東漢時代346 献帝(二十八) 長安分裂 195年(1)

今回は東漢献帝興平二年です。
 
東漢献帝興平二年
乙亥 195
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月癸丑(十一日)、天下に大赦しました。
 
袁宏の『後漢紀』は「正月癸酉」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、この月は「癸卯朔」なので、「癸酉」はありません。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書』に従っています。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
曹操が定陶を襲いましたが、済陰太守呉資が南城を守っており、攻略できませんでした。
ちょうど呂布が来ましたが、曹操がこれを撃破しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
献帝が詔を発して袁紹を現地で右将軍に任命しました(即拝袁紹為右将軍)
資治通鑑』胡三省注によると、当時、袁紹は鄴にいました。
 
「右将軍」は『後漢書袁紹表列伝上(巻七十四上)』の記述で、袁宏の『後漢紀』では「後将軍」です。『資治通鑑』は『袁紹劉表列伝上』に従っています。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
董卓が死んだばかりの時、三輔の民はまだ数十万戸いました。しかし李傕等が兵を放って劫掠(略奪)を行い、しかも饑饉が加わったため、二年の間に民がほとんどいなくなってしまいました(民相食略尽)
 
李傕、郭汜、樊稠はそれぞれ功績を誇って権力を争い、何回も闘争しようとしましたが、その度に賈詡が大体(大局)を述べて譴責したため、内面では関係を改善できなくても、外見上は互いに含容(許容容認)していました。
 
樊稠が馬騰韓遂を撃った時(前年)、李傕の兄の子李利が戦闘において尽力しなかったため、樊稠が叱責して言いました「人馬騰等)が汝の父(叔父李傕)の頭を断とうと欲しているのに人、どうしてこのようなのだ(何敢如此)。わしが卿を斬れないと思っているのか(我不能斬卿邪)!」
 
馬騰韓遂が敗走すると、樊稠が追撃して陳倉に至りました。
韓遂が樊稠に言いました「(我々が)争っているのは、本来、私怨が原因ではなく、王家の事が原因である(本所争者非私怨,王家事耳)。足下とは州里の人(同州の人。二人とも涼州の人です)なので、互いに善く話をしてから別れたい(欲相與善語而別)。」
双方とも騎兵を後ろに退けてから、前に進んで馬を接し、腕と腕を交えて(原文「交臂相加」。体が触れるほど接近したという意味だと思います)、共に久しく話をしてから別れました。
 
軍が還ってから、李利が李傕に報告しました「韓樊は馬を交えて話をしました。話した内容はわかりませんが、情誼がとても親密でした(不知所道,意愛甚密)。」
李傕も樊稠が勇猛で衆を得ていること(「軍を擁していること」。または「衆心を得ていること」。原文「得衆」)を嫌っていました。
 
この頃、樊稠が兵を率いて東に向かい、関を出ようとしました。李傕に兵を増やすように求めます。
二月乙亥(初三日)、李傕が樊稠を会議に招き、その席で殺してしまいました。
この後、諸将が互いに猜疑して二心を抱くようになりました(転相疑貳)
 
李傕はしばしば酒席を設けて郭汜を招いていました。郭汜を留めて家に泊まらせたこともあります。
郭汜の妻は郭汜が李傕の婢妾を愛すことを恐れ、二人の関係を悪化させる方法を考えました(思有以間之)
ちょうど李傕が食物を送ってきたので(送饋)、郭汜の妻は豉(豆を発酵させたもの)を毒薬にし(原文「以豉爲薬」。実際に毒薬にしたのか、毒薬のように見せかけたのかははっきりしません)、それを摘まんで郭汜に見せてこう言いました「一栖に両雄は住めません(原文「一栖不両雄」。『資治通鑑』胡三省注によると、鶏を比喩に使っています。一つの巣に二羽の雄がいたら必ず争いになります)。私は以前から将軍が李公を信じていることを不思議に思っていました(我固疑将軍信李公也)。」
 
後日、李傕がまた郭汜を招きました。
酒を飲んで大いに醉った郭汜は、毒を盛られたのではないかと疑い、糞汁を絞って飲みました。
資治通鑑』胡三省注によると、糞汁は解毒の作用があったようです。
 
