東漢時代349 献帝(三十一) 献帝東遷 195年(4)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
李傕と郭汜が互いに攻撃して月を重ね、死者が万人を数えました。
 
六月、李傕の将楊奉が李傕を殺そうと謀りましたが、事が漏れたため、兵を率いて李傕に叛しました。
李傕の衆が徐々に衰えます。
 
庚午(中華書局『白話資治通鑑』は「庚午」を恐らく誤りとしています)、鎮東将軍張済が陝から来ました。
資治通鑑』胡三省注によると、陝県は弘農に属します。献帝初平三年192年)、張済は京師を出て弘農に駐屯しました。
 
張済は李傕と郭汜を和解させて乗輿を暫く弘農に行幸させることを欲しています。
献帝も旧京(雒陽)を思っていたため、使者を送って両者に宣諭しました(弘農は長安の東に位置します。李傕と郭汜に双方が講和することと、献帝が東に向かうことを説得しました)
使者が十回往復してから、郭汜と李傕がやっと講和に同意し(『資治通鑑』は「汜傕許和」と書いていますが、講和だけでなく、献帝が東に向かうことにも同意したはずです)、双方が自分の愛子を質(人質)にして交換することにしました。
しかし李傕の妻が息子を愛したため、和計(和約)が定まらなくなります。
しかも羌胡がしばしば省門を窺いに来て「天子は中に居るか!李将軍は我々に宮人(宮女)を約束した(李将軍許我宮人)。今、皆どこにいるのだ(今皆何在)!」と問いました。
献帝はこれを患い、侍中劉艾を送って宣義将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、宣義将軍も暫定的に置いた将軍号です)賈詡にこう告げました「卿は以前、職を奉じて公忠(公正忠誠)だったので、今でも栄寵に昇っている(仍升栄寵)。今、羌胡が路を満たしている。方略を思う(考える)べきだ。」
賈詡は羌胡の大帥を招いて飲食し、封賞を与える約束をしました。
その結果、羌胡が全て引き上げたため、李傕が単弱(弱小)になります。
そこでまた和解の計について発言する者が現れました。
李傕はこれに従い、お互いに娘を質(人質)にすることにしました。
 
秋七月甲子(中華書局『白話資治通鑑』は「甲子」を恐らく誤りとしています)、車駕(皇帝の車)が東に帰るため、宣平門を出ました。
資治通鑑』胡三省注によると、宣平門は長安城東面の北側第一門です。
 
献帝が橋を渡ろうとした時、郭汜の兵数百人が橋を遮って「これは天子ではないか(此天子非也)?」と言いました。
車が前に進めなくなります。
李傕の兵数百人がそれぞれ大戟を持って乗輿車の左右にいました(ここは『三国志魏書六董二袁劉伝』の注に従いました。原文は「傕兵数百人皆持大戟在乗輿車左右」です。『後漢書董卓列伝(巻七十二)』の注と『資治通鑑』では乗輿車の前に李傕の兵がいました)
兵達が交戦しようとすると(兵欲交)、侍中劉艾が「これは天子である(是天子也)!」と大呼し、侍中楊琦に命じて車帷(車の四周の帳)を高く挙げさせました。
献帝が言いました「諸君はなぜ敢えて至尊に迫近(緊迫。逼迫)するのだ(諸君何敢迫近至尊邪)。」
郭汜の兵がやっと退き、車駕が前に進みました。
献帝が橋を渡り終えると、士衆が皆、万歳を唱えました。
 
夜、献帝が霸陵に至りました。従者は皆飢えています。
そこで張済が官位の大小に従って飲食を分け与えました(賦給各有差)
李傕は京城を出て池陽に駐屯しました。
 
丙寅(中華書局『白話資治通鑑』は「丙寅」を恐らく誤りとしています)献帝が張済を票騎(驃騎)将軍に任命し、三公と同等の官府を開きました(開府如三公)
また、郭汜を車騎将軍に、楊定を後将軍に、楊奉を興義将軍に任命し、全て列侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、楊奉は白波賊の帥から身を起こして勤王したので、「興義(義を興すこと)」という将軍号を与えられて寵用されました。
 
旧牛輔の部曲董承を安集将軍にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、董承は霊帝の母太后の甥です(但し、『三国志集解蜀書二先主伝』はこれを否定しています)
また、『後漢書皇后紀下献帝伏皇后)』によると、董承の娘が献帝の貴人になりました。董承、董貴人とも後に曹操に殺されます献帝建安五年200年)
 
郭汜は車駕を高陵に行幸させようとしました。
資治通鑑』胡三省注によると、高陵県は馮翊に属します。
しかし公卿や張済は弘農に行幸させるべきだと考えました。大会を開いて議論しても決定できません。
献帝が使者を送って郭汜を諭しました「弘農は郊廟に近いので、疑う必要はない(躊躇する必要はない。原文「勿有疑也」)。」
しかし郭汜はやはり従いません。
そのため、献帝が終日食事をしなくなりました。
郭汜はそれを聞いて「とりあえず近くの県に行幸するべきです(可且幸近県)」と言いました。
 
後漢書孝献帝紀』は「郭汜が自ら車騎将軍になった。楊定が後将軍に、楊奉が興義将軍に、董承が安集将軍になり、共に乗輿(皇帝)に侍って送った。張済は票騎将軍になり、陝に還って駐屯した」と書いています。『資治通鑑』には、「張済が陝に還った」という記述はありません。
 
八月甲辰(初六日)、車駕が新豊を行幸しました。
 
丙子(中華書局『白話資治通鑑』は「丙子」を恐らく誤りとしています)、郭汜が再び陰謀しました。献帝を脅して西に還り、郿に都を置かせようとします。
しかし侍中种輯がこれを知って秘かに楊定、董承、楊奉に伝え、新豊に集合させました。
郭汜は自分の陰謀が漏れたと知り、軍を棄てて南山に入りました。
資治通鑑』胡三省注によると、新豊驪山の西が終南山と接しており、これを南山と呼びました。
 
[十一] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
曹操が雍丘(張超)を包囲しました。
 
資治通鑑』はここで「張邈が袁術を訪ねて救援を求めようとしたが、到着する前に部下に殺された」と書いています。
武帝紀』は十二月に書いています。
 
[十二] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月、曹操を兗州牧に任命しました。
 
 
 
次回に続きます。