東漢時代354 献帝(三十六) 臧洪 195年(9)

今回も東漢献帝興平二年の続きです。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
張超が雍丘におり、曹操の包囲攻撃が激しくなりました。
張超が言いました「臧洪だけは私を救いに来るはずだ。」
資治通鑑』胡三省注によると、張超は広陵太守になった時、臧洪を招いて功曹に任命し、政治を委ねました。
臧洪は広陵射陽の人です(『三国志魏書七呂布臧洪伝』)
 
衆人が言いました「袁曹は和睦しており(方睦)、臧洪は袁紹によって表用されたので(『資治通鑑』胡三省注によると、臧洪は張超の使者として劉虞を訪ねましたが、路が塞がっていたため、袁紹のもとに身を寄せました。そこで袁紹が上表して東郡太守に任命し、治所を東武陽にしました)、友好を破って禍を招くはずがありません(必不敗好以招禍)。」
張超が言いました「子源(臧洪の字です)は天下の義士だ。最後は本に背くことはない(終不背本)。ただ恐れるのは、強力袁紹に制されて及ばなくなる(間に合わなくなる)ことだけだ(但恐見制強力不相及耳)。」
 
臧洪はこの時、東郡太守になっていました。
臧洪は徒跣(裸足)で号泣して袁紹に兵を出すように請い、張超の難に赴こうとしましたが、袁紹は兵を与えませんでした。
そこで自ら管轄下の兵を率いて行こうとしましたが、袁紹はやはり許可しませんでした
 
その間に雍丘が潰滅します。
張超は自殺し、曹操がその三族を皆殺しにしました(夷其三族)
 
三国志魏書一武帝紀』は「雍丘が潰滅し、張超が自殺した。曹操が)張邈の三族を皆殺しにした(夷邈三族)。張邈は袁術を訪ねて救援を請おうとしたが、その衆に殺された。兗州が平定されたので、曹操はそのまま東に進んで陳の地を攻略した」と書いています。
資治通鑑』では八月に張邈が殺されています。
 
資治通鑑』に戻ります。
この事があってから、臧洪は袁紹を怨んで関係を絶ちました(絶不與通)
そこで袁紹が兵を興して臧洪を包囲しましたが、年を経ても下せませんでした。
 
袁紹は臧洪の邑人陳琳に命じ、書信を送って諭させました。
臧洪が返書を送って陳琳にこう言いました「僕(私)は小人であり、元から志用(器量と見識)に欠けていた(僕小人也本乏志用)。しかし行役(公務)が縁で主人に出会うことができ(原文「中因行役蒙主人傾蓋」。「傾蓋」は車上の傘を近づけることです。「主人の傾蓋を蒙った」というのは、「主人に出会えた」「主人に知り合えた」という意味です)、恩が深く情誼が厚くなったので(恩深分厚)、大州を竊んだ(盗んだ。原文は「遂竊大州」です。冀州で官職を得ることができたという意味だと思います)。どうして今日自ら喜んで逆に刃を接するだろう(どうして自ら喜んで武器を持って逆らうだろう。原文「寧楽今日自還接刃乎」)。任を受けたばかりの時、私自身は大事を徹底して共に王室を尊重できると思った(自謂究竟大事共尊王室)。本州が侵されることをどうして悟れただろう(その時は故郷の州が侵略されるとは思いもよらなかった。原文「豈悟本州被侵」)。郡将(張超)が禍に遭ったので(遘戹)師を請うたが拒まれ、辞行(別れを告げて出発すること)したら拘束され、洪()の故君を淪滅(滅亡)に至らせることになり、区区とした(小さな)微節も獲申(発揮)できなかった。どうしてまた(陳琳との)交友の道を全うし、重ねて忠孝の名を損なうことができるだろう。これが悲痛を忍んで戈を揮い(忍悲揮戈)、涙を収めて告絶する(別れを告げる)理由だ。
これで別れだ、孔璋(陳琳の字です。原文「行矣孔璋」)。足下()は境外で利を求めよ。臧洪()は君親(君主)に命を投じる。吾子()は盟主袁紹)に身を託せ。臧洪()長安に策名する(「策名」は名簿に名を留めて忠誠を誓うことです。長安には献帝がいるので、朝廷に忠誠を誓うという意志を示しています)。子()は余()の身が死んで名が滅ぶと言うが、僕()も子(汝)が生きながら名声がないことを笑おう(子謂余身死而名滅,僕亦笑子生而無聞焉)。」
 