これらの事があってから、それぞれ兵を治めて(整えて)攻撃し合うようになりました。
献帝が侍中や尚書を派遣して李傕と郭汜を和解させようとしましたが、どちらも従いません。
 
郭汜は献帝を迎えて自分の営に行幸させようと謀りました。
ところが、夜に逃亡した者がおり、これを李傕に告げます。
三月丙寅(二十五日)、李傕が兄の子李暹に数千の兵を率いて皇宮を包囲させ、三乗の車で献帝を迎えさせました。
太尉楊彪が言いました「古から(今まで)人家(臣民の家)に居た帝王はいない。諸君はどうしてこのような事を起こすのだ(自古帝王無在人家者,諸君挙事柰何如是)。」
李暹は「将軍の計は既に定まっている」と答えました。
こうして献帝が皇宮を出ることになり)群臣も歩いて乗輿(皇帝の車)に従い、外に出ました。
すると兵達がすぐに殿中に入り、宮人(宮女)や御物を奪いました。
 
李傕は献帝を脅して自分の営に行幸させました。更に御府(帝王の庫府)の金帛も移して自分の営に置いてから火を放ちます。宮殿、官府、民居が全て焼き尽くされました。
 
献帝は再び公卿を派遣して李傕と郭汜を和解させようとしました。
しかし郭汜は楊彪および司空張喜、尚書王隆、光禄勳劉淵、衛尉士孫瑞、太僕韓融、廷尉宣璠、大鴻臚栄郃(栄が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代に栄畜という男子がいました(宣帝元康元年65年)。周栄公の後代です)、大司農朱儁、将作大匠梁卲、屯騎校尉姜宣等を自分の営に留めて質(人質)にしました。
朱儁は憤懣のため病を発して死んでしまいました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月甲午(二十三日。『資治通鑑』は「甲子」としていますが、誤りです)、貴人琅邪の人伏氏を皇后に立てました。
皇后の父に当たる侍中伏完を執金吾にしました。
 
[] 『後漢書献帝紀』と『資治通鑑』からです。
郭汜が宴を開いて公卿をもてなし、李傕攻撃について討議しました。
楊彪が言いました「群臣が互いに闘い合い、一人は天子を人質にして、一人は公卿を人質にしている。このような事をしてもいいのか(一人劫天子一人質公卿,可行乎)。」
郭汜が怒って自ら楊彪を殺そうとしました(欲手刃之)
楊彪が言いました「卿は国家(皇帝)すら奉じていない。私が生を求めると思うか(卿尚不奉国家,吾豈求生邪)!」
中郎将楊密が強く諫めたため、郭汜は殺すのを止めました。
 
李傕が羌胡数千人を招きました。まず御物や繒綵(絹織物)を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜を攻撃させようとします。
 
一方の郭汜は秘かに李傕の党羽である中郎将張苞等と通じ、李傕攻撃を謀りました。
 
丙申(二十五日。『孝献帝紀』は「丁酉(二十六日)」としていますが、ここは『資治通鑑』に従いました)、郭汜が兵を率いて夜の間に李傕の営門を攻めました。
矢が献帝の簾帷の中に及び、また、李傕の左耳を貫きます。
孝献帝紀』の注によると、弓弩が共に放たれ、矢が雨のように降り、献帝が泊まっている高楼殿前の帷簾にも及びました。
 
張苞等が李傕に叛して屋(家屋。営内の建物)を焼こうとしましたが、燃えませんでした。
楊奉が営外で郭汜に抵抗したため、郭汜の兵が退きます。
張苞等は自分に属す兵を率いて郭汜に帰順しました。
 
この日、李傕がまた乗輿を移し、北塢を行幸させました。
資治通鑑』胡三省注によると、後に李傕と郭汜が和解してから、献帝がやっと長安城の外に出るので、この塢は長安城中にあったようです。李傕と郭汜はそれぞれ城内に塢を築いていました。
また、『孝献帝紀』の注によると、元々献帝は南塢におり、李傕は北塢にいました。流矢が李傕の左耳に命中したため、李傕が献帝を迎えて北塢に行幸させました。献帝は従おうとしませんでしたが、強制的に移動させられました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
大旱に襲われました。
 
 
 
次回に続きます。