東漢時代341 献帝(二十三) 程昱 194年(3)
呂布軍から降った者がこう言いました「陳宮は自ら兵を率いて東阿を取ろうとしており、また氾嶷(『資治通鑑』胡三省注によると、氾氏は本来、凡氏といいましたが、秦の乱に遭遇して氾水に批難したため改姓しました)に范を取らせようとしている。」
吏民が皆恐れました。
程昱が東阿の人だったため、荀彧が程昱に言いました「今、州を挙げて皆が叛し、この三城だけが残った。陳宮等は重兵で臨んでおり、(我々が)心を深く結ばなかったら三城が必ず動じる(非有以深結其心三城必動)。君(あなた)は民の望なので、宣撫に行くべきだ。」
程昱は帰郷する途中で范を訪ね、県令・靳允(靳が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、戦国時代の楚に幸臣・靳尚がいました)を説得してこう言いました「呂布が君(あなた)の母、弟、妻子を捕えたと聞きました。孝子なら誠に我慢できないことです(原文「孝子誠不可為心」。意訳しました)。しかし、今は天下が大いに乱れ、英雄が並び起ちましたが、必ず命世の才(当世において卓越した才)を有して天下の乱を終息させられる者がおり、これは智者が詳しく択ぶべきところです(必有命世能息天下之乱者,此智者所宜詳択也)。(このような)主を得た者は栄え、主を失った者は滅びます(得主者昌,失主者亡)。(今回)陳宮が叛逆して呂布を迎え入れ、百城が全て応じました。(彼等は)大事を成し遂げられそうです(似能有為)。しかし君(あなた)がこれを観るに、呂布とはどのような人物でしょうか。呂布は粗暴で親しい者が少なく、強情で礼がない匹夫の雄に過ぎません(麤中少親剛而無礼,匹夫之雄耳)。陳宮等も形勢によって仮に一つになっているだけで、君臣の立場を定めることはできません(原文「以勢假合不能相君也」。『資治通鑑』胡三省注が「不能相君」の意味を「陳宮と呂布は君臣の分を定めることができない」と解説しています)。よって、その兵がたとえ多くても、最後は必ず成功できません(兵雖衆終必無成)。曹使君は智略が不世出(めったに世に現れないこと)で、まるで天から授かったようです(殆天所授)。君(あなた)が必ず范を固め、私が東阿を守れば、田単(戦国時代・斉の将軍。燕将・楽毅の攻撃から斉を守りました)の功を立てることができます。忠に違えて悪に従い、母子ともに亡ぶのと、どちらが優れているでしょう(孰與違忠従悪而母子俱亡乎)。君(あなた)の熟慮を願います(唯君詳慮之)。」
靳允が涙を流して言いました「敢えて二心を抱くことはありません(不敢有貳心)。」
この時、氾嶷が既に県内にいました。
靳允は氾嶷に会いに行き、伏兵を使って刺殺しました。
その後、帰って兵を整え、范の守りを固めます。
程昱が別騎(騎兵の別働部隊)を派遣して倉亭津を絶ちました。
『資治通鑑』胡三省注によると、倉亭津は范県界内にあり、東阿から六十里離れています。
程昱が東阿に至った時、東阿令・潁川の人・棗袛(『資治通鑑』胡三省注によると、棗氏は本来、棘氏でしたが、難を避けて改めました)が既に(曹操のために)吏民を率厲(統率・激励)し、城に拠って守りを堅めていました。
こうして鄄城、范、東阿は最後まで城を守って曹操を待ちました。
曹操は上表して程昱を東平相に任命し、范に駐屯しました。
呂布は鄄城を攻めても攻略できなかったため、西に移動して濮陽に駐屯しました。
曹操が言いました「呂布は一旦にして一州を得たが、東平を占拠して亢父と泰山の道を断ち、険阻な地を利用してわしを邀撃することができず(原文「不能拠東平,断亢父泰山之道,乗険要我」。『資治通鑑』胡三省注によると、東平国は亢父と泰山の道に当たります。亢父は元々東平に属していましたが、章帝の時代に任城に属すことになりました)、濮陽に駐屯した。わしには彼が成功できないと分かる(吾知其無能為也)。」
曹操は進攻を開始しました。
五月、揚武将軍・郭汜を後将軍に、安集将軍・樊稠を右将軍に任命し、共に官府を開いて三公と同等にしました(並開府如三公)。
二人が将軍府を開いたため、合わせて六府が並存することになり、それぞれが選挙(人材登用)に参与しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、安集将軍は一時的に置かれた将軍号です。
李傕等はそれぞれ自分が推挙した者を用いたいと思い、もし一人でも違えたら怨恨憤怒しました(『資治通鑑』は「忿憤喜怒」としていますが、『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』の注では「忿憤恚怒」です。「喜怒」では意味が通じないので、『資治通鑑』の誤りです)。
まずは李傕から始まり、次は郭汜、その次は樊稠の意見が採用され、三公が推挙した者は用いられなくなります。
六月丙子(初一日)、献帝が詔を発し、陳留の人・邯鄲商(『資治通鑑』胡三省注によると、邯鄲は邑名から生まれた姓です。春秋時代の晋に邯鄲午がいました)を雍州刺史に任命して四郡を典治(管理。統治)させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、雍州の治所は武威に置かれました。
大蝗害がありました。
甲子(十九日)、鎮南将軍・楊定を安西将軍に任命し、三公と同じように官府を開きました(開府如三公)。
献帝は賦卹(救済。食糧の供給)に不実(不正)があるのではないかと疑い、自ら侍中・劉艾に命じて、御前で米と豆の分量を量ってそれぞれ五升を取ってから、試しに糜を作らせました。その結果、二盆(『孝献帝紀』の注では「三盂」です。「盂」は「盆」です)の糜が得られます(充分足りるはずの粥が作られ、不正によって貧民に与える食糧が減らされていると分かりました)。
この後、全ての人が救済されるようになりました。
『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「これを観ると、献帝は昏蔽(情報を遮断されること)で無知だったのではない。しかし最後は天下を失うことになった。これは威権が既に去っており、小恵では民(民心)を得るのに足りなかったからだ。」
次回に続きます。