東漢時代360 献帝(四十二) 屯田 196年(5)

今回も東漢献帝建安元年の続きです。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
曹操が荀彧を侍中に任命して尚書令代理にしました(守尚書令)
 
曹操が荀彧に策謀の士について問いました。荀彧は従子()の蜀郡太守荀攸と潁川の人郭嘉を推薦します。
資治通鑑』胡三省注によると、荀攸董卓の禍を免れてから、公府に招聘され、高第(成績が優秀な者)に挙げられて任城相に任命されました。しかし任城には赴任せず、蜀が険固で人民が殷盛(富裕)だったので、蜀郡太守の官職を求めました。
ところが蜀への道が絶たれていたため、荊州に駐在していました。
 
曹操荀攸を招いて尚書に任命しました。
実際に荀攸と会話をした曹操は大いに悦んでこう言いました「公達荀攸の字です)は常人ではない(非常人也)。私が彼と事を計ることができたら、天下の何を憂いる必要があるだろう(吾得與之計事,天下当何憂哉)。」
曹操荀攸を軍師にしました。
 
郭嘉はかつて袁紹に会いに行きました。
袁紹郭嘉を甚だ敬って礼遇します。
しかし郭嘉は数十日住んでから袁紹の謀臣辛評や郭図にこう言いました「智者とは主を量ることに周密なものです(夫智者審於量主)。だから百全(万全。安全)で功名を立てることができるのです。袁公はいたずらに周公の下士(士人にへりくだる態度)を真似ようと欲していますが、用人の機(時機。機会)を知らず、事が多くて煩雑なのに重要な内容は少なく(多端寡要)、謀略を好んでも決断できません(好謀無決)。共に天下の大難を救済して霸王の業を定めようと欲するのは困難です。私は改めて起ちあがって主を求めます(更挙而求主)。あなた達はなぜ去らないのですか(子盍去乎)。」
二人が言いました「袁氏は天下に対して恩徳があり、多くの人が帰している。しかも今、(袁氏が)最も強いのに、ここを去ってどこに行くというのだ(去将何之)。」
郭嘉は二人が覚醒できないと知り、それ以上語らずに去りました、
 
曹操郭嘉を招いて天下の事を論じました。
その結果、曹操は喜んで「孤(わし)に大業を成させるのは、この人に違いない(必此人也)」と言いました。
退出した郭嘉も喜んで「真に吾が主だ」と言いました。
曹操は上表して郭嘉を司空祭酒に任命しました。
尚、『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』では「司空祭酒」を「司空軍祭酒」としています。
また、『三国志・魏書一・武帝紀』を見ると、二年後献帝建安三年・198年)初めて「軍師祭酒」を置いています。
 
曹操が山陽の人満寵を許令に任命しました。
曹操の従弟曹洪に賓客がおり、許界でしばしば法を犯したため、満寵が逮捕して裁きました。
曹洪が書を送って満寵に告げましたが(釈放を求めたのだと思います。原文「洪書報寵」。『資治通鑑』胡三省注は「報」は「告」の意味としています)満寵は聴きません。
そこで曹洪曹操に報告しました。
曹操は許県の主者(主史。主な官員)を招きます。
満寵はこのままでは賓客を釈放させることになると判断し(知将欲原客)、すぐに殺しました。
曹操は喜んで「事に当たる者はこのようでなければならない(当事不当爾邪)」と言いました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
北海太守孔融は高気(非凡な才気)を自負し、志は靖難(禍乱を平定すること)にありましたが、抱負が大きくても能力に限りがあったため(才疏意広)、結局功を成せませんでした。
高談清教(立派な言論や教え)が官曹(官府)に満ち溢れ、辞気(口調。言辞の雰囲気)が清雅で、遊びながら(自由に経典を)諳んじることができましたが(可玩而誦)、事を論じて実情を考証するのはことごとく困難で(論事考実難可悉行)、法令を広く張るだけで、自ら理すのは甚だ疎かでした(『資治通鑑』の原文は「但能張磔網羅而目理甚疏」ですが、『三国志魏書十二崔毛徐何邢鮑司馬伝』の裴松之注では、「目理」ではなく「自理」です。法令を設けるだけで、実際に民を治めることはできなかった、または自分を律することができなかったという意味だと思います)。そのため、短い間は人心を得られましたが、久しくなると人々が帰附しなくなりました。
 
