東漢時代364 献帝(四十六) 袁術称帝 197年(2)
九江太守を淮南尹に改め、公卿百官を置き、天地を郊祀しました。
そこで袁術は書を送って陳珪を招き、更にその子を人質にしました。必ず陳珪が来ると期待します。
しかし陳珪は答書を送ってこう伝えました「曹将軍は典刑(刑罰)を興復して凶慝(凶悪)を平定しようとしているので(将撥平凶慝)、足下(あなた)は戮力同心して(協力して心を一つにし)漢室を匡翼(補佐)するはずだと思っていました。しかし不軌(非道)を陰謀し、身をもって禍を試し(身をもって過ちを犯し。原文「以身試禍」)、吾(私)が私利を求めて阿附すること(営私阿附)を欲しています。(私には)たとえ死んでもできないことです(有死不能也)。」
しかし金尚も同意せず逃げ去りました。
袁紹は金尚を殺しました。
夏五月、蝗害がありました。
呂布は娘を送り出し、韓胤に従わせました。
陳珪は徐州(呂布)と揚州(袁術)が合従(連合)したら禍難が止まなくなると恐れ、呂布を説得しに行きました「曹公は天子を奉迎して国政を輔賛(補佐)しています。将軍は(曹操と)協同策謀して大計を共存するべきです。今、袁術と昏(婚姻)を結んだら、必ず不義の名を受け、累卵の危(卵を重ねたように危険な状況)を招くことになります。」
韓胤は許の市で梟首(斬首して首を曝す刑)に処されました。
呂布は陳登を通じて朝廷に徐州牧の官位を求めましたが、得られませんでした。
陳登が還ると呂布は怒って戟を抜き、几(机)を斬ってこう言いました「卿の父が吾(わし)に曹操と協同して公路(袁術の字)との婚(婚姻)を絶つように勧めた。今、吾(わし)が求めたことは獲られず、卿の父子が並んで顕重(地位が高くて権勢が重いこと)になった。(わしは)卿に売られただけだ(但為卿所売耳)!」
陳登は動じることなくゆっくりと答えました「登(私)は曹公に会ってこう言いました『将軍を養うのは虎を養うようなものなので、肉を与えて満腹にさせるべきです(当飽其肉)。満腹でなかったら人を噛むことになります(不飽則将噬人)。』曹公はこう言いました『卿の言の通りではない。鷹を養うようなものであって、飢えていたら役に立つが、満腹になったら飛び去ってしまう(飢卽為用飽則颺去)。』その言(曹操の言)はこのようでした。」
呂布は怒りを解きました。
陳珪が言いました「韓暹、楊奉と袁術は卒合の師(突然集結した軍)に過ぎないので、謀は事前に定まっておらず(謀無素定)、互いに(久しく)結ぶこともできません(不能相維)。子の登(陳珪の子・陳登)がこれを策すに(計るに)、縄で繋いだ複数の鶏と同じで、その形勢は一緒にいることができません(原文「比於連雞勢不俱棲」。複数の鶏を縄で繋いでも、それぞればらばらに動くので統制がとれません。『戦国策』の故事が元になっています)。すぐに離れるはずです。」
呂布は陳珪の策を用いて韓暹と楊奉に書を送りました「二将軍は自ら大駕(皇帝の車)を抜き(危難から離れさせ)、呂布はこの手で董卓を殺しました。共に功名を立てたのに、今、どうして袁術と一緒に賊となるのでしょうか。(我々と)力を合わせて袁術を破り、国のために害を除くべきです。」
張勳等は四散敗走し、呂布の兵がそれを追撃して将十人の首を斬りました。
袁術軍は殺傷されたり川に落ちて命を落とし、ほとんど全滅しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、鍾離県は九江郡に属し、寿春から二百余里離れています。
そこで書を留めて袁術を辱めます。
次回に続きます。