東漢時代364 献帝(四十六) 袁術称帝 197年(2)

今回は東漢献帝建安二年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
袁術が寿春で帝を称しました。仲家を自称します(「家」は「漢家」の「家」と同じで、「仲」が国号のようです)
 
九江太守を淮南尹に改め、公卿百官を置き、天地を郊祀しました。
 
沛相陳珪は陳球霊帝時代の三公)の弟の子で、若い頃、袁術と交遊していました。
そこで袁術は書を送って陳珪を招き、更にその子を人質にしました。必ず陳珪が来ると期待します。
しかし陳珪は答書を送ってこう伝えました「曹将軍は典刑(刑罰)を興復して凶慝(凶悪)を平定しようとしているので(将撥平凶慝)、足下(あなた)は戮力同心して(協力して心を一つにし)漢室を匡翼(補佐)するはずだと思っていました。しかし不軌(非道)を陰謀し、身をもって禍を試し(身をもって過ちを犯し。原文「以身試禍」)、吾(私)が私利を求めて阿附すること(営私阿附)を欲しています。(私には)たとえ死んでもできないことです(有死不能也)。」
 
袁術は元兗州刺史金尚献帝初平三年192年参照)を太尉にしようとしました。
しかし金尚も同意せず逃げ去りました。
袁紹は金尚を殺しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月、献帝が詔を発し、将作大匠孔融に符節を持たせて(持節)河北に派遣しました。
袁紹を大将軍に任命し、冀并四州を合わせて監督させます。
 
後漢書孝献帝紀』は「袁紹が自ら大将軍になった袁紹自為大将軍)」と書いています。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏五月、蝗害がありました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』よ『資治通鑑』からです。
袁術が使者韓胤を派遣して淮南で帝を称したことを呂布に告げました。この機に呂布に娘を送るように要求します呂布は娘を袁術の息子に嫁がせる約束をしていました)
呂布は娘を送り出し、韓胤に従わせました。
 
陳珪は徐州呂布と揚州袁術が合従(連合)したら禍難が止まなくなると恐れ、呂布を説得しに行きました「曹公は天子を奉迎して国政を輔賛(補佐)しています。将軍は曹操と)協同策謀して大計を共存するべきです。今、袁術と昏(婚姻)を結んだら、必ず不義の名を受け、累卵の危(卵を重ねたように危険な状況)を招くことになります。」
呂布も以前、袁術が自分を受け入れなかったことを怨んでいたため献帝初平三年192年参照)、道中にいる娘を追って連れ戻し、婚姻関係を絶ちました。
更に韓胤を捕えて刑具をつけ、袁術の書と一緒に許(漢朝廷。曹操の拠点)に送りました。
韓胤は許の市で梟首(斬首して首を曝す刑)に処されました。

陳珪が子の陳登に曹操を訪ねさせようとしましたが、呂布が同意しませんでした。
ちょうどこの時、献帝が詔を発して呂布を左将軍に任命しました。
曹操呂布に手書(自筆の手紙)を送って深く尉納(慰安、懐柔)を加えます。
大いに喜んだ呂布は陳登を派遣し、章(上奏文)を持たせて朝廷の恩に謝しました。また、曹操の書にも返答しました。
 
陳登は曹操に会った機会に、呂布は勇があっても謀がなく、去就を軽視しているので(行動に原則が無く裏切りを繰り返しているので。原文「軽於去就」)、早く図るべきだと述べました。
曹操が言いました「呂布の狼子のような野心は誠に久しく養うのが難しい。卿でなければその情偽を究められる者はいない(卿以外に呂布の真偽を洞察できる者はいない。原文「非卿莫究其情偽」)。」
朝廷は陳珪の秩を中二千石に増やし(陳珪は沛相です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では王国の相の秩は二千石です。中二千石は九卿と同等になります)、陳登を広陵太守に任命しました。
 
別れの時、曹操は陳登の手を取って「東方の事は(あなたに)委ねる(便以相付)」と言い、秘かに部衆を集めて内応となるように命じました。
 
呂布は陳登を通じて朝廷に徐州牧の官位を求めましたが、得られませんでした。
陳登が還ると呂布は怒って戟を抜き、几(机)を斬ってこう言いました「卿の父が吾(わし)曹操と協同して公路袁術の字)との婚(婚姻)を絶つように勧めた。今、吾(わし)が求めたことは獲られず、卿の父子が並んで顕重(地位が高くて権勢が重いこと)になった。(わしは)卿に売られただけだ(但為卿所売耳)!」
陳登は動じることなくゆっくりと答えました「登(私)は曹公に会ってこう言いました『将軍を養うのは虎を養うようなものなので、肉を与えて満腹にさせるべきです(当飽其肉)。満腹でなかったら人を噛むことになります(不飽則将噬人)。』曹公はこう言いました『卿の言の通りではない。鷹を養うようなものであって、飢えていたら役に立つが、満腹になったら飛び去ってしまう(飢卽為用飽則颺去)。』その言曹操の言)はこのようでした。」
呂布は怒りを解きました。

袁術が大将張勳、橋蕤等を派遣し、韓暹、楊奉と勢を連ねて(連合して)、歩騎数万を下邳に向かわせました。七道から呂布を攻めます。
この時、呂布の兵は三千、馬は四百頭しかいなかったため、敵わないのではないかと懼れ、陳珪に問いました「今、袁術の軍を招いたのは卿が原因だ。如何するべきだ(為之柰何)?」
陳珪が言いました「韓暹、楊奉袁術は卒合の師(突然集結した軍)に過ぎないので、謀は事前に定まっておらず(謀無素定)、互いに(久しく)結ぶこともできません不能相維)。子の登(陳珪の子・陳登)がこれを策すに(計るに)、縄で繋いだ複数の鶏と同じで、その形勢は一緒にいることができません(原文「比於連雞勢不俱棲」。複数の鶏を縄で繋いでも、それぞればらばらに動くので統制がとれません。『戦国策』の故事が元になっています)。すぐに離れるはずです。」
呂布は陳珪の策を用いて韓暹と楊奉に書を送りました「二将軍は自ら大駕(皇帝の車)を抜き(危難から離れさせ)呂布はこの手で董卓を殺しました。共に功名を立てたのに、今、どうして袁術と一緒に賊となるのでしょうか。(我々と)力を合わせて袁術を破り、国のために害を除くべきです。」
更に呂布袁術軍の物資を全て与えると約束しました。
 
韓暹と楊奉は大いに喜び、考えを改めて呂布に従いました。
呂布が進軍して張勳の営から百歩の距離に至ると、韓暹と楊奉の兵が同時に叫呼し、そろって張勳の営に至ります。
張勳等は四散敗走し、呂布の兵がそれを追撃して将十人の首を斬りました。
袁術軍は殺傷されたり川に落ちて命を落とし、ほとんど全滅しました。
 
呂布は勝ちに乗じて韓暹、楊奉と軍を合わせ、寿春に向かいました。水陸並進して鍾離に至ります。
資治通鑑』胡三省注によると、鍾離県は九江郡に属し、寿春から二百余里離れています。
 
呂布等は通る場所で虜掠(略奪)を行い、再び淮水を渡って(寿春、鐘離とも淮水の南に位置します)淮北に還りました。
そこで書を留めて袁術を辱めます。
 
袁術は自ら歩騎五千を率いて淮上(淮水周辺。淮南)で揚兵(閲兵。武威を示すこと)しました。
呂布の騎兵は皆、淮北で大いに咍笑(嘲笑)してから引き還しました。
 
 
 
次回に続きます。