東漢時代360 献帝(四十二) 屯田 196年(5)
『資治通鑑』胡三省注によると、荀攸は董卓の禍を免れてから、公府に招聘され、高第(成績が優秀な者)に挙げられて任城相に任命されました。しかし任城には赴任せず、蜀が険固で人民が殷盛(富裕)だったので、蜀郡太守の官職を求めました。
ところが蜀への道が絶たれていたため、荊州に駐在していました。
実際に荀攸と会話をした曹操は大いに悦んでこう言いました「公達(荀攸の字です)は常人ではない(非常人也)。私が彼と事を計ることができたら、天下の何を憂いる必要があるだろう(吾得與之計事,天下当何憂哉)。」
しかし郭嘉は数十日住んでから袁紹の謀臣・辛評や郭図にこう言いました「智者とは主を量ることに周密なものです(夫智者審於量主)。だから百全(万全。安全)で功名を立てることができるのです。袁公はいたずらに周公の下士(士人にへりくだる態度)を真似ようと欲していますが、用人の機(時機。機会)を知らず、事が多くて煩雑なのに重要な内容は少なく(多端寡要)、謀略を好んでも決断できません(好謀無決)。共に天下の大難を救済して霸王の業を定めようと欲するのは困難です。私は改めて起ちあがって主を求めます(更挙而求主)。あなた達はなぜ去らないのですか(子盍去乎)。」
二人が言いました「袁氏は天下に対して恩徳があり、多くの人が帰している。しかも今、(袁氏が)最も強いのに、ここを去ってどこに行くというのだ(去将何之)。」
郭嘉は二人が覚醒できないと知り、それ以上語らずに去りました、
退出した郭嘉も喜んで「真に吾が主だ」と言いました。
満寵はこのままでは賓客を釈放させることになると判断し(知将欲原客)、すぐに殺しました。
高談清教(立派な言論や教え)が官曹(官府)に満ち溢れ、辞気(口調。言辞の雰囲気)が清雅で、遊びながら(自由に経典を)諳んじることができましたが(可玩而誦)、事を論じて実情を考証するのはことごとく困難で(論事考実難可悉行)、法令を広く張るだけで、自ら理すのは甚だ疎かでした(『資治通鑑』の原文は「但能張磔網羅而目理甚疏」ですが、『三国志・魏書十二・崔毛徐何邢鮑司馬伝』の裴松之注では、「目理」ではなく「自理」です。法令を設けるだけで、実際に民を治めることはできなかった、または自分を律することができなかったという意味だと思います)。そのため、短い間は人心を得られましたが、久しくなると人々が帰附しなくなりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、孔融は鄭玄を深く尊敬していたため、高密県(鄭玄の故郷)に命じて鄭玄のために一郷を立てさせ、こう言いました「昔、斉は士郷を置き、越には君子軍がいた。皆、異賢の意によるものである(賢人を常人とは異ならせるためである)。太史公、廷尉・呉公、謁者僕射・鄧公は皆、漢の名臣である。また、南山四皓には園公、夏黄公がおり、代々その高節を嘉して皆、公と称してきた(世嘉其高皆悉称公)。よって公というのは仁徳の正号であり、皆が三事大夫(三公)である必要はない。今から、鄭君の郷を鄭公郷と呼ぶべきである。」
劉義遜は孔融を棄てて去りました。
青州刺史・袁譚が孔融を攻め、春から夏に至りました。残った戦士は数百人だけとなり、流矢が飛び交いましたが(流矢交集)、孔融は几(机)にもたれかかって読書し、普段と同じように談笑しました(隠几読書談笑自若)。
しかし後に群小を信任し、欲求を恣にして驕奢淫逸に振る舞ったため(肆志奢淫)、声望が衰えました。
諸軍が並び起ちましたが、ほとんどの勢力で糧穀が欠乏しており、終歳の計(年を越える計)がなく、飢えたら寇掠(侵略・略奪)して満腹になったら残った物を棄てていました(飢則寇掠,飽則棄余)。
軍が瓦解流離し、敵がいないのに自ら破れた者は数え切れません。
民の多くが飢えて互いに食しあい、州里が蕭條(寂寥。荒廃の様子)とします。
『資治通鑑』胡三省注によると、典農中郎将は秩二千石、典農都尉は秩六百石か四百石です。
また、典農校尉もおり、秩は比二千石でした。職責は典農中郎将とほぼ同じですが、管轄する土地が典農中郎将より狭い場合に置かれました。
曹操が言いました「定国の術とは彊兵足食(強兵と食糧を満たすこと)にある。秦人は急農(重農。農業を急務とすること)によって天下を兼併し、孝武は屯田によって西域を定めた。これは先代の良式(良い模範)である。」
こうして曹操が四方を征伐する時は食糧を運ぶ労がなくなり、そのおかげで群雄を兼併できました。
軍と国の饒(富裕)は棗祗によって始まり、任峻によって完成されました。
次回に続きます。