東漢時代346 献帝(二十八) 長安分裂 195年(1)
乙亥 195年
李傕、郭汜、樊稠はそれぞれ功績を誇って権力を争い、何回も闘争しようとしましたが、その度に賈詡が大体(大局)を述べて譴責したため、内面では関係を改善できなくても、外見上は互いに含容(許容・容認)していました。
樊稠が馬騰と韓遂を撃った時(前年)、李傕の兄の子・李利が戦闘において尽力しなかったため、樊稠が叱責して言いました「人(馬騰等)が汝の父(叔父・李傕)の頭を断とうと欲しているのに人、どうしてこのようなのだ(何敢如此)。わしが卿を斬れないと思っているのか(我不能斬卿邪)!」
韓遂が樊稠に言いました「(我々が)争っているのは、本来、私怨が原因ではなく、王家の事が原因である(本所争者非私怨,王家事耳)。足下とは州里の人(同州の人。二人とも涼州の人です)なので、互いに善く話をしてから別れたい(欲相與善語而別)。」
双方とも騎兵を後ろに退けてから、前に進んで馬を接し、腕と腕を交えて(原文「交臂相加」。体が触れるほど接近したという意味だと思います)、共に久しく話をしてから別れました。
軍が還ってから、李利が李傕に報告しました「韓・樊は馬を交えて話をしました。話した内容はわかりませんが、情誼がとても親密でした(不知所道,意愛甚密)。」
李傕も樊稠が勇猛で衆を得ていること(「軍を擁していること」。または「衆心を得ていること」。原文「得衆」)を嫌っていました。
この頃、樊稠が兵を率いて東に向かい、関を出ようとしました。李傕に兵を増やすように求めます。
二月乙亥(初三日)、李傕が樊稠を会議に招き、その席で殺してしまいました。
この後、諸将が互いに猜疑して二心を抱くようになりました(転相疑貳)。
李傕はしばしば酒席を設けて郭汜を招いていました。郭汜を留めて家に泊まらせたこともあります。
郭汜の妻は郭汜が李傕の婢妾を愛すことを恐れ、二人の関係を悪化させる方法を考えました(思有以間之)。
ちょうど李傕が食物を送ってきたので(送饋)、郭汜の妻は豉(豆を発酵させたもの)を毒薬にし(原文「以豉爲薬」。実際に毒薬にしたのか、毒薬のように見せかけたのかははっきりしません)、それを摘まんで郭汜に見せてこう言いました「一栖に両雄は住めません(原文「一栖不両雄」。『資治通鑑』胡三省注によると、鶏を比喩に使っています。一つの巣に二羽の雄がいたら必ず争いになります)。私は以前から将軍が李公を信じていることを不思議に思っていました(我固疑将軍信李公也)。」
後日、李傕がまた郭汜を招きました。
酒を飲んで大いに醉った郭汜は、毒を盛られたのではないかと疑い、糞汁を絞って飲みました。
『資治通鑑』胡三省注によると、糞汁は解毒の作用があったようです。
これらの事があってから、それぞれ兵を治めて(整えて)攻撃し合うようになりました。
ところが、夜に逃亡した者がおり、これを李傕に告げます。
李暹は「将軍の計は既に定まっている」と答えました。
すると兵達がすぐに殿中に入り、宮人(宮女)や御物を奪いました。
献帝は再び公卿を派遣して李傕と郭汜を和解させようとしました。
しかし郭汜は楊彪および司空・張喜、尚書・王隆、光禄勳・劉淵、衛尉・士孫瑞、太僕・韓融、廷尉・宣璠、大鴻臚・栄郃(栄が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代に栄畜という男子がいました(宣帝元康元年・前65年)。周栄公の後代です)、大司農・朱儁、将作大匠・梁卲、屯騎校尉・姜宣等を自分の営に留めて質(人質)にしました。
朱儁は憤懣のため病を発して死んでしまいました。
皇后の父に当たる侍中・伏完を執金吾にしました。
郭汜が宴を開いて公卿をもてなし、李傕攻撃について討議しました。
中郎将・楊密が強く諫めたため、郭汜は殺すのを止めました。
李傕が羌・胡数千人を招きました。まず御物や繒綵(絹織物)を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜を攻撃させようとします。
矢が献帝の簾帷の中に及び、また、李傕の左耳を貫きます。
楊奉が営外で郭汜に抵抗したため、郭汜の兵が退きます。
張苞等は自分に属す兵を率いて郭汜に帰順しました。
この日、李傕がまた乗輿を移し、北塢を行幸させました。
また、『孝献帝紀』の注によると、元々献帝は南塢におり、李傕は北塢にいました。流矢が李傕の左耳に命中したため、李傕が献帝を迎えて北塢に行幸させました。献帝は従おうとしませんでしたが、強制的に移動させられました。
大旱に襲われました。
次回に続きます。