東漢時代338 献帝(二十) 劉虞の死 193年(3)

今回で東漢献帝初平四年が終わります。
 
[二十四] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
大司馬・劉虞と公孫瓉の関係がますます悪化しました。
当時は公孫瓉がしばしば袁紹と攻撃し合っており、劉虞がこれを禁じても止められなかったため、劉虞は(公孫瓉が出征した時の)稟假(食糧等の供給)を徐々に削減しました。
怒った公孫瓉は頻繁に節度(指示)に背き、しかも百姓を侵犯するようになりました。
劉虞は公孫瓉を制すことができないため、上奏文を持った駅使(早馬の使者)を朝廷に派遣し、暴掠の罪を陳述しました。
一方の公孫瓉も劉虞による稟糧(食糧の供給)が行き渡っていないことを上書します。
二者の上奏が交互に馳せて提出され、互いに誹謗中傷しましたが、朝廷は是非の判断ができませんでした(原文「朝廷依違而已」。『資治通鑑』胡三省注によると、「依違」は「甲が上奏したら甲の言に従って乙を責め、乙が上奏したら乙の言に従って甲を責め、是非をはっきりさせないこと」です)
 
公孫瓉は薊城東南に小城を築いてそこに住みました。
資治通鑑』胡三省注によると、薊県は広陽国に属し、幽州牧の治所です。
公孫瓉も薊県に居ましたが、劉虞から別れて小城を拠点にしたようです。
 
劉虞がしばしば公孫瓉に会見を請いましたが、公孫瓉はいつも病と称して応じませんでした。
劉虞はいずれ公孫瓉が乱を為すのではないかと恐れ、自分の管轄下にある兵合計十万人を率いて討伐しました。
この時、公孫瓉の部曲は外に分散していました。公孫瓉は急いで東城(東南の小城)を掘って(壁に穴を開けて)逃走しようとしました。
 
しかし劉虞の兵には部伍(軍の編成、規則)がなく、戦にも習熟していませんでした。また、劉虞が民の廬舍を大切にしたため、放火を禁止する命令を出し、軍士を戒めてこう言いました「余人(他の者)を傷つけてはならない。一伯珪(伯珪は公孫瓉の字です)を殺すだけだ。」
そのため、劉虞は城を包囲攻撃しても攻略できませんでした。
 
そこで公孫瓉は鋭士数百人を簡募(選択募集)し、風に乗じて火を放ってから直接突撃しました。
劉虞の兵衆が大壊滅します。
劉虞は官属と共に北の居庸に奔りました。
資治通鑑』胡三省注によると、居庸県は上谷郡に属します。
 
公孫瓉は劉虞を追撃して居庸を攻め、三日で攻略しました。劉虞と妻子を捕えて薊に還り、その後も劉虞に州の文書を管理させます。
 
ちょうど献帝が詔を発して使者段訓を派遣し、劉虞の封邑を増やして六州の政務を監督させることにしました(督六州事)。また、公孫瓉を前将軍に任命して易侯に封じました。
公孫瓉はこの機に「劉虞はかつて袁紹等と共に尊号を称すことを謀った」と誣告し、段訓を脅迫して劉虞と妻子を薊の市で斬らせました。
元常山相孫瑾、掾張逸、張瓉等が互いに劉虞に就き(劉虞を囲み。劉虞を庇い)、口を極めて公孫瓉を罵ったため、一緒に殺されます。
 
公孫瓉は劉虞の首を京師に送りました。しかし故吏(旧部下)の尾敦(尾が姓、敦が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、古に尾生という者がいました)が道中で首を奪い、帰って埋葬しました。
 
劉虞は恩厚によって衆心を得ていたため、北州の百姓は流民も古くから住んでいる者も皆、痛惜しました。
 
以前、劉虞が使者に上奏文を持たせて長安に派遣しようとしましたが、相応しい人材がいませんでした(而難其人)
衆人が皆、「右北平の人田疇は二十二歳で、まだ年が若いですが、奇材があります」と言ったので、劉虞は礼を備えて田疇を招き、掾に任命しました。
 
田疇が車騎を準備して出発しようとした時、劉虞にこう言いました「今は道路が阻絶(断絶)して寇虜が縦横しているので、官員が命を奉じて使者になったと称したら衆人の標的になります(称官奉使,為衆所指)。私人として行動することを願います。ただ到着できることを望むだけです(願以私行,期於得達而已)。」
劉虞はこれに同意しました。
そこで田疇は自ら家の賓客二十騎を選び、共に西関に登って塞を出て、北山に沿って直接、朔方に向かいました(『資治通鑑』胡三省注によると「西関」は居庸関、「北山」は陰山です)。その後、間道から長安に入って使命を伝えます。
 
