東漢時代365 献帝(四十七) 孫策 197年(3)

今回も東漢献帝建安二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
泰山賊の帥臧霸が莒の琅邪相蕭建を襲いました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代の莒県は城陽国に属しましたが、東漢になってから琅邪国に属しました。
 
臧霸が蕭建を破って資実(物資)を得ました。
臧霸はそれを呂布に贈ることを約束していましたが、贈ってこないため、呂布が自ら要求しに行こうとしました。
呂布の督将高順が諫めて言いました「将軍の威名は宣播しており(広くに知られており)、遠近に畏れられています。求めて得られない物はないのに、自ら賂(贈り物。財物)を求めに行くのですか(何求不得而自行求賂)。万一克てなかったら(威名を)損なうことになるのではありませんか(豈不損邪)。」
呂布はこれに従いませんでした。
 
果たして呂布が莒に至ると、臧霸等は呂布が来た意図が分からなかったため、固く守って拒みました。
結局、呂布は得る物なく還りました。
 
高順の為人は清白で威厳があり、言辞が少なく、指揮する七百余兵は号令が整っており、戦えば必ず克ったため、「陷陳営(陥陣営)」と呼ばれました。
後に呂布は高順を遠ざけるようになり、魏続との間に内外の親(縁戚関係)があったため、その兵を奪って魏続に与え、攻戦する時になると再び高順に指揮させました。しかし高順は最後まで恨意を抱きませんでした。
 
呂布の性格は軽率で変化が激しく(性決易)、行動に常(常道。秩序)がありませんでした。
高順がいつも諫めて言いました「将軍の挙動は詳しく考慮しようとせず、突然失敗を招いてから、いつも誤りがあったと言っていますが、誤りがどうしてしばしばあるのでしょうか(事前に考慮すれば失敗を防げるはずです。原文「将軍挙動不肯詳思,忽有失得動輒言誤,誤豈可数乎」)
呂布は高順の忠を知っていましたが、従えませんでした。
 
[] 『三国志孫破虜討逆伝』裴松之注と『資治通鑑』からです。
曹操が議郎王誧を派遣し、詔書によって孫策を騎都尉に任命して烏程侯の爵位を継がせました。合わせて会稽太守を兼任させます(領会稽太守)
 
後漢書孝献帝紀』に「孫策が使者を派遣して貢物を奉じた」とあるので、孫策が貢物を献上したことに対する返礼のようです。
 
三国志呉書一孫破虜討逆伝』裴松之注では、建安二年(本年)夏に漢朝が議郎王誧を派遣し、「戊辰の詔書」を孫策に伝えています。しかし何月かが書かれていないので、「戊辰」が何日を指すのかもわかりません。
以下、詔書の内容です「董卓が逆乱し、国に凶をもたらして民を害した(凶国害民)。先の将軍孫堅は念が平討にあり、雅意(本意)は完遂できなかったが、その美は広く知られている(厥美著聞)孫策は善道を遵守し、福を求めて向きを変えることがない(邪を行うことがない。原文「求福不回」)。よって今、孫策を騎都尉とし、烏程侯を襲爵させ(烏程侯の爵位世襲させ)、会稽太守を兼任させる(領会稽太守)。」
 
尚、献帝興平元年194年)に「孫策孫堅の侯位(烏程侯)を継ぐ立場にいたが、弟の孫匡に譲った」という記述がありました。今回、朝廷が正式に孫策を烏程侯の継承者に指定したようです。
 
曹操献帝詔勅を使い、孫策呂布および呉郡太守陳瑀と協力して袁術を討たせました。
以下、『三国志孫破虜討逆伝』裴松之注から詔勅の内容です「故(元)左将軍袁術は朝恩を顧みず、坐して凶逆を為し(坐創凶逆)、虚偽を造り出して(原文「造合虚偽」。「造合」の意味が分かりません)、兵乱に乗じて百姓を騙そうとした(欲因兵乱詭詐百姓)。始めてその言(報告)を聞いた時は、そのような事はないと思った。しかし使持節(符節を持った使者)平東将軍領徐州牧恩侯呂布による、袁術が民衆を惑わして邪道を行っているという上書を得たので(定得使持節平東将軍領徐州牧恩侯布上術所造惑衆妖妄)袁術の鴟梟(フクロウ。凶鳥)のような性が無道を遂げ、王宮を修治(修築)し、公卿を署置(任命)し、天を郊(祭)して地を祀り、民に暴虐して財物を害し(残民害物)、深刻な禍を為している(為禍深酷)と知った。また、呂布は前後して上書し、孫策の心が本朝にあり、還って袁術を討ち、国のために節を尽くしたいと欲しているので(欲還討術為国效節)、顕異(特別な待遇)を加えることを乞うた。賞を懸けて功を待ったら、ただ勤(忠勤)であればそれを与えるものである(朝廷が懸賞によって功臣を求めた以上、忠勤の者なら賞を与えるものだ。原文「夫懸賞俟功惟勤是與」)。よって(孫策)寵授(皇帝が官職を与えること)して前邑を継承させ(承襲前邑)、大郡(会稽太守の任)によって重んじたのである(重以大郡)。栄耀が共に到るのは、孫策が尽力して命を捨てる秋(時)である(栄耀兼至是策輸力竭命之秋也)。よって速やかに呂布および行呉郡太守安東将軍陳瑀と協力して一心になり(勠力一心)、同時に袁術の)征討に赴け。」
 
