東漢時代353 献帝(三十五) 笮融 195年(8)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。
 
[十五(続き)] 劉繇が逃走したため、孫策が曲阿に入りました。
孫策は将士を労賜(慰労して賞賜を与えること)し、将陳宝を阜陵に送って母や弟を迎えます。
 
また、恩を発する布令をして諸県に告諭しました。「劉繇、笮融等の故郷部曲(「同郷の者と部曲の者」または「同郷の部曲の者」)で降首(投降)に来た者は一切不問とする(一無所問)。喜んで従軍する者は、一身が行ったら、門戸を復除する(一家で一人が従軍したら、その家の賦役を免除する。原文「楽従軍者一身行復除門戸」)。従軍を欲しない者も強制はしない(不楽者不強)」という内容です。
 
旬日(十日)の間に四面から(兵が)雲集し、現有の兵二万余人、馬千余頭を得ました。威が江東を震わせて形勢が盛んになります。
 
丙辰(二十日)袁術が上表して孫策を行殄寇将軍にしました。
上述の通り、これは『資治通鑑』の記述です。胡三省注によると、殄寇将軍の号はここから始まります。
 
孫策の将呂範が孫策に言いました「今、将軍の事業は日に日に大きくなり、士衆も日に日に盛んになっていますが、綱紀にはまだ整っていない内容があります。範(私)は暫く都督を領し(担当し)、将軍を輔佐してこれを管理することを願います(原文「願暫領都督佐将軍部分之」。「部分」は「配置する」「手配する」「処理する」という意味ですが、分かりやすく「管理」と訳しました)。」
孫策が言いました「子衡(呂範の字です)は既に士大夫であり、加えて手下には既に大衆がいて、外において功を立てた(『資治通鑑』胡三省注によると、呂範はかつて宛陵令を領し、丹陽賊を破って帰還しました)。どうしてまた小職に屈して軍中の些細な事を把握しなければならないのだ(豈宜復屈小職知軍中細事乎)。」
呂範が言いました「それは違います(不然)。今、本土を捨てて将軍に託したのは、妻子のためではありません(『資治通鑑』胡三省注によると、呂範は汝南の人です)。世務(世情。時勢)を救済したいと欲するからです(欲済世務也)。譬えるなら同じ舟で海を渉る(渡る)のと同じで、一事が堅固でなかったら、共に失敗することになります(一事不牢即俱受其敗)。これは範(私)のための計でもあり、将軍だけのためではありません(此亦範計非但将軍也)。」
孫策は笑うだけで答えられませんでした。
 
呂範は退出してから褠(単衣)を脱いで袴褶(騎服)に着替え、鞭を持ち、閣下孫策の官署)を訪ねて啓事(報告)しました。自ら都督を領したと称します。孫策は伝(符伝。兵符)を授けて衆事(諸事)を委ねました。
この後、軍中が粛睦(安寧和睦)となり、威禁(法令)が大いに行われるようになりました。
 
孫策が張紘を正議校尉に、彭城の人張昭を長史に任命しました。常にどちらか一人に居守(留守)させ、一人を征討に従わせます。
広陵の人秦松、陳端等も謀謨(策謀)に参与しました。
 
孫策は張昭を師友の礼(師や友に対す礼。自分に益がある人に対する礼です)で待遇し、文武の事を全て張昭に委ねました。
張昭が北方の士大夫の書疏(書信)を得ると、いつも美(賛美。功績)を張昭に帰していました。
それを聞いた孫策が歓笑して言いました「昔、管子管仲が斉の相となり、一にも仲父、二にも仲父とされたので(一則仲父二則仲父)桓公が霸者の宗(尊崇される存在)になった。今、子布(張昭の字です)は賢であり、私はそれを用いることができる。功名が私にだけ存在しないことがあるだろうか(賢人の張昭を用いることができるのだから、私が功名を得られないはずがない。原文「其功名独不在我乎」)。」
 