臧洪の書を見た袁紹は投降の意がないと知り、兵を増やして急攻しました。
城中の糧穀が既に尽き、外にも強力な救援がいないため、臧洪は禍から免れられないと判断します。
そこで将吏士民を呼んで言いました「袁氏は無道で不軌(謀反)を図っており、しかも洪()の郡将を救わなかった。洪(私)大義において死なないわけにはいかない。しかし諸君が事(理由、関係)が無いのに空しくこの禍に関与していることを思念する。城が敗れる前に、妻子を連れて脱出するべきだ(可先城未敗将妻子出)。」
皆が涙を流して言いました「明府と袁氏は本来怨隙がないのに、今、本朝(朝廷)の郡将(太守)のために、自ら残困(敗残困窮)をもたらしました。吏民がどうして明府を捨てて去ることを忍べるでしょう(吏民何忍当舍明府去也)。」
 
城内の人々は、初めは鼠を掘ったり筋角(動物の筋や角。弓に使います)を煮て食べていましたが、後には食べられる物が無くなりました。
主簿が内厨に三升の米があると報告し(主簿啓内厨米三升)、一部を使って饘粥(粥)を作ることを請いました。
臧洪は嘆いて「どうして一人でこれを味わえるだろう(何能独甘此邪)」と言い、薄糜(薄い粥)を作らせて遍く士衆に分け与えました。更には愛妾を殺して将士に与えます。
将士は皆、涕を流し、頭を挙げて仰ぎ見ることができなくなりました。
(食糧が無くなり)男女七八千人が枕を連ねて死にましたが、離叛する者はいませんでした。
 
ついに城が陥落して臧洪が生け捕りにされました。
袁紹は諸将を集めてから臧洪に会い、こう問いました「臧洪よ、なぜこのように背いたのだ(何相負若此)。今日は服したか?」
臧洪は地面に坐って目を見開き(拠地瞋目)、こう答えました「諸袁は漢に仕え、四世五公(五公は五人の三公です。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。袁安から袁隗までが四世で、袁安は司徒に、子の袁敞は司空に、孫の袁湯は司空に、曾孫の袁逢は司空に、袁隗は太傅になりました)が恩を受けたと言うべきなのに、今、王室が衰弱したら、扶翼(補佐)の意が無く、この機に乗じて非望(叛逆)を望み(欲因際会希冀非望)、多くの忠良を殺すことで姦威を立てている。洪(私)は自ら(汝が)張陳留(張超の兄張邈)を兄と呼ぶのを見た。それならば洪(私)の府君(張超)(汝の)弟であり、共に力を尽くして国のために害を除くべきであるのに(同共戮力為国除害)、どうして衆を擁して人が屠滅(殺し尽くすこと)するのを観ていたのだ(柰何擁衆観人屠滅)。洪(私)は自分の力が劣り、推刃(刀剣で刺殺すること)して天下のために仇に報いられなかったことを惜しむ。なぜ服したかと聞くのだ(何謂服乎)。」
袁紹は元々臧洪を愛しており、屈服させて赦したいと思っていました。
しかし臧洪の言葉が激切だったので、自分に用いられることはないと知り、殺してしまいました。
 
臧洪の邑人陳容は若い頃から臧洪に親しみ慕っていました。
この時、袁紹の坐にいたため(同席していたため)、立ち上がって袁紹に言いました「将軍は大事を挙げて天下のために暴を除こうと欲しています。それなのに先に忠義を誅したら、どうして天意に合うでしょう。臧洪の発挙(事を挙げること)は郡将のためです。どうして彼を殺したのですか(柰何殺之)。」
慚愧した袁紹は人に命じて陳容を引き出させ、「汝は臧洪の儔(輩。同類)ではない。空しくそのようなこと(臧洪のような発言)を繰り返しただけだ(汝の発言は意味がない。原文「空復爾為」)」と言いました。
陳容が振り向いて言いました「仁義にどうして常があるか(仁義の形は一つではない。原文「仁義豈有常」)。これを実践したら君子であり、背いたら小人である(蹈之則君子,背之則小人)。今日、臧洪と同日に死ぬことはあっても、将軍と同日に生きることはない。」
陳容も殺されました。
同席した者で嘆息しない者はなく、互いに隠れて「一日に二人の烈士を殺してしまうとは(如何一日殺二烈士)」と言いました。
 
 
 
次回に続きます。