東漢時代366 献帝(四十八) 楊彪 197年(4)
黄巾賊が起きると、劉寵は兵を治めて守りを固めました。
国人は劉寵を畏れていたため、敢えて離叛しようとする者はいません。
国相・会稽の人・駱俊はかねてから威恩がありました。
当時の王侯は租禄(俸禄にする租賦の収入)が無くなっており、しかもしばしば虜奪(侵犯・略奪)を受けていたため、ある者は二日に一回しが食事ができず(并日而食)、荒野で野垂れ死にする者もいました(転死溝壑)。
しかし陳だけは富強で、隣郡の人が多く帰順したため、十余万の衆を擁していました。
州郡の兵が起きるようになると、劉寵は衆を率いて陽夏に駐屯し、自ら輔漢大将軍を称しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、陽夏県は淮陽国に属します。
この頃、袁術が陳に食糧を求めましたが、駱俊が拒絶しました。
秋九月、漢水が溢れました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「蘄陽」は「蘄県」が正しく、沛国に属すようです。
『三国志・魏書七・呂布臧洪伝』を見ると、張勳が敗れた時、橋蕤が生け捕りにされたという記述はありません。橋蕤が呂布に捕えられてすぐに還された可能性もなくはありませんが、『資治通鑑』胡三省注は、『後漢書・劉焉袁術呂布列伝』の記述が誤りのはずだとしています。
袁術は逃走して淮水を南に渡りました。
当時は旱害のため土地が荒廃しており(天旱歳荒)、士民が凍餒(飢え凍え)しました。
この後、袁術が衰退していきました。
曹操は許に還りました。
何夔が答えました「天が助けるのは順、人が助けるのは信です(時勢や道理に順じている者は天に助けられ、信がある者は人に助けられます。原文「天之所助者順,人之所助者信」)。袁術は信・順の実がないのに天人の助を望んでいます。どうして得られるでしょうか(其可得乎)。」
曹操は厳しい性格で、掾属が公事において過失を犯すと、しばしば杖を加えました。
しかし何夔は常に毒薬を携帯しており、死んでも辱めを受けないと誓っていたため、最後まで罰を加えられることがありませんでした。
これを聞いた将作大匠・孔融は朝服を着る暇もなく、急いで曹操に会いに行き、こう言いました「楊公は四世(楊震、楊秉、楊賜、楊彪)に渡って清徳で、海内に敬慕されています(海内所瞻)。『周書』によるなら、父子兄弟の間では互いに罪が及ぶことはありません(父子兄弟罪不相及)。袁氏を理由に罪を楊公に帰すのはなおさら相応しくありません。」
ところが満寵は二人の要求に応えることなく、通常の法に則って拷問しました(考訊如法)。
数日後、満寵が曹操に謁見を求めてこう言いました「楊彪を考訊(拷問・訊問)しましたが、他の辞語はありませんでした(供述を変えませんでした)。この人は海内に名が知られています。もしも罪が明白でなかったら(罪が明白ではないのに刑を加えたら)、必ず大いに民望を失います。心中で明公のためにこれを惜しみます(竊為明公惜之)。」
そのおかげで禍から逃れることができました(魏文帝黄初二年・221年に再述します)。
次回に続きます。