三国志孫破虜討逆伝』裴松之注に、孫策が朝廷に送った謝意を伝える上表が記載されています「臣は固陋(見識が少ないこと)によって辺陲で孤特(孤立)していましたが、陛下が広く高沢(厚恩)を播き、細節(小さな節義)も見落とすことなく、臣に爵を襲わせ世襲させ)、併せて名郡を統治させました。栄誉を仰ぎ見て恩寵を顧みるのは堪えられないことです(受け入れられないほどの栄誉と恩寵を賜りました。原文「仰栄顧寵所不克堪」)。興平二年195十二月二十日に呉郡曲阿で袁術が提出した表(上書)を得て、袁術が)臣を行殄寇将軍にしましたが、(今回の)詔書を被るに至って、それが詐擅(勝手に作られた偽り)だと知りました。すぐに捨てさりましたが、なお恐れて動悸しています(雖輒捐廃猶用悚悸)。臣は年十七で頼る者を喪失し(父孫堅が死んだことを指します。原文「喪失所怙」)、堂構を任せられないという嘲笑を受けて、析薪の戒めを辱めることを懼れました(原文「懼有不任堂構之鄙以忝析薪之戒」。「堂構」は「家屋」ですが、父が家の基礎を造って子がそれを継ぐという故事を指します。「析薪」は「薪割り」ですが、父が薪を割って子がそれを背負うという故事を指します。どちらも父が残した家業を継ぐこと意味します)。誠に霍去病が十八で功を建て、世祖光武帝の列将が弱冠で佐命(補佐)したようなこと(功績)はありません。臣が初めて兵を領した時、年はまだ弱冠も満たさず、愚鈍惰弱で勇武もありませんでしたが(駑懦不武)、微命(わずかな命。自分の命)を尽きさせることを思いました(思竭微命)。思うに、袁術は狂惑し、悪を為して深重になっています。臣は威霊に頼り、辞(天子の言葉)を奉じて罪を討伐し、必ず勝報を献じて、受けたこと(陛下の恩寵)に報いたいと思います(臣憑威霊奉辞伐罪,庶必献捷以報所受)。」
 
孫策は自ら兵馬を統領(統率)することになりましたが、騎都尉として郡を領す(指揮する)のは官職が軽すぎると考え、自分の地位を重くするために将軍号を欲しました。
そこで人を送って王誧に示唆します。
王誧は承制(皇帝の代わりに命令すること)によって孫策に明漢将軍という号を与えました。
資治通鑑』胡三省注によると、「明漢将軍」は暫定的に置かれた将軍号です。
 
当時、陳瑀は海西に駐屯していました。
孫策は詔を奉じて出征の準備を整え(奉詔治厳)呂布、陳瑀と協力し合う体制を取ろうとしました。
孫策が行軍して銭唐に至ります。
 
資治通鑑』胡三省注によると、銭唐県は、西漢時代は会稽郡に属しましたが、東漢になって省かれました。当時は呉郡界内に属していたはずです。
昔、郡の議曹華信が塘(堤防)を築いて海水を防ごうとし、一斛の土を運んで来られる者を募って銭一千を与えることにしました。旬月(一月足らず)の間に応じた者が雲集します。ところが塘が完成する前に華信が「土石は必要なくなった」と発表しました。土石を運んで来た者は全てそれを棄てて去ります。
そのおかげで塘が完成し、銭塘と名づけられました。
 
本文に戻ります。
陳瑀は秘かに孫策を襲撃しようと図り、都尉万演等を派遣して隠れて渡江させ、印伝三十余紐(三十余の印綬だと思います)を携帯して諸賊に与えさせました。
丹陽、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙といった険阻な県の大帥(指導者)である祖郎、焦已および呉郡烏程の厳白虎等に内応させ、孫策の軍が出発するのを伺って諸郡を攻め取ろうとします。
しかし孫策がこれを覚り、将呂範、徐逸を送って海西で陳瑀を攻撃させました。
呂範等は陳瑀を大破して吏士や妻子四千人を獲ます。
陳瑀は単騎で冀州に奔り、自ら袁紹に帰順しました。
袁紹は陳瑀を故安都尉にしました。
 
 
 
次回に続きます。