東漢時代356 献帝(三十八) 呂布と劉備 196年(1)

今回は東漢献帝建安元年です。七回に分けます。
 
東漢献帝建安元年
丙子 196
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月癸酉(初七日)安邑で上帝を郊祀し、大赦して興平三年から建安元年に改元しました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』からです。
曹操軍が武平に臨みました。
袁術が置いた陳相袁嗣が曹操に降りました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』では、ここで曹操献帝を迎え入れるために曹洪を西へ派遣しています。『資治通鑑』は八月に書いているので、八月に詳述します。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
董承と張楊が天子を雒陽に還らせようとしましたが、楊奉と李楽がそれを望みませんでした。
そのため諸将が互いに猜疑して異心を抱くようになります。
 
二月、韓暹が衛将軍董承を攻めました。
董承は野王に奔ります。
資治通鑑』胡三省注によると、野王には張楊が駐屯していました。
 
韓暹は聞喜(地名)に駐屯し、胡才と楊奉は塢郷に向かいました。
胡才が韓暹を攻撃しようとしましたが、献帝が人を送って諭したため、中止しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
汝南、潁川の黄巾何儀等が衆を擁して袁術に附きましたが、曹操が撃破しました。
 
三国志魏書一武帝紀』はこう書いています。
汝南、潁川の黄巾何儀、劉辟、黄邵、何曼等はそれぞれ数万の衆を擁しており、以前は袁術に応じ、また、孫堅に附きました。
二月、曹操が軍を進めて討破し、劉辟、黄邵等を斬りました。何儀とその衆は全て投降しました。
 
三国志武帝紀』はここで「劉辟を斬った」としていますが、劉辟の名はこの後も見られます。同姓同名の人物がいた可能性もありますが、恐らく誤記だと思われます。『資治通鑑』は劉辟が斬られたという記述を採用しておらず、建安五年200年)になって劉辟が登場します。
 
また、『三国志武帝紀』はここで「天子が太祖(曹操)を建徳将軍に任命し、夏六月、鎮東将軍に遷して費亭侯に封じた」と書いています。
しかし『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』では献帝が雒陽に還った後(七月以降)曹操を鎮東将軍に任命して費亭侯に封じています。『資治通鑑』は『程郭董劉蒋劉伝』に従っています(再述します)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
張楊が董承を送って先に雒陽宮を修繕させました。
太僕趙岐が董承のために劉表を説得し、兵を雒陽に送って宮室の修築を助けさせました。劉表による軍資(軍用物資や食糧)の委輸(輸送)が途絶えることなく前後に連なります。
 
夏五月丙寅(初二日)献帝楊奉、李楽、韓暹の営に使者を派遣し、献帝を雒陽に送るように求めました。楊奉等は詔に従います。
六月乙未(初一日)、車駕が聞喜を行幸しました。
 
[] 『三国志蜀書二先主伝』の本文と裴松之注および『資治通鑑』からです。
袁術が徐州を争うために劉備を攻めました。
劉備は司馬張飛を留めて下邳を守らせ、自ら盱眙、淮陰で袁術に対抗します。
資治通鑑』胡三省注によると、盱眙、淮陰の二県は下邳国に属します。
尚、『三国志先主伝』本文と『資治通鑑』では「盱眙、淮陰」ですが、『先主伝』裴松之注では「淮陰石亭」としています。
 
三国志蜀書二先主伝』はここで「曹公曹操が上表して先主劉備を鎮東将軍にし、宜城亭侯に封じた」と書いています。
本年、楊奉等の諸将軍が共に上表して曹操を鎮東将軍にします(下述します)。朝廷の任命権が混乱していたため、曹操が上表した劉備と、楊奉等が上表した曹操の二人が鎮東将軍の号を持つことになったようです。あるいは、曹操が鎮東将軍になってから、劉備の将軍号は解かれたのかもしれません。
 
本文に戻ります。
劉備袁術の両軍は月を経て対峙を続け、どちらにも勝敗がありました。
 
陶謙の旧将である下邳相曹豹が張飛と争いました。張飛が曹豹を殺したため、城内が乖乱(混乱、動乱)します。
この部分を『資治通鑑』は「(曹豹)張飛相失,飛殺之」と書いていますが、『三国志魏書七呂布臧洪伝』の裴松之注では「張益徳與下邳相曹豹共争益徳殺豹」です。恐らく『資治通鑑』の「失」は「争」の誤りです。
 
