東漢時代349 献帝(三十一) 献帝東遷 195年(4)
李傕と郭汜が互いに攻撃して月を重ね、死者が万人を数えました。
李傕の衆が徐々に衰えます。
張済は李傕と郭汜を和解させて乗輿を暫く弘農に行幸させることを欲しています。
使者が十回往復してから、郭汜と李傕がやっと講和に同意し(『資治通鑑』は「汜傕許和」と書いていますが、講和だけでなく、献帝が東に向かうことにも同意したはずです)、双方が自分の愛子を質(人質)にして交換することにしました。
しかし李傕の妻が息子を愛したため、和計(和約)が定まらなくなります。
しかも羌・胡がしばしば省門を窺いに来て「天子は中に居るか!李将軍は我々に宮人(宮女)を約束した(李将軍許我宮人)。今、皆どこにいるのだ(今皆何在)!」と問いました。
献帝はこれを患い、侍中・劉艾を送って宣義将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、宣義将軍も暫定的に置いた将軍号です)・賈詡にこう告げました「卿は以前、職を奉じて公忠(公正忠誠)だったので、今でも栄寵に昇っている(仍升栄寵)。今、羌・胡が路を満たしている。方略を思う(考える)べきだ。」
賈詡は羌・胡の大帥を招いて飲食し、封賞を与える約束をしました。
その結果、羌・胡が全て引き上げたため、李傕が単弱(弱小)になります。
そこでまた和解の計について発言する者が現れました。
李傕はこれに従い、お互いに娘を質(人質)にすることにしました。
車が前に進めなくなります。
李傕の兵数百人がそれぞれ大戟を持って乗輿車の左右にいました(ここは『三国志・魏書六・董二袁劉伝』の注に従いました。原文は「傕兵数百人皆持大戟在乗輿車左右」です。『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』の注と『資治通鑑』では乗輿車の前に李傕の兵がいました)。
兵達が交戦しようとすると(兵欲交)、侍中・劉艾が「これは天子である(是天子也)!」と大呼し、侍中・楊琦に命じて車帷(車の四周の帳)を高く挙げさせました。
郭汜の兵がやっと退き、車駕が前に進みました。
献帝が橋を渡り終えると、士衆が皆、万歳を唱えました。
夜、献帝が霸陵に至りました。従者は皆飢えています。
そこで張済が官位の大小に従って飲食を分け与えました(賦給各有差)。
李傕は京城を出て池陽に駐屯しました。
また、郭汜を車騎将軍に、楊定を後将軍に、楊奉を興義将軍に任命し、全て列侯に封じました。
旧牛輔の部曲・董承を安集将軍にしました。
郭汜は車駕を高陵に行幸させようとしました。
『資治通鑑』胡三省注によると、高陵県は馮翊に属します。
しかし公卿や張済は弘農に行幸させるべきだと考えました。大会を開いて議論しても決定できません。
しかし郭汜はやはり従いません。
そのため、献帝が終日食事をしなくなりました。
『後漢書・孝献帝紀』は「郭汜が自ら車騎将軍になった。楊定が後将軍に、楊奉が興義将軍に、董承が安集将軍になり、共に乗輿(皇帝)に侍って送った。張済は票騎将軍になり、陝に還って駐屯した」と書いています。『資治通鑑』には、「張済が陝に還った」という記述はありません。
郭汜は自分の陰謀が漏れたと知り、軍を棄てて南山に入りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、新豊驪山の西が終南山と接しており、これを南山と呼びました。
『武帝紀』は十二月に書いています。
冬十月、曹操を兗州牧に任命しました。
次回に続きます。