東漢時代350 献帝(三十二) 献帝の逃避行 195年(5)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。
 
[十三] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月戊戌(初一日)、郭汜の党羽である夏育、高碩等が共に乱を為して乗輿(皇帝)を脅し、西行しようと欲しました。
 
ここは『欽定四庫全書後漢(巻二十八)』に従いました。原文は「汜党夏育高碩等欲共為乱脅乘輿西行」です。『資治通鑑』は「郭汜党夏育高碩等謀脅乗輿西行」としており、「共為乱」がありません。
また、『後漢書・孝桓帝紀』は「郭汜がその将伍習を送り、夜、(献帝)行幸している学舍を焼いて乗輿を逼脅(脅迫)した」と書いています。
 
侍中劉艾は火が止まないのを見て、献帝に他の一営へ出幸(出御)して火を避けるように請いました。
資治通鑑』胡三省注によると、当時は郭汜、楊定、董承、楊奉がそれぞれ自分の営を構えていました。劉艾はどの営にするかを明言できないため、「一営」と表現してどこに行くかは献帝の意思に委ねました。
 
楊定と董承が兵を率いて天子を迎え、楊奉の営に向かいました。
夏育等が兵を指揮して乗輿(皇帝の車)を阻もうとしましたが、楊定と楊奉が力戦してこれを破ったため、献帝はやっと脱出できました。
孝献帝紀』は「楊定、楊奉が郭汜と戦い、これを破った」と書いていますが、実際は郭汜の将軍伍習や夏育等を破ったようです。
 
壬寅(初五日)献帝が華陰に行幸しました。
 
寧輯将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、「寧輯」は「安集(安定和睦)」とほぼ同じ意味です。暫時の将軍号です)段煨が皇帝の服御(服飾器物)や公卿以下の資儲(「資儲」は「貯蓄」「蓄え」の意味ですが、ここでは「物資」を指すと思います)を準備し、献帝が自分の営に行幸することを欲しました。
 
段煨は楊定と対立していました。
そこで楊定の党羽种輯や左霊が「段煨は謀反を欲している」と称しました。
これに対して太尉楊彪、司徒趙温、侍中劉艾、尚書梁紹がそろって言いました「段煨は反しません。臣等は敢えて死をもって保証します(敢以死保)。」
ところが、董承と楊定が弘農郡の督郵を脅し、「郭汜が来て既に段煨の営に居る」と言わせました。
献帝は疑いを抱き、道南で露次(露営。野宿)しました。
 
この夜、赤気が紫宮を貫きました。
孝献帝紀』の注によると、赤気は広さが六七尺あり、東は寅の地に、西は戌に地に至りました(「寅」は東北、「戌」は西北です。具体的にどこを指すのかはわかりません)
 
丁未(初十日)楊奉、董承、楊定が段煨を攻撃しようとしました。种輯と左霊を派遣して献帝に詔を下すように請います。
しかし献帝はこう言いました「段煨の罪がまだ明らかではないのに(罪未著)楊奉等はこれを攻め、しかも朕に詔を出させよう欲するのか(而欲令朕有詔邪)!」
种輯が頑なに詔を求めて夜半に至りましたが、献帝は同意しませんでした。
 
楊奉等は(詔を待たずに)直接、段煨の営を攻撃しましたが、十余日経っても落とせません。
しかも段煨は御膳(皇帝の食事)を供給し、百官にも食糧を与え(稟贍百官)、二意(二心)がありませんでした。
献帝は詔を発して侍中や尚書を派遣し、楊定等を告諭して段煨と和解させました。
楊定等は詔を受け入れて営に還りました。
 
李傕と郭汜は車駕を東に向かわせたことを後悔していました。
楊定が段煨を攻撃したと聞いた二人は、互いに誘い合って(段煨を)援けに行き、それを機に帝を脅迫して西に還ろうとしました。
楊定は李傕と郭汜が来たと聞いて藍田に還ろうとしましたが、郭汜に遮られたため、単騎で逃亡して荊州に走りました。
張済は楊奉、董承と関係がうまくいかなかったため(不相平)、再び李傕、郭汜と合流しました。
 
