東漢時代342 献帝(二十四) 濮陽の戦い 194年(4)

今回も東漢献帝興平元年の続きです。
 
[十六] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
八月、馮翊羌が属県を侵しましたが、郭汜、樊稠等が衆を率いて破りました。
 
[十七] 『後漢書孝献帝紀』からです。
九月、桑の木が再び実をつけたため(桑復生椹)、人々が採食できました(当時は飢饉に苦しんでいました。通常、桑は夏に実が熟します)
 
[十八] 『後漢書孝献帝紀』からです。
司徒淳于嘉を罷免しました。
資治通鑑』は十二月に書いています。
 
[十九] 『三国志魏書一武帝紀』からです。
曹操が進軍して呂布を攻めました。
呂布も兵を出して戦い、まず騎兵で青州兵を侵します。
青州兵が奔ったため、曹操の陣が混乱しました。曹操は馬を馳せて火を突破し、脱出しましたが、落馬して左の手掌を火傷します。
司馬楼異が曹操を抱えて馬に乗せ、撤退しました。
 
この『武帝紀』の記述では、曹操がなぜ火を突破する必要があったのかが分かりません。『資治通鑑』はこの記述を省略しています。
以下、『資治通鑑』からです。
曹操が進軍して呂布を攻めました。
呂布の別の部隊が濮陽西に駐屯していましたが、曹操が夜襲して破ります。
しかし曹操が兵を還す前に呂布が到着しました。呂布自ら搏戦(格闘)して旦(早朝)から日昳(夕方)に至るまで数十合戦い、双方とも激しくぶつかり合います(相持甚急)
曹操は人を募って呂布の陣を破ることにしました。司馬陳留の人典韋が応募した者を率いて進み、敵陣に当たります。
 
呂布が弓弩を乱発させました。雨のように矢が飛んで来ます。典韋はそれを視ようともせず、等人(『資治通鑑』胡三省注によると、「等人」は応募して合格した者を指すようです)に言いました「虜(敵)が十歩まで来たらそう言え。」
暫くして等人が言いました「十歩です。」
典韋がまた言いました「五歩になったら言え。」
等人は懼れて早口で「虜が至りました!」と言いました。
すると典韋は戟を持って大呼し、起ちあがりました。典韋に刃向かって倒されなかった者はなく(所抵無不應手倒者)呂布の衆が退きます。
ちょうど日が暮れ、曹操もやっと引き上げることができました。
曹操典韋を都尉に任命し、常に親兵数百人を指揮させて、大帳の周りに侍らせました(繞大帳左右)
 
この戦いを『三国志魏書十八二李臧文呂許典二龐閻伝』はこう書いています「時西面又急,韋進当之,賊弓弩乱発,矢至如雨,韋不視,謂等人曰『虜来十歩乃白之。』等人曰『十歩矣。』又曰『五歩乃白。』等人懼疾言『虜至矣!』韋手持十余戟大呼起,所抵無不応手倒者。」
資治通鑑』は「時西面又急(この時、西面がまた緊迫したので)」を省略しています。また「韋手持十余戟大呼起典韋は手に十余戟を持ち、大呼して起ちあがった)」を『資治通鑑』は「韋持戟大呼而起典韋は戟を持って大呼し、起ちあがった)」に改めています。
 
ところで、典韋が等人に「十歩」「五歩」と言わせた理由が分かりません。典韋と等人が近い場所に居たのなら、典韋でも「十歩」「五歩」という距離が分かるはずなので、わざわざ人に言わせる必要はないと思われます。
「矢至如雨,韋不視」を「雨のように矢が飛んで来ても、典韋をそれを視ず(相手にせず。動揺せず)」と解釈しましたが、あるいは「矢が激しく飛んで来るため、前が視えなかった」という意味で、典韋には前が見えなかったので、少し離れた場所にいた等人に「十歩」「五歩」と言わせたのかもしれません。しかし、それでは多数の矢が飛んでいるので、呂布の兵も典韋に近付けないはずです。
典韋の豪勇な様子を物語る記述ですが、状況がよく理解できません。
 
