東漢時代357 献帝(三十九) 献帝東還 196年(2)

今回は東漢献帝建安元年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月庚子(初六日)楊奉と韓暹が献帝を奉じて東に還り、張楊が食糧を準備して道中で出迎えました。
秋七月甲子(初一日)、車駕が雒陽に到着しました。献帝は旧中常侍趙忠宅を行幸します。
三国志武帝紀』の注によると、趙忠宅は城西にありました。
 
丁丑(十四日)、上帝を郊祀して天下に大赦しました。
己卯(十六日)献帝が太廟を参謁しました。
 
八月辛丑(初八日)献帝が南宮楊安殿を行幸しました。
資治通鑑』には、「張楊が自分の功労のおかげで還都できたと考えたため、宮殿の名を楊安にした」と書かれていますが、『三国志武帝紀』の注は「張楊に宮室を繕治(修築)させたので、殿の名を楊安殿にした。八月、献帝が遷居した」と解説しています。
 
張楊が諸将に言いました「天子は天下がこれを共にするべきであり(天子は天下が擁すべきで、個人のものではない。原文「天子当與天下共之」)、朝廷には自ずから公卿大臣がいる。楊(私)は外に出て外難を防ぐべきだ(楊当出扞外難)。」
張楊は野王に還りました。
楊奉も京師を出て梁に駐屯します。
資治通鑑』胡三省注によると、梁県は河南尹に属します。春秋時代の梁国です。
 
韓暹と董承は共に留まって宿衛になりました。
 
癸卯(初十日)、安国将軍張楊を大司馬に、楊奉を車騎将軍に、韓暹を大将軍司隸校尉に任命し、それぞれに符節と斧鉞を授けました(皆假節鉞)
 
当時は宮室が焼き尽くされていたため、百官は荊棘を切り開き、破壊された壁や土丘の間で居住しました(『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』の原文は「百官披荊棘,依牆壁間」ですが、『三国志魏書六董二袁劉伝』では「百官披荊棘,依丘牆間」です。ここは『三国志』を元に意訳しました)
 
各地の州郡がそれぞれ強兵を擁していましたが、委輸(輸送)が至ることはなく、群僚が飢乏しました。尚書郎以下の官員が自ら外出して(野生の穀物を採集します。
しかし、ある者は牆壁(壁)の間で飢死し、ある者は兵士に殺されました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、尚書郎は三署(五官右署)の郎から選ばれます。まず、尚書台に入ったら守尚書郎中と称し、一年経ったら尚書郎、三年経ったら尚書侍郎と呼ばれました。尚書侍郎は三十六人おり、秩四百石でした。一曹ごとに六人おり、主に文書を起草します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
当時、「漢に代わるのは当塗高(代漢者当塗高)」という讖言(予言)がありました。
袁術は自分の名と字がこれに応じていると考えました。
 
少し解説します。
「塗」は「途」に通じ、「道」を意味します。「当塗高」は「道に当たって高くなる(当道而高。「当道」は「道中にいること」、または「執政」「権力を握ること」です)」という意味で、『資治通鑑』胡三省注によると魏を指します。
また、宮門の両側に建てられた楼(両観闕)を「象魏」といい、道に当たって広大なものは象魏(魏)なので、「当塗高」は「魏」を指すともいわれています
しかし袁術は「当塗高」が自分を指していると考えました。「術」は本来、城邑内の道を意味し、字の「公路」も道を意味するからです。

更に、袁氏は陳の出身なので、舜(土徳の帝王)の後代に当たるとされていました
資治通鑑』胡三省注によると、袁氏は春秋時代の陳の大夫轅濤塗(東周恵王二十一年656年参照)の後代です。陳国は舜の子孫が封じられた国です。
そこで袁術は五行相生の思想に則って、黄(土徳の舜)が赤(火徳の漢)に代わるのは徳運の次(秩序)だと考えました。
 
