東漢時代350 献帝(三十二) 献帝の逃避行 195年(5)
楊定と董承が兵を率いて天子を迎え、楊奉の営に向かいました。
寧輯将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、「寧輯」は「安集(安定和睦)」とほぼ同じ意味です。暫時の将軍号です)・段煨が皇帝の服御(服飾・器物)や公卿以下の資儲(「資儲」は「貯蓄」「蓄え」の意味ですが、ここでは「物資」を指すと思います)を準備し、献帝が自分の営に行幸することを欲しました。
段煨は楊定と対立していました。
そこで楊定の党羽・种輯や左霊が「段煨は謀反を欲している」と称しました。
ところが、董承と楊定が弘農郡の督郵を脅し、「郭汜が来て既に段煨の営に居る」と言わせました。
この夜、赤気が紫宮を貫きました。
种輯が頑なに詔を求めて夜半に至りましたが、献帝は同意しませんでした。
しかも段煨は御膳(皇帝の食事)を供給し、百官にも食糧を与え(稟贍百官)、二意(二心)がありませんでした。
楊定等は詔を受け入れて営に還りました。
李傕と郭汜は車駕を東に向かわせたことを後悔していました。
楊定が段煨を攻撃したと聞いた二人は、互いに誘い合って(段煨を)援けに行き、それを機に帝を脅迫して西に還ろうとしました。
楊定は李傕と郭汜が来たと聞いて藍田に還ろうとしましたが、郭汜に遮られたため、単騎で逃亡して荊州に走りました。
張済、李傕、郭汜が共に乗輿を追い、弘農東澗(「澗」は渓谷の意味です)で董承、楊奉と大戦しました。王師が敗戦し、百官や士卒の死者は数え切れず、御物(服飾・器物)、符策(符節や命令書)、典籍が棄てられ、ほぼ全ての物資を喪失しました。
射声校尉・沮儁が負傷して落馬しました。
李傕が左右の者に「まだ助かるか(尚可活否)?」と聞くと、沮儁が罵って言いました「汝等凶逆(凶悪な逆賊)は天子を逼劫(脅迫)し、公卿に害を被らせ、宮人を流離させている。乱臣賊子でこのようだった者はいない(未有如此也)!」
李傕は沮儁を殺しました。
壬申(初五日。『資治通鑑』では「十二月壬申」ですが、この年の「十二月」に「壬申」はないので、『孝献帝紀』に従って「十一月壬申」とします)、献帝が曹陽を行幸し、田中(農地)で露次(宿営。野宿)しました。
董承と楊奉が李傕等を騙して連和しました。その間に秘かに間使(密使)を送って河東に至らせ、元白波の帥・李楽、韓暹、胡才および南匈奴右賢王(『孝献帝紀』では「左賢王」ですが、『資治通鑑』に従いました)・去卑を招きます。
李傕等が破れたばかりだったので、董承等は再び東に帰れるようになりました。
この戦いの死者は東澗の戦いよりも多く、光禄勳・鄧淵、廷尉・宣璠、少府・田芬、大司農・張義が犠牲になりました(これは『資治通鑑』の記述です。前述のとおり、『孝献帝紀』は鄧淵(鄧泉)と宣璠(宣播)の死を十一月庚午(初三日)に書いています。十二月庚申(今回)の戦いでは「少府・田芬、大司農・張義等が皆戦没した」としています)。
司徒・趙温、太常・王絳、衛尉・周忠、司隸校尉・管郃(または「榮邵」)は李傕に遮られました(捕虜になったのだと思います。但し、『三国志・魏書十・荀彧荀攸賈詡伝』の注では「皆、李傕に嫌われていた(皆為傕所嫌)」と書かれています)。
李傕が彼等を殺そうとしましたが、賈詡が「彼等は皆、大臣です。卿はどうしてこれを害すのですか」と言ったので止めました。
東澗から四十里に渡って戦闘が繰り返され、献帝がやっと陝に到着しました。営を構えて守りを固めます(『資治通鑑』の原文は「兵相連綴四十里方得至陝乃結営自守」です。「東澗から」は『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』を元に補いました)。
次回に続きます。