東漢時代359 献帝(四十一) 曹操と袁紹 196年(4)
孫策が会稽を取ろうとしました。
当時は呉の人・厳白虎等がそれぞれ一万余人の衆を擁して所々で屯聚(集結)していたため、呉景や諸将は先に厳白虎等を撃ってから会稽に行きたいと思いました。
孫策はしばしば川を渡って戦いましたが、勝てませんでした。
孫策の叔父・孫静が言いました「王朗は険阻な地形を利用して城を守っているので、すぐに攻略するのは困難だ(負阻城守難可卒抜)。ここを南に去って数十里に查瀆(地名)がある。そこから内(王朗の内部、後方)を占拠するべきだ(查瀆南去此数十里宜従彼據其内)。これがいわゆる『相手の不備を攻めて不意を突く(攻其無備出其不意)』というものだ。」
王朗は遁走しました。
虞翻は王朗を追って護衛し、海に出て東冶に至りました。
王朗は孫策を訪ねて投降しました。
また、再び呉景を丹陽太守に任命し、孫賁を豫章太守にしました。更に豫章を分けて廬陵郡を置き、孫賁の弟・孫輔を廬陵太守にします(これは『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』の記述です。『資治通鑑』では献帝建安四年(199年)に孫策が豫章を分けて廬陵郡を置き、孫賁を豫章太守に、孫輔を廬陵太守に任命しています)。
孫策は游猟(狩猟)が好きだったため、虞翻が諫めて言いました「明府が軽出微行(軽率におしのびで外出すること)を喜ぶので(好むので)、従官には警護する余裕が無く(不暇厳)、吏卒が常にこれを苦としています。人の君となる者は、重みが無ければ威厳が無くなります(不重則不威)。だから白龍が魚の姿になったら豫且のために困窮し(原文「白龍魚服困於豫且」。『資治通鑑』胡三省注から解説します。豫且は宋国の漁人です。通常なら、白龍が漁人に射られることはありませんが、ある時、白龍が魚の姿になったため、豫且に射られてしまいました。白龍が天帝に訴えましたが、天帝は「魚は人から射られるものだ。豫且に罪はない」と言いました)、白蛇が自ら放縦したので劉季(西漢高帝)がこれを害しました(白蛇自放劉季害之)。少し留意することを願います。」
孫策は後に外出した際、刺客に襲われて命を落とします。
献帝が袁紹に詔書を下し、譴責してこう言いました「地が広く兵が多いのに、勝手に自ら私党を立て(原文「専自樹党」。『資治通鑑』胡三省注によると、子の袁譚を青州刺史に、袁熙を幽州刺史に、外甥(姉妹の子)の高幹を并州刺史(または并州牧)に任命したことを指します)、勤王の師を聞くことなく、ただほしいままに討伐を行っている(原文「但擅相討伐」。『資治通鑑』胡三省注によると、公孫瓉を攻撃したことを指します)。」
しかし袁紹は序列が曹操(大将軍)の下であることを恥じとし、任命を受け入れず、逆に怒ってこう言いました「曹操は何回も死にそうになったが、いつもわしが救存した(『資治通鑑』胡三省注によると、曹操は滎陽汴水で敗れてから兵を集めて河内の袁紹に従い、袁紹が上表して東郡太守に任命しました。呂布が兗州を襲った時も袁紹は曹操と連和しました)。それなのに、今は天子を挟んで(利用して。強迫して)わしに命令するのか(今乃挟天子以令我乎)!」
袁紹は上表して辞退しました。
次回に続きます。