献帝は詔によって田疇を騎都尉に任命しました。
しかし田疇は天子が蒙塵(砂塵を被ること、流亡を意味します)してまだ安んじていなかったため、栄寵を受けてはならないと考え、固く辞退しました。
 
田疇は朝廷の回答を得てから幽州に馳せて還りましたが、到着した時には劉虞が既に死んでいました。
田疇は劉虞の墓を謁祭(拝謁祭祀)し、章表(章報。上奏文に対する回答)を述べて報告してから哭泣して去りました。
それを知って公孫瓉が激怒しました。奨金を懸けて田疇を捕え(購求獲疇)、「汝は章報をわしに送らなかったがなぜだ?」と問います。
田疇が言いました「漢室が衰頽し、人々が異心を抱いていますが、ただ劉公だけは忠節を失いませんでした。章報が語っている内容は、将軍に対しては賛美していないので(於将軍未美)、恐らく喜んで聞くところではないと思い、進めなかったのです(恐非所楽聞故不進也)。そもそも、将軍は既に無罪の君を滅ぼしました。また、義を守る臣を怨んだら(讎守義之臣)、疇(私)は燕趙の士が皆、東海に走って死に(蹈東海而死)、将軍に従う者がいなくなるのではないかと恐れます。」
公孫瓉は田疇を釈放しました。
 
田疇は北の無終に帰りました。
資治通鑑』胡三省注によると、無終県は右北平郡に属します。春秋時代無終子の国でした。
 
田疇は宗族や附従した者数百人を統率し、地を掃いて盟を立てました「君の仇に報いなかったら、私は世に立ってはならない(君仇不報,吾不可以立於世)。」
その後、徐無山中に入ります。
資治通鑑』胡三省注によると、徐無も右北平郡に属す県で、徐無山がありました。
 
田疇は深険な場所で平坦な地を選んで住居を造り、自ら耕作して父母を養いました。
百姓が田疇に帰順し、数年の間に五千余家が集まります。
そこで田疇が父老に言いました「今、衆が都邑を成しましたが、互いに統一しておらず、また法制によって治めてもいません。これは恐らく久安の道ではありません。疇(私)に愚計があり、諸君と共にこれを実施することを願います。よろしいでしょうか(可乎)?」
皆、「可」と言って同意しました。
そこで田疇は約束(規則)を作りました。殺傷、犯盗(強盗、窃盗)、諍訟(争いの訴訟)は軽重に従って処罰し、重い者は死刑に至ります。合計十余條の規則ができました。
また、婚姻嫁娶の礼(婚姻の礼制)と学校の講授の業(学校の授業内容)を制定し、民衆に公開して実施しました。人々は皆これらの制度に習熟し(または「これを便とし」「これらの制度に利便があると思い」。原文「衆皆便之」)、道に落ちている物も拾って横領しなくなりました(道不拾遺)
 
北辺がそろって田疇の威信に服し、烏桓鮮卑もそれぞれ使者を送って礼物を届けました。
田疇は全て慰撫して受け入れ、(田疇の村落を)侵犯させないようにしました。
 
[二十五] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月辛丑(二十三日)地震がありました。
 
[二十六] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
司空趙温を罷免しました。
乙巳(二十七日)、衛尉張喜(『孝献帝紀』の注によると「張嘉」とも書きます)を司空にしました。
 
[二十七] 『後漢書孝献帝紀』からです。
この年、琅邪王容が死にました。
 
琅邪王は光武帝の子劉京(琅邪孝王)の家系で、劉容の諡号は順王です霊帝中平二年185年参照)
 
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉容の死後、国が途絶えました。

劉容は生前に弟の劉邈を長安に送って貢物を献上しました。献帝は劉邈を九江太守に任命し、陽都侯に封じます。この時、劉邈は東郡太守曹操が帝に対して忠誠であると盛んに称賛しました。そのため曹操は劉邈に感謝し、献帝建安十一年206年)に再び劉容の子劉熙を琅邪王に立てました。
しかしその十一年後(建安二十一年216年)、劉熙が長江を渡ろうと謀ったため曹操支配下から逃れようとしたため)、罪を問われて誅殺され、国が廃されました(再述します)
 
[二十八] 『三国志魏書一武帝紀』は「この年、孫策袁術の指示を受けて渡江し、数年の間に江東を有した」と書いています。『資治通鑑』では献帝興平二年195年)孫策が渡江します。
 
 
 
次回に続きます。