東漢時代352 献帝(三十四) 孫策東進 195年(7)
『三国志・呉書十一・朱治朱然呂範朱桓伝』によると、朱治は初め県吏になり、後に孝廉に選ばれ、州に招聘されて従事になり、孫堅の(諸賊に対する)征伐に従いました。霊帝中平五年(188年)、司馬に任命され、孫堅に従って長沙・零陵・桂陽三郡の賊・周朝や蘇馬等を討ちます。この時、功があったので、孫堅が上表して朱治を行都尉にしました。
当時、呉景が樊能、張英等を攻撃していましたが、一年以上経っても勝てませんでした。
そこで孫策は、呉景等を助けて江東を平定する許可を袁術に乞いました。孫策が袁術を説得して言いました「我が家は東に旧恩があるので、舅(母の兄弟。呉景)を助けて横江を討つことを願います。横江を抜いてから、そのまま本土(故郷)に投じて召募すれば、三万の兵を得ることができます。それによって明使君が漢室を匡済(匡正・救済)して天下を定めるのを輔佐します。」
袁術は孫策が自分を恨んでいることを知っていました(九江と廬江の太守に任命しなかったからです)。しかし劉繇が曲阿を占拠しており、王朗も会稽にいるので、孫策が江東を平定できるとは限らないと判断して許可しました。
孫策の兵はわずか千余人で、騎馬は数十頭、賓客で従うことを願った者は数百人でした。しかし行軍しながら兵を収め、歴陽に至った時には衆五六千になりました。
孫策が大いに喜んで言いました「私が卿を得たのは諧である(原文「吾得卿,諧也」。「諧」は「一対」「合和」の意味、または「相応しいこと」「適切なこと」です。周瑜との出会いはあるべき姿であって、周瑜がいれば成功できるという喜びを表しています)!」
孫策は横江と当利に進攻してどちらも攻略しました。樊能と張英は敗走します。
百姓は孫郎が至ったと聞いて、皆、魂魄を失いました。長吏は城郭を棄てて山草(『資治通鑑』胡三省注によると、「山草」は深山で草が茂った地域を指します。かつて李固も皇帝への回答で「山草」を使っており、当時はよく使われていた言葉だったようです)に逃げ隠れします。
孫策が実際に至ると、軍令が整粛(厳粛)で、軍士が令を奉じて(命令を守り)虜略(略奪)をせず、鶏犬や菜茹(野菜)も一切侵さなかったため、百姓が大いに悦んで孫策に懐き、競って牛酒を提供して軍を労いました。
孫策の為人は、容貌が美しく(美姿顔)、笑語(愉快な会話)ができ(ここは『資治通鑑』の「能笑語」に従いました。『孫破虜討逆伝』では「好笑語(笑語を好む)」です)、性格は闊達(性格が明るいこと)で広く意見を聴き入れ(闊達聴受)、人を用いるのが得意でした(善於用人)。そのため、孫策に会った士民で心を尽くさない者はなく、喜んで命をかけました(楽為致死)。
『資治通鑑』胡三省注はこう解説しています「袁術は初平四年に始めて寿春を得た。袁術が徐州を攻めようとして陸康に米を求めたのは(前年参照)、劉備が徐州を得た後の事に違いない(劉備は前年、徐州牧になりました)。また、『呉景が劉繇(樊能、張英等)を攻めて一年余り経っても勝てなかった』とあるので、孫策が長江を渡ったのは興平元年(前年)より前であるはずがない。」
当時、彭城相・薛礼と下邳相・丹陽の人・笮融(笮が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、かつて楚に笮倫がいました)が劉繇を頼って盟主に立てており、薛礼は秣陵城(『資治通鑑』胡三省注によると、秣陵は元の名を金陵といいました)を拠点とし、笮融は秣陵県南に駐屯していました。
孫策はまず笮融を攻めました。笮融も兵を出したため交戦になります。
しかし孫策が五百余級を斬首すると、笮融は門を閉じて動かなくなりました。
この時、樊能、于麋等が再び衆を併せて牛渚屯を襲い、奪取しました。
それを聞いた孫策は兵を還して樊能等を攻め破り、男女一万余人を獲ました。
その後、また東下して薛融を攻めましたが、流矢が命中して股を負傷し、馬に乗れなくなりました。
孫策は輿を使って牛渚営に還ります。
これに対して孫策は歩騎数百を送って挑戦させ、後ろに伏兵を設けました。賊(于茲)が出撃すると、(孫策の歩騎は)鋒刃が接する前に偽って逃走します。賊がこれを追撃して伏兵の中に入ったところを、孫策軍が大破して千余級を斬首しました。
賊(笮融の兵)は驚き怖れて夜の間に遁走します。
孫策は笮融が駐屯している場所の地勢が堅固だったため、そのままにして去りました。
以上が裴松之注からの引用です。本文に戻ります。
その後、兵を進めて曲阿で劉繇を撃ちました。
しかし太史慈は前に進んで戦い、孫策と向かい合いました(慈便前闘正與策対)。孫策が太史慈の馬を刺して太史慈の項(首の後ろ)の上から手戟をつかみ取りましたが(背に挿していた手戟を奪ったようです。原文「擥得慈項上手戟」)、太史慈も孫策の兜鍪(兜)を得ます。
ちょうど両家の兵騎(歩兵と騎兵)が向かって来たため、双方とも解散しました。
諸郡守も皆、城郭を棄てて奔走しました。
『後漢書・孝献帝紀』は前年に「楊州(揚州)刺史・劉繇と袁術の将・孫策が曲阿で戦った。劉繇の軍が敗績(敗戦)した」と書いていますが、『三国志・孫破虜討逆伝』裴松之注が「興平二年(本年)」の事としており、『資治通鑑』は『三国志』裴松之注に従っています。
次回に続きます。