東漢時代339 献帝(二十一) 馬騰 韓遂 194年(1)

今回は東漢献帝興平元年です。七回に分けます。
 
東漢献帝興平元年
甲戌 194
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月辛酉(十三日)、天下に大赦し、初平五年から興平元年に改元しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
甲子(十六日)献帝元服しました(加元服
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
二月戊寅(初一日)、有司(官員)が長秋宮(皇后を指します)を立てるように上奏しました。
献帝が詔を発しました「皇妣(皇帝の母。王美人)の宅兆(墓地)もまだ卜っていないのに(墓地の場所もまだ決めていないのに。原文「皇妣宅兆未卜」)、どうして後宮の選について言えるのか(何忍言後宮之選乎)。」
 
壬午(初五日)、三公が皇妣王夫人(王美人)の改葬について上奏し、尊号を追贈して霊懐皇后と呼ぶことにしました。
 
甲申(初七日)、霊懐皇后を文昭陵に改葬しました。
後漢書皇后紀下』によると、文昭陵には何皇后(少帝の母)も合葬されました。
文昭陵は霊帝の陵墓である「文陵」に隣接していたと思われます。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
丁亥(初十日)献帝が藉田を耕しました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』三国志蜀書二先主伝』と資治通鑑』からです。
曹操の攻撃を受けた徐州牧陶謙は使者を送って青州刺史田楷に急を告げました。
田楷は平原相劉備と共に徐州を救いに行きます。
この時、劉備自身には千余人の兵および幽州の烏丸(各種民族)の騎兵がおり、また、飢民数千人を掠め取っていました(略得飢民数千人)
徐州に到着すると、陶謙が更に丹陽兵四千を与えたため、劉備は田楷から去って陶謙に帰順しました。
そこで陶謙が上表して劉備豫州刺史に任命し、小沛に駐屯させました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、この後、劉備は「劉豫州」と呼ばれるようになります。豫州刺史の治所は譙ですが、劉備は小沛に駐屯しました。当時は劉備の他に豫州刺史郭貢がいたためです。既に朝命が行われず、各地で勝手に刺史が置かれるようになっていました。
沛国の治所は相県ですが、沛国内に沛という県があり、人々から小沛と呼ばれていました。
 
曹操は軍食(軍糧)が尽きたため、兵を率いて徐州から還りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
馬騰が私事を李傕に依頼しましたが、満足できなかったため激怒し(不獲而怒)、兵を挙げて攻撃しようとしました。
献帝が使者を送って和解させようとしても従いません。
韓遂も衆を率いて馬騰と李傕を和解させに行きましたが、逆に馬騰と連合してしまいました。
資治通鑑』胡三省注は「韓遂は李傕が与するに足りないと知ったからだ」と解説しています。
 
諫議大夫种卲、侍中馬宇、左中郎将劉範が計謀を練りました。馬騰長安を襲わせ、自ら内応になって李傕等を誅殺するという内容です。
 
种卲を「諫議大夫」としているのは『資治通鑑』で、『孝献帝紀』では「前益州刺史」、『孝献帝紀』の注では「故(元)涼州刺史」です。
孝献帝紀』の注によると、当時は李傕等が専権して朝廷を混乱させていたため、馬騰が李傕誅滅を謀りました。そこで、宗室の大臣である益州刺史劉焉に使者を送り、共に李傕を誅殺するように誘います。
劉焉は子の劉範に命じ、兵を率いて馬騰に就かせました。
种劭は太常种拂の子です。种拂が李傕に殺されたため献帝初平三年192年)、仇に報いたいと思っていました。
 
壬申(中華書局『白話資治通鑑』は「壬申」を恐らく誤りとしています)馬騰韓遂が兵を率いて長平観に駐屯しました。
しかし种卲等の謀が漏れたため、种卲等は槐里に出奔しました。
 
李傕は樊稠、郭汜および李傕の兄の子李利に命じて迎撃させました。
郭汜、樊稠等は長平観で馬騰等を破ります。
馬騰韓遂涼州に逃げ還りました。
 
樊稠等は更に槐里を攻めました。种卲、劉範等が全て戦死します。
 
庚申(中華書局『白話資治通鑑』は「庚申」を恐らく誤りとしています)献帝が詔を発して馬騰等を赦しました。
 
夏四月、馬騰を安狄将軍に、韓遂を安降将軍に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、李傕等は馬騰韓遂を制御する力がなかったため、詔を下してその罪を赦しました。
また、この二将軍の号は一時的に設けられたもので、後世には置かれませんでした。
 
 
 
次回に続きます。