甲戌 194年
春正月辛酉(十三日)、天下に大赦し、初平五年から興平元年に改元しました。
二月戊寅(初一日)、有司(官員)が長秋宮(皇后を指します)を立てるように上奏しました。
献帝が詔を発しました「皇妣(皇帝の母。王美人)の宅兆(墓地)もまだ卜っていないのに(墓地の場所もまだ決めていないのに。原文「皇妣宅兆未卜」)、どうして後宮の選について言えるのか(何忍言後宮之選乎)。」
壬午(初五日)、三公が皇妣・王夫人(王美人)の改葬について上奏し、尊号を追贈して霊懐皇后と呼ぶことにしました。
甲申(初七日)、霊懐皇后を文昭陵に改葬しました。
『後漢書・皇后紀下』によると、文昭陵には何皇后(少帝の母)も合葬されました。
文昭陵は霊帝の陵墓である「文陵」に隣接していたと思われます。
曹操の攻撃を受けた徐州牧・陶謙は使者を送って青州刺史・田楷に急を告げました。
この時、劉備自身には千余人の兵および幽州の烏丸・雑胡(各種民族)の騎兵がおり、また、飢民数千人を掠め取っていました(略得飢民数千人)。
徐州に到着すると、陶謙が更に丹陽兵四千を与えたため、劉備は田楷から去って陶謙に帰順しました。
そこで陶謙が上表して劉備を豫州刺史に任命し、小沛に駐屯させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、この後、劉備は「劉豫州」と呼ばれるようになります。豫州刺史の治所は譙ですが、劉備は小沛に駐屯しました。当時は劉備の他に豫州刺史・郭貢がいたためです。既に朝命が行われず、各地で勝手に刺史が置かれるようになっていました。
沛国の治所は相県ですが、沛国内に沛という県があり、人々から小沛と呼ばれていました。
曹操は軍食(軍糧)が尽きたため、兵を率いて徐州から還りました。
馬騰が私事を李傕に依頼しましたが、満足できなかったため激怒し(不獲而怒)、兵を挙げて攻撃しようとしました。
献帝が使者を送って和解させようとしても従いません。
韓遂も衆を率いて馬騰と李傕を和解させに行きましたが、逆に馬騰と連合してしまいました。
『資治通鑑』胡三省注は「韓遂は李傕が与するに足りないと知ったからだ」と解説しています。
諫議大夫・种卲、侍中・馬宇、左中郎将・劉範が計謀を練りました。馬騰に長安を襲わせ、自ら内応になって李傕等を誅殺するという内容です。
『孝献帝紀』の注によると、当時は李傕等が専権して朝廷を混乱させていたため、馬騰が李傕誅滅を謀りました。そこで、宗室の大臣である益州刺史・劉焉に使者を送り、共に李傕を誅殺するように誘います。
劉焉は子の劉範に命じ、兵を率いて馬騰に就かせました。
种劭は太常・种拂の子です。种拂が李傕に殺されたため(献帝初平三年・192年)、仇に報いたいと思っていました。
壬申(中華書局『白話資治通鑑』は「壬申」を恐らく誤りとしています)、馬騰と韓遂が兵を率いて長平観に駐屯しました。
しかし种卲等の謀が漏れたため、种卲等は槐里に出奔しました。
李傕は樊稠、郭汜および李傕の兄の子・李利に命じて迎撃させました。
樊稠等は更に槐里を攻めました。种卲、劉範等が全て戦死します。
庚申(中華書局『白話資治通鑑』は「庚申」を恐らく誤りとしています)、献帝が詔を発して馬騰等を赦しました。
夏四月、馬騰を安狄将軍に、韓遂を安降将軍に任命しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、李傕等は馬騰と韓遂を制御する力がなかったため、詔を下してその罪を赦しました。
また、この二将軍の号は一時的に設けられたもので、後世には置かれませんでした。
次回に続きます。