東漢時代344 献帝(二十六) 孫策 194年(6)

今回も東漢献帝興平元年の続きです。
 
[二十七] 『三国志呉書一孫破虜討逆伝裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。
以前、孫堅は銭唐の呉氏を娶り、四男が生まれました。孫策孫権孫翊孫匡です。その他に一女もできました。
『孫破虜討逆伝』の注によると、孫朗という庶生の少子もおり、一名を孫仁といいました。
 
孫堅朱儁に上表されて佐軍となり、従軍して外にいました。家族は寿春に留められます。
 
長子の孫策は字を伯符といい、十余歳で知名の士と交わりを結んで、声誉(名声)が広く知られていました。
舒に周瑜という者がおり、孫策と同年で、孫策と同じく英達早成でした。
孫堅が義兵を興したばかりの頃、周瑜孫策の声問(名声)を聞いて舒から訪ねに来ました。
意気投合した両者は誠心によって友誼を結び(推結分好)、義を同じくして心を一つにしました(義同断金)
 
周瑜孫策に住居を舒に移すように勧めたため、孫策はこれに従い、母を連れて家を移しました。
周瑜は道の南の大宅(『資治通鑑』では「道旁大宅」ですが、『三国志呉書九周瑜魯粛呂蒙伝』では「道南大宅」です。ここは『三国志』に従いました)孫策に譲り、堂に昇って孫策の母を拝します(升堂拜母)。足りない物があったら互いに助け合いました(有無通共)
 
孫策が士大夫を集めたため、江淮一帯の人は皆、孫策に向きました(近づきました)
 
孫堅が死んだ時、孫策は十七歳でした。
孫策は曲阿に還って孫堅を埋葬してから、長江を北に渡って江都に住み、豪俊を受け入れて交わりを結び、復讎の志を抱きました。
資治通鑑』胡三省注によると、曲阿はかつて雲陽県といいましたが、秦代になってこの地に天子の気があると言われたため、始皇帝が北阬(山名)を穿ってその勢いを敗り、直道を遮って阿曲(湾曲。「阿」も「曲」の意味です)にしました。ここから「曲阿」に改名されました。
 
三国志・孫破虜討逆伝』裴松之注によると、孫策孫堅の侯位(烏程侯)を継ぐ立場にいましたが、弟の孫匡に譲りました。
 
丹陽太守会稽の人周昕が袁術と敵対していました。
そこで袁術は上表して孫策の舅呉景に丹陽太守を兼任させ(原文「領丹陽太守」。『三国志呉書五妃嬪伝』によると、呉景は孫策の母呉氏の弟です。これ以前に孫堅の征伐に従って功があったので、騎都尉に任命されていました)、周昕を攻めて丹陽郡を奪わせました。
併せて孫策の従兄孫賁を丹陽都尉に任命しました。
 
孫策は母や弟を広陵の人張紘に託し孫策の母や弟は江都に居おり、江都は広陵郡に属します。広陵は徐州刺史の管轄下にあります)、直接、寿春を訪ねて袁術に会いました。
 
以下、『孫破虜討逆伝』裴松之注からです。
以前、孫策が江都に居た時、張紘が母の喪に服していました。
孫策はしばしば張紘を訪ねて世務(治政の要務)について問い、こう言いました「今は漢祚(漢の国運)が中微(衰退)して天下が擾攘(騒擾。混乱)しており、英雄俊傑がそれぞれ衆を擁して私を営み(利益を求め)、危機を救って乱を治められる者(能扶危済乱者)がいません。先君孫堅は袁氏と共に董卓を破りましたが、功業が完成する前に、突然、黄祖に害されました。策(私)は暗稚(暗愚幼稚)ですが、秘かに微志を抱いており、袁揚州(袁術)から先君の余兵を求め、丹陽で舅氏(呉景)に就き、流散した者を收合(招集)し、東は呉・会(呉郡と会稽郡)に拠り、讎に報いて恥じを雪ぎ(報讎雪恥)、朝廷の外藩になることを欲しています。君(あなた)はどう思いますか(以為何如)?」
張紘が答えました「元から空劣(才学がないこと)なうえ、ちょうど衰絰の中(喪中)に居るので、盛略(大計)を奉賛(支持)することはできません。」
孫策が言いました「君(あなた)の高名は播越しており(遠くに行き渡っており)、遠近が懐帰(心服)しています。今日の事計(計略)は君にかかっています(決之於君)。どうして心中の考えを啓示して高山の望(高尚な望み)に沿おうとしないのでしょう(何得不紆慮啓告副其高山之望)。もし微志を展開でき、血讎に報いることができるなら、これは君(あなた)の勳力(功労)によるものであり、策(私)の心が望むところです。」
孫策は泣いて涙をあふれさせましたが、顔色を変えませんでした(涕泣横流顔色不変)
張紘は孫策の忠壮が内心から発せられており、言辞が慷慨(正気が溢れて激昂していること)としているのを見て、その志と言葉に感動し、こう答えました「昔、周道が陵遅(衰退)したら斉晋が並んで興り、王室が既に安寧になったら諸侯が貢職(貢献)しました。今、君(あなた)は先侯の軌(道)を継承し、驍武(勇猛)の名があります。もし丹陽に投じて呉・会で兵を収めれば、荊揚を一つにでき、讎敵に報いることもできます。長江に拠って威徳を奮い、群穢(姦悪の徒)を誅除し、漢室を匡輔(匡正補佐)すれば、功業が桓(斉桓公晋文公)と等しくなります。どうしてただの外藩に留まるでしょう(豈徒外藩而已哉)。今は世が乱れて難が多いので、もしも功を成して事を立てるなら、同好(志が同じ者)と共に南に渡るべきです(方今世乱多難,若功成事立,当與同好俱南済也)。」
孫策が言いました「会ったばかりなのに君(あなた)と同符合契(意見が一致して投合すること)でき、共に永固の情義があるので、今、出発することができます(一與君同符合契,同有永固之分,今便行矣)。老母弱弟を君(あなた)に委付すれば(委ねれば)、策(私)には回顧の憂がなくなります。」 
 
 
 
次回に続きます。

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