東漢時代351 献帝(三十三) 献帝と袁紹 195年(6)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。
 
[十三(続き)] 当時、残破(敗戦。災難)の後に残った虎賁羽林は百人足らずしかいませんでした。
李傕と郭汜の兵が献帝の営を囲んで喚呼したため、吏士が色を失い、それぞれ分散(離散逃走)の意を抱くようになります。
懼れた李楽は車駕を船に乗せて砥柱(山名。黄河の急流がある場所)を通過し、孟津に出ようと欲しました。
しかし楊彪は「河道は険難なので、万乗(皇帝)(船に)乗るべきではない」と考えました。そこで、李楽に命じて夜の間に河を渡るための船を準備させ(『資治通鑑』では「使李楽夜渡潜具船(夜の間に河を渡って秘かに船を準備させ)」ですが、ここは『欽定四庫全書後漢記』の「使李楽夜具渡船」に従いました)、火を挙げて合図させました。
 
献帝と公卿は歩いて営を出ました。皇后の兄伏徳が皇后を抱え、片方の手で絹十匹を抱えます。
 
資治通鑑』はここで、「董承使符節令孫徽従人間斫之,殺旁侍者,血濺后衣」と書いています。董承が符節令孫徽を使って人々の間からそれ(誰かははっきりしません)を斬らせ、(皇后の)傍の侍者を殺したため、血が皇后の衣服を汚したようですが、なぜ孫徽に皇后の侍者を殺させたのか、理由がわかりません。
資治通鑑』は袁宏の『後漢紀』を元にしており、それを見ると「董承使符節令孫儼(『資治通鑑』では「孫徽」)従人間斫后」と書かれています(『欽定四庫全書後漢記』)
董承は孫儼(孫徽)に皇后を斬らせようとしたようです。しかしそれでは叛逆になってしまうはずです。
 
後漢書皇后紀下』にも記述があり、董承が絹を奪おうとしたことが明記されています。以下、『皇后紀下』からです。
六宮(皇后を始めとする後宮の女性)が皆歩いて営を出ました。皇后は手に数匹の縑(絹の一種)を持っています。董承が符節令孫徽を送り、刃(兵器)で脅してこれを奪おうとしました。孫徽が周りの侍者を殺したため、血が皇后の衣服を汚しました(六宮皆步行出営。后手持縑数匹,董承使符節令孫徽以刃脅奪之,殺傍侍者,血濺后衣)
後漢書皇后紀下』の記述がこの一件の真相のようです。
尚、『資治通鑑』胡三省注によると、符節令は少府に属し、秩六百石です。符節台を統率し、符節を管理しました。
 
本文に戻ります。
献帝、皇后や群臣、宮人が河岸まで来ましたが、高さが十余丈もあったため、降りられませんでした。
そこで(伏徳が持っていた)絹を結んで輦(輿)を作り、献帝の前に人を置いて背負わせました。
三国志魏書六董二袁劉伝』の注によると、行軍校尉尚弘が多力だったため、献帝を背負いました。
 
他の者は皆、匍匐で岸を降ります。ある者は上から身を投じ、冠幘(冠や頭巾)が皆、破壊されました。
後漢書董卓列伝』は「死亡傷残(負傷)した者の数は分からない(不復相知)」と書いています。
 
河辺に着いた士卒は争って舟に向かいました。しかし(舟が足りないため)董承と李楽が戈で撃ちます。
舟の中に斬られた指が溜まってすくえるほどになりました(原文「手指於舟中可掬」。舟の縁にしがみつこうとした者の指が斬られたため、舟の中に指の山ができました。春秋時代、邲の戦いでも同じ事が起きました。東周定王十年597年参照)
 
こうして献帝がやっと船に乗ることができました。献帝と共に河を渡ったのは皇后および楊彪以下数十人だけで、宮女や吏民で渡河できなかった者は、皆、兵に掠奪(略奪)され、衣服が全てなくなり、髪も切られ、数えられないほどの人が凍死しました。
衛尉士孫瑞は李傕に殺されました。
 
李傕は河北に火が灯っているのを見て、騎兵を派遣して偵察させました。ちょうど献帝が渡河するのを見つけたため、「汝等は天子を連れてどこに行くのだ(汝等将天子去邪)!」と叫びます(騎兵が叫んだのではなく、報告を聞いた李傕が後を追って叫んだのだと思います)
董承は李傕の兵が矢を射ることを懼れ、被(布団)で幔(幕)を作りました。
その後、大陽(『資治通鑑』胡三省注によると、大陽県は河東郡に属します。大河の陽(北)という意味です)に到着し、李楽の営に行幸します(李楽は渡河用の船を準備してから、あらかじめ黄河を渡って営を構えていたようです)
河内太守張楊が数千人に米を背負わせて献上しました(貢餉)
 