こうしたことから、袁術はついに僭逆(叛逆)の謀を抱くようになり、孫堅が伝国の璽を得たと聞いた時、孫堅の妻を拘留して璽を奪いました東漢献帝初平二年191年参照)
天子が曹陽で敗れたと聞くと献帝興平二年195年)袁術は群下を集めて尊号を称すことを議論しました。
しかし衆人で敢えて答えようとする者はいません。
主簿閻象が進み出て言いました「昔、周は后稷から文王に至るまで、徳を積んで功を重ねてきましたが(積徳累功)、天下を三分してその二を有しても、なお殷に服事しました(周は天下の三分の二を有しても殷に仕えました)。明公は代々繁栄してきましたが(奕世克昌)、周の興盛には及びません(未若有周之盛)。漢室は衰微しましたが、殷紂の暴政ほどひどくはありません(未若殷紂之暴也)。」
袁術は黙ったまま何も言いませんでした。
 
袁術が処士張範を招聘しましたが、張範は応じず、弟の張承を送って謝意を伝えました。
袁術が張承に問いました「孤(わし)は土地の広と士民の衆によって(広い土地と大勢の士民によって)斉桓(斉桓公の福を求め、高祖劉邦の足跡を真似したいと欲するが(欲徼福斉桓擬迹高祖)、如何だ?」
張承が言いました「重要なのは徳であって強いことではありません(在徳不在強)。徳を用いることで天下の欲と同じくすれば(徳によって天下の希望に順じれば。原文「用徳以同天下之欲」)、匹夫の資(資本。力)によって霸王の功を興すのも、困難とするには足りません。しかしもし越権しようとして時勢を侵して動いたら(苟欲僭擬干時而動)、衆に棄てられることになるので、誰がこれを興せるでしょう(誰能興之)。」
袁術は不快になりました。
 
孫策も情報を聞いて袁術に書を送り、譴責しました「成湯が桀を討った時は『夏に多くの罪がある(有夏多罪)』と称し、武王が紂を伐った時は『殷に重罰(重罪)がある(殷有重罰)』と言いました。この二主は確かに聖徳がありましたが、もしも当時、(桀・紂に)道を失うという過ちがなかったら、逼迫して(天下を)取る理由はありませんでした(無由逼而取也)。今、主上献帝は天下に対して悪があるわけではなく、幼小というだけで強臣に脅かされており、湯武の時とは異なります。そもそも、かつて董卓は貪淫驕陵(貪欲かつ驕慢横暴)で志に紀極(限度)がありませんでしたが、主を廃して自ら興るということはまだありませんでした。それなのに天下が同心になってこれを疾した(憎んだ)のです。それを真似て更にひどくしたらなおさらです(況效尤而甚焉者乎)。また、幼主は明智聡敏で、夙成(早成)の徳があると聞きました。天下はまだその恩を被っていませんが、全て帰心しています。使君は五世に渡って(原文「五世相承」。『資治通鑑』胡三省注によると、袁安が袁京を生み、袁京が袁陽を生み、袁陽が袁逢を生み、袁逢が袁術を生んだので、五代になります)漢の宰輔になり、栄寵の盛を比べられる者はいません。忠を尽くして節を守ることで(效忠守節)、王室に報いるべきです。これが旦西周の周公と召公)の美であり、率土(天下)が望むことです。時の人は多くが図緯の言に惑わされ、非類の文(恐らく経典以外の文章を指します)を妄りに牽き(引用し)、とりあえず主を悦ばせることを美行として成敗の計を顧みませんが(苟以悦主爲美,不顧成敗之計)、これは古今が慎むことであり、熟慮しないわけにはいきません。忠言は耳に逆らい、駮議(駁議。反対意見)は憎しみを招くものですが(忠言逆耳,駮議致憎)、尊明(あなた)に対して益があるのなら、敢えて辞すことはありません。」
三国志呉書一孫破虜討逆伝』裴松之注に孫策の書の全文があります。別の場所で紹介します。
尚、この書は孫策が張紘に書かせたという説と、張昭の言葉であるという説があります。裴松之は「張昭は名(名声)が重いが、張紘の文(文才)に及ばなかった。この書は張紘のものに違いない」と解説しています。
 
袁術は自分が淮南の衆を擁しているので、孫策も必ず自分に合流すると思っていました。
孫策の書を得ると、愁沮(憂愁失望)して病を患います。
 
孫策袁術が諫言を受け入れなかったため、関係を絶ちました。
 
 
 
次回に続きます。