東漢時代356 献帝(三十八) 呂布と劉備 196年(1)
丙子 196年
曹操軍が武平に臨みました。
そのため諸将が互いに猜疑して異心を抱くようになります。
二月、韓暹が衛将軍・董承を攻めました。
董承は野王に奔ります。
胡才が韓暹を攻撃しようとしましたが、献帝が人を送って諭したため、中止しました。
[五] 『資治通鑑』からです。
二月、曹操が軍を進めて討破し、劉辟、黄邵等を斬りました。何儀とその衆は全て投降しました。
『三国志・武帝紀』はここで「劉辟を斬った」としていますが、劉辟の名はこの後も見られます。同姓同名の人物がいた可能性もありますが、恐らく誤記だと思われます。『資治通鑑』は劉辟が斬られたという記述を採用しておらず、建安五年(200年)になって劉辟が登場します。
張楊が董承を送って先に雒陽宮を修繕させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、盱眙、淮陰の二県は下邳国に属します。
本年、楊奉等の諸将軍が共に上表して曹操を鎮東将軍にします(下述します)。朝廷の任命権が混乱していたため、曹操が上表した劉備と、楊奉等が上表した曹操の二人が鎮東将軍の号を持つことになったようです。あるいは、曹操が鎮東将軍になってから、劉備の将軍号は解かれたのかもしれません。
本文に戻ります。
この部分を『資治通鑑』は「(曹豹)與張飛相失,飛殺之」と書いていますが、『三国志・魏書七・呂布臧洪伝』の裴松之注では「張益徳與下邳相曹豹共争益徳殺豹」です。恐らく『資治通鑑』の「失」は「争」の誤りです。
大いに喜んだ呂布は軍を率いて水陸から東下しました。
張飛は敗走します。
尚、『三国志・呂布臧洪伝』と『資治通鑑』では上述の通り、張飛が曹豹を殺していますが、『三国志・蜀書二・先主伝』では「呂布が虚に乗じて下邳を襲った。下邳の守将・曹豹が反し、秘かに呂布を迎え入れた(間迎布)」と書いており、『先主伝』の裴松之注も「張飛が曹豹を殺そうとしたため、曹豹の衆が営を堅めて自守し、人を送って呂布を招いた。呂布が下邳を取り、張飛は敗走した」と書いています。これらの記述では、曹豹は殺されていません。
本文に戻ります。
下邳が陥落したと聞いた劉備は、兵を還して北上し、下邳に至りましたが、軍が潰滅しました。
そこで官吏を送って呂布に投降を請いました。
こうして劉備は小沛に還りました。
呂布は自ら徐州牧を称しました。
[八] 『資治通鑑』からです。
高順はすぐに兵を配置して官府に入り、郝萌を討ちました。
郝萌は敗走しました。
明け方(比明)、郝萌の将・曹性が郝萌を撃って斬りました。
次回に続きます。