乙亥(中華書局『白話資治通鑑』は「乙亥」を恐らく誤りとしています)献帝が牛車を御して安邑を行幸しました。
河東太守王邑が綿帛を献上します。
献帝はそれを全て公卿以下の官員に分け与えました。
また、王邑を列侯に封じ、胡才を征東将軍に、張楊を安国将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、安国将軍の号はここから始まります)に任命しました。(胡才と張楊には)符節を与えて官府を開かせます(假節開府)
塁壁の群帥(諸将帥。指導者。『後漢書董卓列伝』では「塁壁群豎(小人達)」です)が競って官職を求めたため、刻印が追いつかず(刻印不給)、錐で刻んだだけの物も作られました(原文「至乃以錐画之」。印璽の文字を正式に彫刻するのではなく、錐で簡単に削っただけの物が作られました)
 
乗輿(皇帝)は棘籬(棘の垣根)の中に住みました。
門戸を閉じることができないため、天子と群臣が会したら、兵士が籬(垣根)の上に伏してその様子を観望し、互いにひしめき合って笑いました(互相鎮壓以為笑)
 
献帝がまた太僕韓融を弘農に送り、李傕、郭汜等と連和しました。
李傕は公卿百官を放ち、奪った宮人や乗輿器服の多くを返しました。
 
やがて糧穀が尽きたため、宮人は皆、菜果(自然の野菜や果物)を食べました。
 
乙卯(十九日)張楊が野王(地名。『資治通鑑』胡三省注によると、河内郡に属します)から来朝し、乗輿を雒陽に還すことを謀りました。
しかし諸将が同意しなかったため、張楊は野王に還りました。
 
当時、長安城では統治する者がいなくなって四十余日が経過していました。強者は四散し、羸者(弱者)は飢えて互いに食し、二三年の間に関中には人跡(人影)が無くなりました。
 
三国志魏書一武帝紀』は本年の献帝の東遷をまとめてこう書いています「この年、長安が混乱し、天子が東遷したが、曹陽で敗れ、河を渡って安邑に行幸した。」
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
沮授が袁紹を説得して言いました「将軍の累葉(累世。代々)は台輔(三公重臣となり、代々忠義を継承してきました(世済忠義)。今、朝廷が播越(流亡)して宗廟が残毀(毀損)しています。諸州郡を観るに、外は義兵を称していますが(外託義兵)、内実は互いに図っており(内実相図)社稷の存続を憂いて民に同情しようという意はありません(未有憂存社稷卹民之意)。今、州域冀州の領域)がほぼ定まり(粗定)、兵が強くて士も帰順しているので(兵強士附)、西に向かって大駕を迎え、宮を安んじて鄴を都とし(『後漢書袁紹劉表列伝上(巻七十四上)』と『資治通鑑』では「即宮鄴都」ですが、ここは『三国志魏書六董二袁劉伝』裴松之注の「安宮鄴都」に従いました。宮殿を建てて鄴に遷都するという意味だと思います)、天子を挟んで(制御して)諸侯に号令し(挟天子而令諸侯)、士馬を蓄えて不庭(入朝しない者。朝廷に逆らう者)を討てば、誰がこれに抵抗できるでしょう(誰能禦之)。」
 
潁川の人郭図と淳于瓊が言いました「漢室が陵遅(衰落)して既に久しくなります。今、これを興そうと欲するのは、難しいのではありませんか(不亦難乎)。しかも英雄が並起してそれぞれ州郡を占拠しており、徒を連ねて衆を集め、動けば万を数えます(連徒聚衆動有万計)。これは秦がその鹿を失い、先にそれを得た者が王になるという状況です。今、天子を迎えて自ら近づいたら、動く時にはいつも表聞(上奏報告)しなければならず、これに従ったら権が軽くなり、これに違えたら拒命になるので(命を拒否したことになるので)、善計ではありません(非計之善者也)。」
 
沮授が言いました「今、朝廷を迎えるのは、義においてはするべきことであり、時においては相応しいことです(於義為得於時為宜)。もしも早く定めなかったら、必ず先んじる者がいます(必有先之者矣)。」
袁紹は従いませんでした。
 
三国志魏書六董二袁劉伝』の本文は『資治通鑑』と異なり、こう書いています「天子献帝の即位は袁紹の意ではなかった。献帝が)河東に居る時になって、袁紹が潁川の人郭図を使者にして派遣した。郭図は還ってから袁紹を説得し、天子を迎えて鄴を都にさせようとしたが、袁紹は従わなかった。」
しかし『董二袁劉伝』の裴松之注では上述の通り、沮授が献帝を迎え入れるように進言して郭図等は反対しています。『後漢書袁紹劉表列伝上』も同じです。
資治通鑑』は裴松之注と『後漢書』に従っています。
 
胡三省はこう書いています「袁紹は沮授の言に従うことができなかったため、果たして、曹操に先を越されてしまった。帝が許曹操の拠点)を都にしてから、(袁紹)遷都させて自ら近づこうと欲したが、既に晩すぎた(不亦晚乎)。」
 
 
 
次回に続きます。