東漢時代345 献帝(二十七) 孫策と袁術 194年(7)
[二十七(続き)] 本文に戻ります。
寿春に入った孫策が涙を流して袁術に言いました「亡父は昔、長沙から入って董卓を討ち、明使君と南陽で会して、同盟結好しましたが(同盟して好を結びましたが)、不幸にも難に遭い、勳業(功業)を完成できませんでした(勳業不終)。策(私)は先人の旧恩を感じ、自ら(あなたを)頼って結ぶことを欲します(策感惟先人旧恩欲自憑結)。明使君がこの誠意を垂察することを願います(原文「願明使君垂察其誠」。「垂察」は下の者を観察して理解することです)。」
袁術は孫策が常人ではないと思ってとても重視しましたが、父(孫堅)の部曲を還そうとはせず、こう言いました「孤(わし)は貴舅(汝の舅。呉景)を用いて丹陽太守にし、賢従(従兄)の伯陽(孫賁の字)を用いて(丹陽)都尉にしたばかりだ。あそこは精兵の地だ(『資治通鑑』胡三省注によると、丹陽は天下の精兵の地と号されていました)。(汝は)還って彼等に頼り、(兵を)召募することができる(可還依召募)。」
当時、徐州牧・陶謙が深く孫策を嫌っていたので(孫策の母や弟は広陵郡江都に居り、広陵は徐州に属します)、孫策は汝南の人・呂範および族人の孫河と共に母を迎え、車に乗せて曲阿に移りました。丹陽太守を勤める舅氏(呉景)を頼り、この機に召募して(因縁召募)数百人を得ます(『後漢書・郡国志四』を見ると、曲阿は呉郡に属していますが、丹陽太守・呉景が拠点としているので、当時は丹陽郡の治所だったようです)。
当時、太傅・馬日磾が符節を持って関東を安集(安定和睦)させていました。寿春で礼を用いて孫策を招聘し、上表して懐義校尉に任命します(『資治通鑑』では袁術が上表して孫策を懐義校尉に任命していますが、ここは『三国志・孫破虜討逆伝』に従いました)。
この後、軍中がますます畏れ憚りました。
孫策は陸康を攻めて攻略しました。
孫策がますます失望します。
孫策が廬江を攻撃すると、その情報を聞いた劉繇は、呉景と孫賁が元々袁術によって曲阿に置かれていたため、袁術と孫策が自分を兼併するのではないかと懼れました。その結果、嫌隙(敵意・対立)が生まれて呉景と孫賁を迫逐(駆逐)してしまいました。
呉景と孫賁は退いて歴陽に駐屯します。
『後漢書・孝献帝紀』は「この年、楊州(揚州)刺史・劉繇と袁術の将・孫策が曲阿で戦った。劉繇の軍が敗績(敗戦)し、孫策が江東を占拠した」と書いていますが、『資治通鑑』では翌年に劉繇が敗走し、献帝建安元年(196年)に孫策が自ら会稽太守になります。
次回に続きます。