下邳城内が混乱したため、袁術呂布に書を送り、虚を突いて下邳を襲うように勧めました。同時に袁術呂布を助けて軍糧を与えることを約束します。
大いに喜んだ呂布は軍を率いて水陸から東下しました。
資治通鑑』胡三省注によると、呂布は下邳の西に駐屯していたようです。
 
劉備の中郎将丹陽の人許耽が下邳の城門を開いて呂布を迎え入れました。
張飛は敗走します。
呂布劉備の妻子や将吏の家口(家属)を捕虜にしました。
 
尚、『三国志呂布臧洪伝』と『資治通鑑』では上述の通り、張飛が曹豹を殺していますが、『三国志蜀書二先主伝』では「呂布が虚に乗じて下邳を襲った。下邳の守将曹豹が反し、秘かに呂布を迎え入れた(間迎布)」と書いており、『先主伝』の裴松之注も「張飛が曹豹を殺そうとしたため、曹豹の衆が営を堅めて自守し、人を送って呂布を招いた。呂布が下邳を取り、張飛は敗走した」と書いています。これらの記述では、曹豹は殺されていません。
 
本文に戻ります。
下邳が陥落したと聞いた劉備は、兵を還して北上し、下邳に至りましたが、軍が潰滅しました。
劉備は余兵を集めて東に向かい、広陵を取りましたが、袁術と戦ってまた敗れ、海西に移って駐軍しました。
資治通鑑』胡三省注によると、海西県は東海郡、または広陵郡に属します。
 
三国志先主伝』はここで「楊奉、韓暹が徐揚の間を侵したが、先主劉備が邀撃して全て斬った」と書いています。
しかし楊奉と韓暹はこの後も登場し、翌年献帝建安二年197年)冬に殺されます。『資治通鑑』胡三省注は「『先主伝』の誤り」としています。
 
劉備軍は広陵(と海西)にいる時、飢餓のため困踧(困窮)しました。
吏士が大小に関わらず互いに食すようになったため(相食)、従事東海の人麋竺が家財を使って軍を助けました。
 
窮餓(困窮飢餓)に侵されて逼迫した劉備は小沛に還りたいと欲しました(小沛は献帝興平元年194年)陶謙が上表して劉備豫州刺史に任命した時、劉備が駐屯した地です)
そこで官吏を送って呂布に投降を請いました。
呂布袁術の運糧が中断されたことを恨んでいたため、劉備を招いて州(ここは徐州の拠点下邳を指すと思います)に戻らせ、妻子を返し、勢(力。軍勢)を合わせて共に袁術を撃つことにしました。
 
呂布の諸将が呂布に言いました「劉備はしばしば反覆しており、養うのが難しいので、早く図るべきです(手を打つべきです)。」
呂布はこれに従わず、逆にこの言葉を劉備に伝えました。
劉備は心中不安になり、自分を託せる場所(自分の居場所)を求めました。そこで、人を送って呂布を説得し、小沛に駐屯することを願い出ました。
 
呂布劉備を再び豫州刺史にして小沛に駐屯させました。呂布が刺史の車馬や童僕を準備し、劉備の妻子や部曲家属を泗水の辺まで送り出します。祖道(餞別の宴)では互いに楽しみました。
こうして劉備は小沛に還りました。
 
呂布は自ら徐州牧を称しました。
 
三国志先主伝』は「先主劉備関羽を派遣して下邳を守らせた」と書いていますが、下邳は呂布の拠点です。関羽に下邳を守らせるのは、呂布の死後のはずです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
呂布の将河内の人郝萌が夜の間に呂布を攻めました。
呂布は科頭袒衣のまま(「科頭」は冠を被らないことです。「袒衣」は衣服を脱いで肩や腕を露わにするという意味ですが、ここでは肌着だけを着て正装ではない姿だと思います)、都督高順の営に走ります。
高順はすぐに兵を配置して官府に入り、郝萌を討ちました。
郝萌は敗走しました。
明け方(比明)、郝萌の将曹性が郝萌を撃って斬りました。
 
 
 
次回に続きます。