東漢時代366 献帝(四十八) 楊彪 197年(4)

今回も東漢献帝建安二年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
陳王劉寵(明帝の子孫。霊帝熹平二年173年参照)は勇猛で弩射が得意でした。
黄巾賊が起きると、劉寵は兵を治めて守りを固めました。
国人は劉寵を畏れていたため、敢えて離叛しようとする者はいません。
 
国相会稽の人駱俊はかねてから威恩がありました。
当時の王侯は租禄(俸禄にする租賦の収入)が無くなっており、しかもしばしば虜奪(侵犯略奪)を受けていたため、ある者は二日に一回しが食事ができず(并日而食)、荒野で野垂れ死にする者もいました(転死溝壑)
しかし陳だけは富強で、隣郡の人が多く帰順したため、十余万の衆を擁していました。
 
州郡の兵が起きるようになると、劉寵は衆を率いて陽夏に駐屯し、自ら輔漢大将軍を称しました。
資治通鑑』胡三省注によると、陽夏県は淮陽国に属します。
 
この頃、袁術が陳に食糧を求めましたが、駱俊が拒絶しました。
忿恚(怨怒)した袁術は客を派遣し、駱俊と劉寵を騙して殺してしまいました。
この後、陳は破敗(衰敗)しました(『後漢書孝明八王列伝(巻五十)』には、誰が劉寵の跡を継いだのかが書かれていません。空位になったようです)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
秋九月、漢水が溢れました。
 
[十一] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
司空曹操が東征して袁術を撃ちました。
三国志武帝紀』が「秋九月、袁術が陳を侵した。公(曹操)がこれを東征した」と書いているので、袁術は陳王を殺してから、陳に兵を進めたようです。
 
袁術曹操が自ら出征して来たと聞くと軍を棄てて逃走し、将橋蕤、李豊、梁綱、楽就を蘄陽に留めて曹操を防がせました。
資治通鑑』胡三省注によると、「蘄陽」は「蘄県」が正しく、沛国に属すようです。
 
曹操は蘄陽(蘄県)に到着すると、橋蕤等を撃破して全て斬りました。
 
後漢書劉焉袁術呂布列伝(巻七十五)』では、本年、呂布が下邳で張勳を破った時(上述)、橋蕤を生け捕りにしています。しかし『三国志武帝紀』ではここで橋蕤が斬られています。
三国志魏書七呂布臧洪伝』を見ると、張勳が敗れた時、橋蕤が生け捕りにされたという記述はありません。橋蕤が呂布に捕えられてすぐに還された可能性もなくはありませんが、『資治通鑑』胡三省注は、『後漢書劉焉袁術呂布列伝』の記述が誤りのはずだとしています。
 
袁術は逃走して淮水を南に渡りました。
当時は旱害のため土地が荒廃しており(天旱歳荒)、士民が凍餒(飢え凍え)しました。
後漢書孝献帝紀』は「この年、江淮間(長江淮水一帯)で民が互いに食した民相食)」と書いています。
この後、袁術が衰退していきました。
 
曹操は許に還りました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
曹操が陳国の人何夔を招聘して掾にしました。
 
曹操が何夔に「袁術はどのような人物か」と問いました。
何夔が答えました「天が助けるのは順、人が助けるのは信です(時勢や道理に順じている者は天に助けられ、信がある者は人に助けられます。原文「天之所助者順,人之所助者信」)袁術は信・順の実がないのに天人の助を望んでいます。どうして得られるでしょうか(其可得乎)。」
曹操が言いました「国を為しながら賢人を失ったら亡びるものだ(為国失賢則亡)。君は袁術に用いられなかった。袁術が)亡ぶのは当然ではないか(亡不亦宜乎)。」
 
曹操は厳しい性格で、掾属が公事において過失を犯すと、しばしば杖を加えました。
しかし何夔は常に毒薬を携帯しており、死んでも辱めを受けないと誓っていたため、最後まで罰を加えられることがありませんでした。

沛国の人許褚は卓越した勇力を持っており、少年(若者)や宗族数千家を集めて塞壁を堅め、外寇を防いでいました。
淮水汝水陳国梁国一帯では皆が許褚を畏れ憚りました。
 
曹操が淮汝を巡った時、許褚が衆を率いて曹操に帰順しました。
曹操は「これは吾(私)の樊噲だ」と言い、即日、都尉に任命して宿衛として迎え入れました。
許褚に従った侠客も全て虎士(武士)になりました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
元太尉楊彪袁術は婚姻関係にありました。
資治通鑑』胡三省注によると、楊彪の子を楊脩(楊修)といい、袁術の甥(姉妹の子)に当たります。楊彪は袁氏の女性袁術の姉妹)を娶ったようです。
 
曹操はこれを嫌い、楊彪が皇帝廃立を図ろうとしていると誣告しました。逮捕して獄に下すように上奏し、大逆の罪を弾劾します。
これを聞いた将作大匠孔融は朝服を着る暇もなく、急いで曹操に会いに行き、こう言いました「楊公は四世楊震、楊秉、楊賜、楊彪に渡って清徳で、海内に敬慕されています(海内所瞻)。『周書』によるなら、父子兄弟の間では互いに罪が及ぶことはありません(父子兄弟罪不相及)。袁氏を理由に罪を楊公に帰すのはなおさら相応しくありません。」
曹操が言いました「これは国家(皇帝)の意だ。」
孔融が言いました「たとえば成王が召公を殺したとして、周公はその事を知らないと言えますか(皇帝が楊彪を逮捕したとしても、曹操が知らないふりをするのは間違いです)。」
しかし曹操は許令満寵に命じて楊彪の獄を審理させました。
 
孔融尚書荀彧が満寵に頼みました「自供を受けるだけにして、拷問は加えないでください(但当受辞,勿加考掠)。」
ところが満寵は二人の要求に応えることなく、通常の法に則って拷問しました(考訊如法)
 
数日後、満寵が曹操に謁見を求めてこう言いました「楊彪を考訊(拷問訊問)しましたが、他の辞語はありませんでした(供述を変えませんでした)。この人は海内に名が知られています。もしも罪が明白でなかったら(罪が明白ではないのに刑を加えたら)、必ず大いに民望を失います。心中で明公のためにこれを惜しみます(竊為明公惜之)。」
曹操は即日、楊彪を釈放しました。
 
以前、荀彧と孔融は満寵が楊彪を拷問したと聞いて怒りましたが、そのおかげで楊彪が釈放されると、二人ともますます満寵と親しくなりました(更善寵)

楊彪は漢室が衰微して政治が曹氏にあるのを見て、脚攣(脚を伸ばせない病)と称し、十余年も(朝廷に)行かなくなりました(遂称脚攣積十餘年不行)
そのおかげで禍から逃れることができました(魏文帝黄初二年・221年に再述します)



次回に続きます。