十一月庚午(初三日。『資治通鑑』では「十二月(日付無し)」ですが、ここは『孝献帝紀』の「十一月庚午」に従いました)献帝が弘農を行幸しました。
張済、李傕、郭汜が共に乗輿を追い、弘農東澗(「澗」は渓谷の意味です)で董承、楊奉と大戦しました。王師が敗戦し、百官や士卒の死者は数え切れず、御物(服飾器物)、符策(符節や命令書)、典籍が棄てられ、ほぼ全ての物資を喪失しました。
 
射声校尉沮儁が負傷して落馬しました。
李傕が左右の者に「まだ助かるか(尚可活否)?」と聞くと、沮儁が罵って言いました「汝等凶逆(凶悪な逆賊)は天子を逼劫(脅迫)し、公卿に害を被らせ、宮人を流離させている。乱臣賊子でこのようだった者はいない(未有如此也)!」
李傕は沮儁を殺しました。
 
孝献帝紀』ではこの戦いで射声校尉沮儁の他に光禄勳鄧泉、衛尉士孫瑞、廷尉宣播、大長秋苗祀、歩兵校尉魏桀、侍中朱展も殺されています。
資治通鑑』では、鄧泉(鄧淵)と宣播(宣璠)は庚申(二十四日)に殺され、士孫瑞は更に後に殺されており、苗祀、魏桀、朱展については書かれていません。
 
壬申(初五日。『資治通鑑』では「十二月壬申」ですが、この年の「十二月」に「壬申」はないので、『孝献帝紀』に従って「十一月壬申」とします)献帝が曹陽を行幸し、田中(農地)で露次(宿営。野宿)しました。
 
董承と楊奉が李傕等を騙して連和しました。その間に秘かに間使(密使)を送って河東に至らせ、元白波の帥李楽、韓暹、胡才および南匈奴右賢王(『孝献帝紀』では「左賢王」ですが、『資治通鑑』に従いました)去卑を招きます。
李楽等は共にその衆数千騎を率いて献帝を迎え入れ、董承や楊奉と共に李傕等を撃って大破しました。斬首した数は数千級に上りました。
 
李傕等が破れたばかりだったので、董承等は再び東に帰れるようになりました。
十二月庚申(二十四日)、車駕が曹陽から出発しました。董承、李楽が乗輿を護衛し、胡才、楊奉、韓暹、匈奴右賢王が後ろで拒しんがりになります。
しかし李傕等が再び進攻しました。楊奉等の王師が大敗して宮人(宮女)が殺略されます。
この戦いの死者は東澗の戦いよりも多く、光禄勳鄧淵、廷尉宣璠、少府田芬、大司農張義が犠牲になりました(これは『資治通鑑』の記述です。前述のとおり、『孝献帝紀』は鄧淵(鄧泉)と宣璠(宣播)の死を十一月庚午(初三日)に書いています。十二月庚申(今回)の戦いでは「少府田芬、大司農張義等が皆戦没した」としています)
 
司徒趙温、太常王絳、衛尉周忠、司隸校尉管郃(または「榮邵」)は李傕に遮られました(捕虜になったのだと思います。但し、『三国志魏書十荀彧荀攸賈詡伝』の注では「皆、李傕に嫌われていた(皆為傕所嫌)」と書かれています)
李傕が彼等を殺そうとしましたが、賈詡が「彼等は皆、大臣です。卿はどうしてこれを害すのですか」と言ったので止めました。
 
李楽が献帝に言いました「事は急を要します。陛下は馬を御すべきです(馬に乗って逃げるべきです。原文「事急矣,陛下宜御馬」)。」
献帝が言いました「百官を捨てて逃げてはならない。彼等に罪はない(此何辜哉)。」
胡三省は「危機に臨んで発せられたこの言を観るに、どうして献帝を)亡国の君とみなすことができるか(豈可以亡国之君待之哉)。ただ強臣によって制されたのである」と評しています。
 
東澗から四十里に渡って戦闘が繰り返され、献帝がやっと陝に到着しました。営を構えて守りを固めます(『資治通鑑』の原文は「兵相連綴四十里方得至陝乃結営自守」です。「東澗から」は『後漢書董卓列伝(巻七十二)』を元に補いました)
資治通鑑』胡三省注によると、陝は春秋時代の虢国(北虢)の地です。
 
 
 
次回に続きます。