輌)もあります。
陶謙は都尉張闓に騎兵二百を率いて護衛させました。しかし張闓は泰山の華費の間で曹嵩を殺して財物を奪い、そのまま淮南に奔ってしまいました。
曹操は咎を陶謙に帰して討伐しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
秋、曹操が兵を率いて陶謙を撃ち、十余城を攻めて攻略しました。更に彭城に至って大戦します。
陶謙は兵が敗れて郯に走り、守りを固めました。
資治通鑑』胡三省注によると、郯県は東海郡に属し、徐州刺史の治所です。
 
以前、京(地名)雒が董卓の乱に遭ったため、民が東に流出して多くの人が徐州の地を頼りました。
しかし今回、曹操の進攻に遭い、男女数十万口が泗水で皆殺しにされ、水が流れなくなるほどでした。
 
資治通鑑』は「坑殺男女数十万口於泗水」と書いていますが、『後漢書劉虞公孫瓚陶謙列伝(巻七十三)』では「凡殺男女数十万人」、『三国志魏書八二公孫陶四張伝』では「謙兵敗走,死者万数,泗水為之不流陶謙の兵が敗走し、死者は万を数え、そのために泗水が流れなくなった)」です。『資治通鑑』の「坑殺」は「屠(虐殺。皆殺し)」の意味だと思います。
 
資治通鑑』に戻ります。
曹操は郯を攻めましたが、攻略できなかったため去りました。
しかし慮、睢陵、夏丘を攻め取って虐殺します(皆屠之)。鶏や犬も全て殺され、廃墟となった邑には歩く人がいなくなりました。
資治通鑑』胡三省注によると、慮、睢陵、夏丘の三県とも下邳国に属します。このうち、夏丘は堯が禹を夏伯にした時の邑で、漢が夏丘県にしました。
 
[十九] 『後漢書孝献帝紀』からです。
九月甲午、朝廷が儒生四十余人を試験し、上第(成績が優秀な者)に郎中の位を、次の者に太子舍人の位を下賜しました。下第者(成績が劣る者)は退けます(罷之)
 
献帝が詔を発しました「孔子は『学んでも講じない(研究しない。道理を明らかにしない。原文「学之不講」)』と言って嘆いた。『不講(深く研究しないこと。または復習しないこと)』であったら知識は日々忘れてしまうものだ。今、耆儒(老齢の儒者は年が六十を越え、本土(故郷)から去って離れているが、糧資(生活の糧)を求めて専業できずにいる(学問に専念できないでいる。原文「営求糧資不得専業」)。結童(髪を結ったばかりの児童)にして入学し、白首(白髪)になって空しく帰っても、長く農野を棄てており(長委農野)、永遠に栄望(仕官して栄誉を得る希望)が絶たれている(永絶栄望)。朕はこれを甚だ憐憫する(朕甚愍焉)。よって、試験の結果退けられた者も太子舎人になることを許可する(其依科罷者聴為太子舍人)。」
 
孝献帝紀』の注のよると、当時、長安中でこういう謠(歌)が流行りました「頭髪は純白になり、食事も充たされていない。衣服を包んで裳をまくり(原文「裹衣褰裳」。誤訳かもしれません)、故郷に帰ることになった。しかし聖主が憐憫し、全て用いて郎にした。布衣(平民の服)を棄てて玄黄(彩色の絹織物。貴人の服)を着ることになった(頭白皓然食不充糧。裹衣褰裳当還故郷。聖主愍念悉用補郎。舍是布衣被服玄黄)
 
[二十] 『後漢書孝献帝紀』からです。
冬十月、太学で礼典礼。式典)を行いました。
車駕(皇帝)が永福城門を行幸して儀式に臨観します。
博士以下の者にそれぞれ差をつけて賞賜を与えました。
 
[二十一] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
辛丑(二十二日)、京師で地震がありました。
 
[二十二] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
孛星(異星。彗星の一種)が天市に現れました。
 
孝献帝紀』の注によると、孛星が天市に現れるというのは、天子が都を遷すことを予兆しています。この後、献帝が東遷します。
 
[二十三] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
司空楊彪を罷免しました。
丙午(二十七日)、太常趙温を司空に任命し、尚書の政務を主管させました(録尚書事)
 
 
 
次回に続きます。