孔融が任用した者は、奇を好んで異を取りましたが(奇異な者を選んで用いましたが)、多くが剽軽(軽率。軽薄)な小才でした。
孔融は名儒鄭玄に尊事すると、自ら子孫の礼を執り(子や孫が父や祖父につかえる礼で接し)、鄭玄の郷名を鄭公郷に改めました。。
資治通鑑』胡三省注によると、孔融は鄭玄を深く尊敬していたため、高密県(鄭玄の故郷)に命じて鄭玄のために一郷を立てさせ、こう言いました「昔、斉は士郷を置き、越には君子軍がいた。皆、異賢の意によるものである(賢人を常人とは異ならせるためである)。太史公、廷尉呉公、謁者僕射鄧公は皆、漢の名臣である。また、南山四皓には園公、夏黄公がおり、代々その高節を嘉して皆、公と称してきた(世嘉其高皆悉称公)。よって公というのは仁徳の正号であり、皆が三事大夫(三公)である必要はない。今から、鄭君の郷を鄭公郷と呼ぶべきである。」
 
清儁(清廉英俊)の士左承祖、劉義遜等が孔融によって座席を準備されました。しかし彼等は席にいるだけで、孔融が彼等と政事を論じることはありませんでした。
孔融は「彼等は民の望だ。失ってはならない(此民望不可失也)」と言いました。
 
黄巾が来寇すると、孔融は戦に敗れて敗走し、都昌(県名)を守りました。
当時は袁紹曹操、公孫瓉が周辺に連なっていましたが(首尾相連)孔融は兵が弱くて食糧も少ないのに、一隅で孤立して誰とも通じようとしません。
左承祖が孔融に「自ら強国に託すべきだ」と勧めましたが、孔融は進言を聞かず、逆に左承祖を殺してしまいました。
劉義遜は孔融を棄てて去りました。
 
青州刺史袁譚孔融を攻め、春から夏に至りました。残った戦士は数百人だけとなり、流矢が飛び交いましたが(流矢交集)孔融は几(机)にもたれかかって読書し、普段と同じように談笑しました(隠几読書談笑自若)
 
夜、城が陥落したため、孔融は東山に奔りました。妻子が袁譚に捕えられます。
曹操孔融と旧知だったため、招いて将作大匠にしました。
 
袁譚青州に入ったばかりの時は、黄河から西の土地は平原を越えませんでしたが、北は田楷(公孫瓉に任命された青州刺史)を撃ち、東は孔融を破ったため、威恵が甚だ知れ渡りました(威恵甚著)
しかし後に群小を信任し、欲求を恣にして驕奢淫逸に振る舞ったため(肆志奢淫)、声望が衰えました。
 
[十八] 『三国志魏書一武帝紀』の本文と裴松之注および『資治通鑑』からです。
中平霊帝の年号)以来、天下が荒乱に遭い、人々が乱離(混乱分離)して、民が農業を棄てました。
諸軍が並び起ちましたが、ほとんどの勢力で糧穀が欠乏しており、終歳の計(年を越える計)がなく、飢えたら寇掠(侵略略奪)して満腹になったら残った物を棄てていました(飢則寇掠,飽則棄余)
軍が瓦解流離し、敵がいないのに自ら破れた者は数え切れません。
 
袁紹は河北におり、軍人は桑椹(桑の実)に頼って食糧にしていました。
袁術は江淮におり、蒲蠃(ハマグリ)を取って食糧として供給していました。
民の多くが飢えて互いに食しあい、州里が蕭條(寂寥。荒廃の様子)とします。
 
羽林監棗祗(『資治通鑑』胡三省注によると、棗氏は元々棘姓でしたが、難を避けて改めました。羽林には左右監がおり、秩は六百石で光禄勳に属しました)や韓浩等が屯田を置くことを建議しました。
曹操はこれに従って棗祗を屯田都尉に任命し、騎都尉任峻を典農中郎将に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、典農中郎将は秩二千石、典農都尉は秩六百石か四百石です。
また、典農校尉もおり、秩は比二千石でした。職責は典農中郎将とほぼ同じですが、管轄する土地が典農中郎将より狭い場合に置かれました。
 
曹操が言いました「定国の術とは彊兵足食(強兵と食糧を満たすこと)にある。秦人は急農(重農。農業を急務とすること)によって天下を兼併し、孝武は屯田によって西域を定めた。これは先代の良式(良い模範)である。」
 
曹操は)民を募って許下で屯田させ、穀物百万斛を得ました。
そこで州郡にも規定に基づいて田官を置きました。田官が置かれた場所では穀物が蓄積され、倉廩(倉庫)が全て満たされます。
こうして曹操が四方を征伐する時は食糧を運ぶ労がなくなり、そのおかげで群雄を兼併できました。
軍と国の饒(富裕)は棗祗によって始まり、任峻によって完成されました。
 
 
 
次回に続きます。