袁術が従弟の袁胤を丹陽太守に任命しました。
元丹陽太守周尚は周瑜と共に寿春に還りました。
 
劉繇が丹徒から会稽に奔ろうとしました。
許劭が言いました「会稽は富実(富裕)なので孫策が貪ろうとしています。しかも海隅(臨海)に窮しているので(地の果てにあるので)、行くべきではありません。豫章の方が勝っており、北は豫壤豫州の地)に連なり、西は荊州に接しています。もし吏民を收合(収集)してから、(朝廷に)使者を派遣して貢物を献上し、曹兗州(兗州牧曹操と連絡を取れば(與曹兗州相聞)、たとえ袁公路袁術がその間で隔てたとしても、この人は豺狼なので久しくできません。足下(あなた)は王命を受けているので、孟徳曹操の字)も景升劉表の字)も必ず救済します。」
劉繇はこれに従いました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
以前、陶謙が笮融を下邳相に任命し、広陵、下邳、彭城の食糧輸送を監督させました。
ところが笮融は三郡の輸送を断って全て自分の物とし、大いに浮屠祠仏陀の祠。寺院)を建てました。
人々に仏経の誦読(朗読暗唱)を課し(義務付け)、周辺の郡から好仏者(仏教を好む者。仏教徒を招いて五千余戸に至ります。
浴仏浴仏会。釈迦が生まれたとされる四月八日の儀式)の度に多くの飲食(宴席)を設け、路に席を並べて数十里に及びました。その費用は鉅億(巨億)を数えます。
後に曹操陶謙を撃破すると、徐州の地が不安定になりました。
そこで笮融は男女一万口を率いて広陵に走りました。
広陵太守趙昱は賓礼(賓客に対す礼)によって待遇しました。
 
これより前に彭城相薛礼が陶謙に逼迫されて秣陵に駐屯していました。
笮融は広陵の資貨(財貨)を利とみなし(財貨を貪るため。原文「融利広陵資貨」)、酒がまわった機会に乗じて(乗酒酣)趙昱を殺しました。その後、兵を放って大いに略奪し、そのまま長江を渡って薛礼を頼りましたが、すぐに薛礼も殺しました(薛礼は秣陵城を拠点としており、薛礼を頼った笮融は秣陵県南に駐屯しました。薛礼は孫策に攻撃された時に逃走しましたが(前回)、その後、笮融に殺されたようです)
 
劉繇が豫章太守朱皓を派遣し、袁術が用いた太守諸葛玄を攻撃させました。
諸葛玄は退いて西城を守ります。
 
三国志呉書四劉繇太史慈士燮伝』の裴松之注を見ると、諸葛玄は劉表に用いられて太守になっています。
しかし『三国志蜀書五諸葛亮伝』では袁術によって太守に任命されています。
許劭が劉繇に「足下(あなた)は王命を受けているので、孟徳曹操の字)も景升劉表の字)も必ず救済します」と言っているので(上述)劉表が用いた諸葛玄を劉繇が攻めるのは不自然です。
よって、『資治通鑑』は『諸葛亮伝』に従っています(胡三省注参照)
 
劉繇が長江を遡って西上し、彭沢に駐軍しました。そこで笮融を使って朱皓を助け、諸葛玄を攻めさせようとします。
許劭が劉繇に言いました「笮融の出軍は名義を顧みません(または「笮融が軍を出しましたが、彼は名義を顧みない者です。」原文「笮融出軍不顧名義者也」)。朱文明(文明は朱皓の字です)は喜んで誠意によって人を信じます(喜推誠以信人)。秘かに防がせるべきです(警戒させるべきです。『資治通鑑』では「更使密防之」ですが、「更」では意味が通じません。ここは『三国志呉書四劉繇太史慈士燮伝』の注に従って「宜使密防之」としました)。」
笮融が到着すると、果たして朱皓を殺し、代わりに自ら郡の政務を担当しました(代領郡事)
 
劉繇が進軍して笮融を討ちました。笮融は敗走して山に入りましたが、民に殺されます。
献帝が詔を発して元太傅掾華歆を豫章太守に任命しました。
 
丹陽都尉朱治が呉郡太守許貢を駆逐してその郡を占拠しました。
許貢は南に移動して山賊厳白虎を頼りました。
資治通鑑』胡三省注によると、厳白虎は一万余人の衆を擁しており、呉郡の南で山を利用して屯聚(駐屯)していました(『三国志・呉書一孫破虜討逆伝』では「厳白虎」の名を一字の「虎」としている個所もあります。「厳虎」が本名のようです)
 
 
 
次回に続きます。