資治通鑑』に戻ります(一部『魏書一武帝紀』裴松之注から引用します)
曹操が濮陽を包囲してから、濮陽の大姓(豪族)田氏が反間(間諜)になったため(田氏が間諜として曹操を助けたため)曹操が入城できました(濮陽大姓田氏為反間,操得入城)
曹操は東門を焼いて引き返す意思がないことを示します。
しかし戦いが始まると曹操の軍が敗れました曹操は入城できましたが、城内の呂布軍が抵抗しました)
呂布の騎兵が曹操を得ましたが、曹操を知らなかったため「曹操はどこだ曹操何在)?」と問いました。
曹操は「黄馬に乗って逃走している者がそうだ(乗黄馬走者是也)」と答えます。
呂布の騎兵は曹操を放って黄馬の者を追いました。
門の火がまだ燃え盛っていましたが、曹操は火を突破して城外に出ました(冒頭で『武帝紀』本文から曹操が火を突破して火傷を負ったことを書きました。濮陽東門を突破した時の出来事のようです)
 
以下、『魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
曹操が営に到着する前、諸将が曹操と会えなかったため、皆怖れを抱きました。
そこで営に戻った曹操は自ら努めて労軍し(自ら将兵を慰労し。原文「自力労軍」)、軍中に命じて急いで攻城の道具を作らせました。
曹操軍が再び進軍して城を攻めます。
資治通鑑』胡三省注は、「曹操が自ら労軍して急いで進攻したのは、敗戦後に士気が衰沮(衰退)するのを恐れたからだ」と解説しています。
 
曹操呂布と対峙して百余日が経ちました。
この頃、蝗蟲が発生して百姓が大餓に苦しみました。呂布の糧食も尽きます。
結局、双方とも兵を還しました。
 
九月、曹操が鄄城に還りました。
呂布は乗氏(『資治通鑑』胡三省注によると、済陰郡に属す県です。かつての「乗丘」です)に至りましたが、県人の李進に破れたため、東に向かって山陽に駐屯しました。

冬十月、曹操が東阿に至りました。
袁紹が人を送って曹操を説得し、曹操の家族を鄴袁紹の拠点)に送って住ませようとしました(『武帝紀』では、曹操が東阿に入る前に袁紹が人を送って曹操を説得し、連和を欲しています。ここは『資治通鑑』に従いました)
 
曹操は兗州を失ったばかりで軍食(軍糧)も尽きていたため、これに同意しようとしました。
しかし程昱が反対して言いました「将軍曹操は事に臨んで懼れているようです。そうでなければどうしてこのように思慮が深くないのでしょう(意者将軍殆臨事而懼,不然何慮之不深也)袁紹には天下を併合する心がありますが、彼の智では成功できません(智不能済也)。将軍は自らを量るに、彼の下になることができますか(自度能為之下乎)?将軍は龍虎の威をもって彼の韓韓信彭越)になることができますか(可為之韓彭邪)?今、兗州は破壊されましたが(兗州雖残)、まだ三城があり、戦える士(能戦之士)も万人を下りません。将軍の神武をもって、文若(荀彧の字)、昱(私)等と共に(残った者を)収めてこれを用いれば(與文若、昱等收而用之)、霸王の業を成すことができます。将軍の更慮(再考)を願います。」
曹操は考えを改めました。
 
[二十] 『後漢書孝献帝紀』からです。
長安の市の門が自然に壊れました。
 
[二十一] 『後漢書孝献帝紀』からです。
衛尉趙温を司徒に任命して尚書の政務を主管させました(尚書)
資治通鑑』十二月に書いています(下記)
 
[二十二] 『資治通鑑』からです。
十二月、司徒淳于嘉を罷免し、衛尉趙温を司徒に任命して尚書の政務を主管させました(尚書)
後漢書孝献帝紀』は九月に司徒淳于嘉の罷免を、十月に趙温の任用を書いています。『資治通鑑』は袁宏の『後漢記』に従ってどちらも十二月に書いています。
 
[二十三] 『後漢書孝献帝紀』からです。
安定郡と扶風郡の地を分けて新平郡を置きました。
 
 
 
次回に続きます。