東漢時代359 献帝(四十一) 曹操と袁紹 196年(4)

今回も東漢献帝建安元年の続きです。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
孫策が会稽を取ろうとしました。
当時は呉の人厳白虎等がそれぞれ一万余人の衆を擁して所々で屯聚(集結)していたため、呉景や諸将は先に厳白虎等を撃ってから会稽に行きたいと思いました。
しかし孫策は「白虎等の群盗は大志があるわけではない。彼等は生け捕りにされるだけだ(此成禽耳)」と言い、兵を率いて浙江を渡りました。
 
会稽の功曹虞翻が太守王朗に「孫策は善く兵を用いるので、避けた方がいいでしょう(不如避之)」と説きましたが、王朗は従わず、兵を発して固陵で孫策に対抗しました。
 
孫策はしばしば川を渡って戦いましたが、勝てませんでした。
孫策の叔父孫静が言いました「王朗は険阻な地形を利用して城を守っているので、すぐに攻略するのは困難だ(負阻城守難可卒抜)。ここを南に去って数十里に(地名)がある。そこから内(王朗の内部、後方)を占拠するべきだ瀆南去此数十里宜従彼據其内)。これがいわゆる『相手の不備を攻めて不意を突く(攻其無備出其不意)』というものだ。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、浙江は東に向かって固陵城の北を流れていました。かつて范蠡が浙江の辺に城を築き、「固守できる」と言ったので、「固陵」と呼ばれるようになりました。
浙江は更に東に向かって柤塘を通りました。ここを柤瀆瀆)といい、孫策が王朗を攻撃する時に通った道です。
 
孫策孫静の意見に従いました。
夜、多数の火を焚いて疑兵を設けてから、軍を分けて瀆道に投じました。孫策軍が高遷屯を襲います。
王朗は大いに驚いて元丹陽太守周昕等を派遣し、兵を率いて迎撃させました。しかし孫策が周昕等を破って斬ります。
王朗は遁走しました。
虞翻は王朗を追って護衛し、海に出て東冶に至りました。
 
孫策は会稽を占拠し、王朗を追撃して大破しました。東冶を屠します(皆殺しにします)
王朗は孫策を訪ねて投降しました。
 
この後、孫策が厳白虎等を攻めて破りました(厳白虎との戦いは献帝建安四年199年に書きます)
 
孫策は全ての長吏を置き換え、自ら会稽太守を領しました(担当しました)
また、再び呉景を丹陽太守に任命し、孫賁を豫章太守にしました。更に豫章を分けて廬陵郡を置き、孫賁の弟孫輔を廬陵太守にします(これは『三国志呉書一孫破虜討逆伝』の記述です。『資治通鑑』では献帝建安四年199年)孫策が豫章を分けて廬陵郡を置き、孫賁を豫章太守に、孫輔を廬陵太守に任命しています)
 
丹陽の人朱治を呉郡太守に任命しました。
彭城の人張昭、広陵の人張紘、秦松、陳端等が孫策の謀主になります。
 
三国志孫破虜討逆伝』裴松之注によると、孫策は奉正都尉劉由と五官掾高承に章(上奏文)を持たせて許に派遣し、天子を拝して方物(地方の物品)を献上させました。
 
孫策虞翻を功曹に任命し、交友の礼で待遇しました。
 
孫策は游猟(狩猟)が好きだったため、虞翻が諫めて言いました「明府が軽出微行(軽率におしのびで外出すること)を喜ぶので(好むので)、従官には警護する余裕が無く(不暇厳)、吏卒が常にこれを苦としています。人の君となる者は、重みが無ければ威厳が無くなります(不重則不威)。だから白龍が魚の姿になったら豫且のために困窮し(原文「白龍魚服困於豫且」。『資治通鑑』胡三省注から解説します。豫且は宋国の漁人です。通常なら、白龍が漁人に射られることはありませんが、ある時、白龍が魚の姿になったため、豫且に射られてしまいました。白龍が天帝に訴えましたが、天帝は「魚は人から射られるものだ。豫且に罪はない」と言いました)、白蛇が自ら放縦したので劉季西漢高帝)がこれを害しました(白蛇自放劉季害之)。少し留意することを願います。」
孫策は「君の言は是である(君の言う通りだ)」と言いましたが、改めませんでした。
 
孫策は後に外出した際、刺客に襲われて命を落とします。
 
[十三] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、司徒淳于嘉、太尉楊彪、司空張喜を全て罷免しました。
 
[十四] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
車駕(献帝)が許に東遷した時、楊奉が梁から来て阻止しようとしましたが、間に合いませんでした。
冬十月、曹操楊奉を征討しました。
楊奉は南に奔って袁術を頼ります。
曹操が梁屯(梁の兵営、拠点)を攻めて攻略しました。
 
[十五] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
献帝袁紹詔書を下し、譴責してこう言いました「地が広く兵が多いのに、勝手に自ら私党を立て(原文「専自樹党」。『資治通鑑』胡三省注によると、子の袁譚青州刺史に、袁熙を幽州刺史に、外甥(姉妹の子)の高幹を并州刺史(または并州牧)に任命したことを指します)、勤王の師を聞くことなく、ただほしいままに討伐を行っている(原文「但擅相討伐」。『資治通鑑』胡三省注によると、公孫瓉を攻撃したことを指します)。」
袁紹は上書して自ら深く陳愬(陳情。謝罪・弁明)しました。
 
戊辰(中華書局『白話資治通鑑』は「戊辰」と下の「丙戌」を恐らく誤りとしています)、朝廷が袁紹を太尉に任命し、鄴侯に封じました。
しかし袁紹は序列が曹操(大将軍)の下であることを恥じとし、任命を受け入れず、逆に怒ってこう言いました「曹操は何回も死にそうになったが、いつもわしが救存した(『資治通鑑』胡三省注によると、曹操は滎陽汴水で敗れてから兵を集めて河内の袁紹に従い、袁紹が上表して東郡太守に任命しました。呂布が兗州を襲った時も袁紹曹操と連和しました)。それなのに、今は天子を挟んで(利用して。強迫して)わしに命令するのか(今乃挟天子以令我乎)!」
袁紹は上表して辞退しました。
曹操は懼れて大将軍の官位を固辞し、袁紹に譲りました。
 
丙戌、朝廷が曹操を司空に任命し、車騎将軍の政務を代行させました(行車騎将軍事)
後漢書孝献帝紀』は「曹操が自ら司空になり、車騎将軍の政務を代行した。百官が全て曹操の指示に従うことになった曹操自為司空,行車騎将軍事,百官総己以聴)」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。