東漢時代342 献帝(二十四) 濮陽の戦い 194年(4)
八月、馮翊羌が属県を侵しましたが、郭汜、樊稠等が衆を率いて破りました。
九月、桑の木が再び実をつけたため(桑復生椹)、人々が採食できました(当時は飢饉に苦しんでいました。通常、桑は夏に実が熟します)。
司徒・淳于嘉を罷免しました。
『資治通鑑』は十二月に書いています。
以下、『資治通鑑』からです。
呂布が弓弩を乱発させました。雨のように矢が飛んで来ます。典韋はそれを視ようともせず、等人(『資治通鑑』胡三省注によると、「等人」は応募して合格した者を指すようです)に言いました「虜(敵)が十歩まで来たらそう言え。」
暫くして等人が言いました「十歩です。」
典韋がまた言いました「五歩になったら言え。」
等人は懼れて早口で「虜が至りました!」と言いました。
ちょうど日が暮れ、曹操もやっと引き上げることができました。
この戦いを『三国志・魏書十八・二李臧文呂許典二龐閻伝』はこう書いています「時西面又急,韋進当之,賊弓弩乱発,矢至如雨,韋不視,謂等人曰『虜来十歩乃白之。』等人曰『十歩矣。』又曰『五歩乃白。』等人懼疾言『虜至矣!』韋手持十余戟大呼起,所抵無不応手倒者。」
『資治通鑑』は「時西面又急(この時、西面がまた緊迫したので)」を省略しています。また「韋手持十余戟大呼起(典韋は手に十余戟を持ち、大呼して起ちあがった)」を『資治通鑑』は「韋持戟大呼而起(典韋は戟を持って大呼し、起ちあがった)」に改めています。
ところで、典韋が等人に「十歩」「五歩」と言わせた理由が分かりません。典韋と等人が近い場所に居たのなら、典韋でも「十歩」「五歩」という距離が分かるはずなので、わざわざ人に言わせる必要はないと思われます。
「矢至如雨,韋不視」を「雨のように矢が飛んで来ても、典韋をそれを視ず(相手にせず。動揺せず)」と解釈しましたが、あるいは「矢が激しく飛んで来るため、前が視えなかった」という意味で、典韋には前が見えなかったので、少し離れた場所にいた等人に「十歩」「五歩」と言わせたのかもしれません。しかし、それでは多数の矢が飛んでいるので、呂布の兵も典韋に近付けないはずです。
典韋の豪勇な様子を物語る記述ですが、状況がよく理解できません。
曹操は東門を焼いて引き返す意思がないことを示します。
曹操軍が再び進軍して城を攻めます。
この頃、蝗蟲が発生して百姓が大餓に苦しみました。呂布の糧食も尽きます。
結局、双方とも兵を還しました。
九月、曹操が鄄城に還りました。
冬十月、曹操が東阿に至りました。
袁紹が人を送って曹操を説得し、曹操の家族を鄴(袁紹の拠点)に送って住ませようとしました(『武帝紀』では、曹操が東阿に入る前に袁紹が人を送って曹操を説得し、連和を欲しています。ここは『資治通鑑』に従いました)。
しかし程昱が反対して言いました「将軍(曹操)は事に臨んで懼れているようです。そうでなければどうしてこのように思慮が深くないのでしょう(意者将軍殆臨事而懼,不然何慮之不深也)。袁紹には天下を併合する心がありますが、彼の智では成功できません(智不能済也)。将軍は自らを量るに、彼の下になることができますか(自度能為之下乎)?将軍は龍虎の威をもって彼の韓・彭(韓信・彭越)になることができますか(可為之韓彭邪)?今、兗州は破壊されましたが(兗州雖残)、まだ三城があり、戦える士(能戦之士)も万人を下りません。将軍の神武をもって、文若(荀彧の字)、昱(私)等と共に(残った者を)収めてこれを用いれば(與文若、昱等收而用之)、霸王の業を成すことができます。将軍の更慮(再考)を願います。」
曹操は考えを改めました。
長安の市の門が自然に壊れました。
安定郡と扶風郡の地を分けて新平郡を置きました。
次回に続きます。