東漢時代340 献帝(二十二) 張邈 194年(2)

今回は東漢献帝興平元年の続きです。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
兗州刺史曹操が司馬荀彧、寿張令(県令)程昱に鄄城(『資治通鑑』では「甄城」ですが、「鄄城」が正しいはずです。兗州刺史の治所は昌邑でしたが、曹操が刺史になってから鄄城を治所にしたようです)を守らせ、再び陶謙征討に行きました。
曹操は五城を落としてからそのまま各地を攻略して琅邪、東海に至りました。経由した場所が残滅(破壊)されます。
 
その後、兵を還して郯を通りました。
陶謙の将曹豹と劉備が郯東に駐屯して曹操を邀撃しましたが、曹操がこれを撃破します。
曹操は襄賁を攻めて破り、通った場所の多くで残戮(殺戮)が行われました。
 
恐れた陶謙は逃走して丹陽に帰ろうとしました(『資治通鑑』胡三省注によると、陶謙は丹陽の人です)
 
しかしちょうどこの時、陳留太守張邈と陳宮曹操に叛して呂布を迎え入れたため、曹操は軍を率いて還りました。
 
陳留太守張邈は若い頃、遊侠を好み、袁紹曹操と友善な関係になりました。
袁紹董卓討伐連合の盟主になった時、驕色(驕慢な態度)があったため、張邈が議を正して(正論によって)袁紹を責めました。すると袁紹は怒って曹操に張邈を殺させました。
しかし曹操は同意せず、こう言いました「孟卓(張邈の字)は親友だから是非があっても許容するべきだ。今、天下がまだ定まらないのに、どうして自ら互いに危めるのだ(柰何自相危也)。」
 
前年、曹操陶謙を攻撃した時、決死の志を抱いて家族にこう命じました「もしわしが還らなかったら、孟卓を頼りに行け。」
後に曹操が帰還して張邈に会うと、互いに涙を流して泣きました(垂泣相対)
 
陳留の人高柔が郷人に言いました「曹将軍は兗州を拠点にしているが、元々四方の図(四方を兼併する考え)があるので、安んじてここだけを坐守することはできない(未得安坐守也)。また、張府君は陳留の資(資本)に頼っており、将来、隙に乗じて変を為すだろう(将乗間為変)。諸君と共にこれを避けたい(避難したい)と欲するがどうだ?」
衆人は曹操と張邈が親しくしており、高柔も年少だったため、この言葉に同意しませんでした。
ちょうど高柔の従兄高幹が河北から高柔を呼んだため、高柔は宗族を挙げて高幹に従いました。
資治通鑑』胡三省注によると、当時、高幹は袁紹に従って河北にいました。
 
呂布袁紹から離れて張楊に従った時、張邈を訪ねました。二人は別れに臨んで握手して共に誓いを立てます(把手共誓)
これを聞いた袁紹は大いに張邈を恨みました。
張邈はいずれ曹操袁紹のために自分を殺すのではないかと畏れ、心中不安になりました。
 
元九江太守陳留の人辺譲がかつて曹操を謗りました(原文「嘗譏議操」。「譏議」は議論、嘲笑の意味です)。それを聞いた曹操は辺譲と妻子を全て殺してしまいます。
辺譲には元から才名があったため、兗州の士大夫が皆恐懼しました。
 
陳宮は性格が剛直壮烈で、曹操に対して内心疑いを抱きました。そこで従事中郎許汜、王楷および張邈の弟張超と共に曹操に対する離叛を謀ります。
陳宮は張邈にもこう言いました「今は天下が分崩(分裂崩壊)して雄傑が並び起っています。君(あなた)は千里の衆を擁して四戦の地(四方が争う要地)に当たり、剣に手を置いて四方を眺めているので(撫剣顧盼)、人豪と為るに足りていますが、逆に人の制御を受けています。情けないことではありませんか(亦足以爲人豪,而反受制於人,不亦鄙乎)。今、州軍(兗州刺史曹操の兵)が東征しており、その処(拠点)が空虚になっています。また、呂布は壮士で、戦を善くして遮る者がいません(善戦無前)。もしとりあえず彼を招いて共に兗州を牧し(治め)、天下の形勢を観て、時事の変を待てば、これも(天下を)縦横する一時(一つの時機、機会)となります(此亦縦横之一時也)。」
張邈はこれに従いました。
 
当時、曹操陳宮を東郡に留め、兵を率いて駐屯させていました。陳宮はその衆を率いて秘かに呂布を迎え入れ、兗州牧に立てます。
呂布が到着すると、張邈が党羽の劉翊を送って荀彧(鄄城にいます)にこう告げました「呂将軍が曹使君の陶謙攻撃を助けに来た。速やかに軍食(軍糧)を提供するべきだ。」
しかし衆人はこれを疑い、荀彧も張邈が乱を為したと知ったため、兵を整えて備えを設け、急いで濮陽にいた東郡太守夏侯惇を招きました。
夏侯惇が鄄城に向かうと、呂布が濮陽を占拠しました。
 
当時は曹操が全ての軍を率いて陶謙を攻撃していたため、留守の兵はわずかしかいませんでした。しかも督将、大吏(『資治通鑑』胡三省注によると、「督将」は兵を指揮する者、「大吏」は州郡の事務を管理する者です)の多くが張邈、陳宮と通謀しました。
鄄城に到着した夏侯惇は、その夜、謀叛した者数十人を誅殺しました。衆人がやっと安定します。
 
豫州刺史郭貢が数万の衆を率いて城下に至りました。
「郭貢は呂布と共謀している」と言う者がいたため、衆人が甚だ懼れます。
郭貢が荀彧に会見を求めたため、荀彧が会いに行こうとしました。
夏侯惇等が言いました「君(あなた)は一州の鎮(重鎮)です。行ったら必ず危められるので、(行っては)なりません(往必危不可)。」
荀彧が言いました「郭貢と張邈等は元々情義が結ばれているわけではありません(原文「分非素結也」。「分」は「縁」「情義」の意味だと思います)。今、(郭貢が)来るのが速かったのは、計がまだ定まっていないからにちがいなく(計必未定)、まだ定まっていない時に乗じて説得すれば、たとえ用いることができなくても、中立にさせることはできます。もし(我々が)先に彼を疑ったら、彼は怒って計を成してしまいます(彼の意志を固めさせてしまいます。原文「彼将怒而成計」)。」
郭貢は荀彧に懼意(恐れる気持ち、様子)がないのを見て、鄄城は容易に攻略できないと判断し、兵を率いて去りました。
 
 
 
次回に続きます。