東漢時代344 献帝(二十六) 孫策 194年(6)
『孫破虜討逆伝』の注によると、孫朗という庶生の少子もおり、一名を孫仁といいました。
意気投合した両者は誠心によって友誼を結び(推結分好)、義を同じくして心を一つにしました(義同断金)。
周瑜は道の南の大宅(『資治通鑑』では「道旁大宅」ですが、『三国志・呉書九・周瑜魯粛呂蒙伝』では「道南大宅」です。ここは『三国志』に従いました)を孫策に譲り、堂に昇って孫策の母を拝します(升堂拜母)。足りない物があったら互いに助け合いました(有無通共)。
『資治通鑑』胡三省注によると、曲阿はかつて雲陽県といいましたが、秦代になってこの地に天子の気があると言われたため、始皇帝が北阬(山名)を穿ってその勢いを敗り、直道を遮って阿曲(湾曲。「阿」も「曲」の意味です)にしました。ここから「曲阿」に改名されました。
そこで袁術は上表して孫策の舅・呉景に丹陽太守を兼任させ(原文「領丹陽太守」。『三国志・呉書五・妃嬪伝』によると、呉景は孫策の母・呉氏の弟です。これ以前に孫堅の征伐に従って功があったので、騎都尉に任命されていました)、周昕を攻めて丹陽郡を奪わせました。
以下、『孫破虜討逆伝』裴松之注からです。
以前、孫策が江都に居た時、張紘が母の喪に服していました。
孫策はしばしば張紘を訪ねて世務(治政の要務)について問い、こう言いました「今は漢祚(漢の国運)が中微(衰退)して天下が擾攘(騒擾。混乱)しており、英雄俊傑がそれぞれ衆を擁して私を営み(利益を求め)、危機を救って乱を治められる者(能扶危済乱者)がいません。先君(孫堅)は袁氏と共に董卓を破りましたが、功業が完成する前に、突然、黄祖に害されました。策(私)は暗稚(暗愚幼稚)ですが、秘かに微志を抱いており、袁揚州(袁術)から先君の余兵を求め、丹陽で舅氏(呉景)に就き、流散した者を收合(招集)し、東は呉・会(呉郡と会稽郡)に拠り、讎に報いて恥じを雪ぎ(報讎雪恥)、朝廷の外藩になることを欲しています。君(あなた)はどう思いますか(以為何如)?」
張紘が答えました「元から空劣(才学がないこと)なうえ、ちょうど衰絰の中(喪中)に居るので、盛略(大計)を奉賛(支持)することはできません。」
孫策が言いました「君(あなた)の高名は播越しており(遠くに行き渡っており)、遠近が懐帰(心服)しています。今日の事計(計略)は君にかかっています(決之於君)。どうして心中の考えを啓示して高山の望(高尚な望み)に沿おうとしないのでしょう(何得不紆慮啓告副其高山之望)。もし微志を展開でき、血讎に報いることができるなら、これは君(あなた)の勳力(功労)によるものであり、策(私)の心が望むところです。」
張紘は孫策の忠壮が内心から発せられており、言辞が慷慨(正気が溢れて激昂していること)としているのを見て、その志と言葉に感動し、こう答えました「昔、周道が陵遅(衰退)したら斉・晋が並んで興り、王室が既に安寧になったら諸侯が貢職(貢献)しました。今、君(あなた)は先侯の軌(道)を継承し、驍武(勇猛)の名があります。もし丹陽に投じて呉・会で兵を収めれば、荊・揚を一つにでき、讎敵に報いることもできます。長江に拠って威徳を奮い、群穢(姦悪の徒)を誅除し、漢室を匡輔(匡正補佐)すれば、功業が桓・文(斉桓公・晋文公)と等しくなります。どうしてただの外藩に留まるでしょう(豈徒外藩而已哉)。今は世が乱れて難が多いので、もしも功を成して事を立てるなら、同好(志が同じ者)と共に南に渡るべきです(方今世乱多難,若功成事立,当與同好俱南済也)。」
孫策が言いました「会ったばかりなのに君(あなた)と同符合契(意見が一致して投合すること)でき、共に永固の情義があるので、今、出発することができます(一與君同符合契,同有永固之分,今便行矣)。老母・弱弟を君(あなた)に委付すれば(委ねれば)、策(私)には回顧の憂がなくなります。」
次回に続きます。