東漢時代343 献帝(二十五) 徐州牧劉備 194年(5)
議郎・河南の人・龐羲はかねてから劉焉と関係が善かったため、劉焉の諸孫を求め集め、彼等を率いて蜀に入りました(募将焉諸孫入蜀)。
その後、劉焉は背に疽(腫瘍)ができて死んでしまいました。
この時、荊州別駕・劉闔が劉璋を攻め、劉璋の将・沈彌、婁発、甘寧も叛して劉璋を撃ちましたが(『劉二牧伝』裴松之注の原文は「荊州別駕劉闔,璋将沈彌、婁発、甘寧反擊璋(荊州別駕・劉闔と劉璋の将・沈彌、婁発、甘寧が反して劉璋を撃った)」ですが、「荊州別駕・劉闔」は荊州の劉表に仕えているので、「沈彌等と共に反した」のではなく、「益州を攻めた」または「沈彌等を誘った」のだと思います。『資治通鑑』は「荊州別駕・劉闔」を省いています)、勝てなかったため、逃走して荊州に入りました。
そこで陶謙が別駕・東海の人・麋竺(『資治通鑑』胡三省注によると、楚の大夫が南郡麋亭に封じられたため、麋を氏にしました。または工尹・麋の後代ともいいます)に言いました「劉備でなければこの州を安んじることはできない。」
しかし劉備は州牧の任に就こうとしません。
典農校尉・下邳の人・陳登(『資治通鑑』胡三省注によると、陶謙が上表して陳登を典農校尉にしました。後に曹操が典農校尉を置いて秩を比二千石にしますが、実際にはそれ以前にこの官があり、曹操は秩を増やしただけのようです)が劉備に言いました「今は漢室が陵遅(衰退)して海内が傾覆(転覆。動乱)しています。功を立てて事を立てる(起こす)のは今日にかかっています(立功立事在於今日)。鄙州(我が州)は殷富(富裕)で、戸口が百万もいます。使君(あなた)が身を屈して州事を治めることを欲します(欲屈使君撫臨州事)。」
劉備が言いました「袁公路(公路は袁術の字です)は近く寿春にいます。この君は四世にわたって五人の三公を出し(原文「四世五公」。袁安から袁隗までが四世で、袁安は司徒に、子の袁敞は司空に、孫の袁湯は司空に、曾孫の袁逢は司空に、袁隗は太傅になりました)、海内が帰しているので、君(あなた)は州を与えることができます。」
陳登が言いました「公路は驕豪(驕慢横柄)で、治乱の主(乱を治める主)ではありません。今、使君のために歩騎十万を合わせようと思います(集結させようと思います)。(そうすれば)上は主を正して民を救い(匡主済民)、五霸の業を成すことができます。下は地を割いて(一方に割拠して)境を守り(割地守境)、竹帛に功を書くことができます。もしも使君が同意しないのなら(不見聴許)、登(私)も使君の意見を聴くことはできません(登亦未敢聴使君也)。」
北海相・孔融も劉備にこう言いました「袁公路がどうして国を憂いて家を忘れられる者なのでしょうか(豈憂国忘家者邪)。墓中の枯れた骨(四世五公の名声に頼っているだけの者)が、どうして意に介すに足りるのでしょうか(冢中枯骨,何足介意)。今日の事は百姓が賢能の者に与えたのです(百姓與能)。天が与えたことを取らなかったら、後悔しても及びません(天與不取悔不可追)。」
『先主伝』裴松之注からです。
この後、陳登等が袁紹に使者を送ってこう伝えました「天が災沴(災難)を降し、禍が鄙州に至り、州将(陶謙)が殂殞(死亡)して、生民に主がいなくなりました。姦雄が一旦にして隙に乗じ、盟主(袁紹)に日昃(終日)の憂を及ぼすことを恐懼したので、共に故(元)平原相・劉備府君を奉じて宗主とし、永く百姓に依帰(帰依。帰順)する所があることを知らせました(百姓に主が誰であるかを周知させました。原文「永使百姓知有依帰」)。今は寇難が縦横しており、甲冑を解く暇もありません(不遑釈甲)。よって謹んで下吏を奔らせ、執事(執政者。袁紹)に報告します。」
以前、太傅・馬日磾と趙岐が朝廷の使命を奉じて寿春に行きました。
馬日磾は節を失ったことを憂い(病其失節)、寿春で血を吐いて死んでしまいました。
次回に続きます。