東漢時代369 献帝(五十一) 呂布討伐 198年(2)

今回は東漢献帝建安三年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』『三国志魏書一武帝紀』『三国志・蜀書一・先主伝』の本文と裴松之注および資治通鑑』からです。
呂布が再び袁術と通じました。
孝献帝紀』は「呂布が叛した」と書いていますが、これを指すようです。
 
献帝建安元年196年)呂布に敗れた劉備曹操を頼ったので、曹操劉備を厚遇して豫州牧に任命しました。
劉備(小沛)に入ってから散卒を集めました。曹操劉備に軍糧を支給し、更に兵を与えて東の呂布に対抗させました。
 
この年、呂布が中郎将高順および北地太守雁門の人張遼を派遣して劉備を攻めさせました。
三国志先主伝』裴松之注によると、建安三年(本年)春、呂布が人に金を持たせて河内で馬を買わせようとしましたが、劉備の兵に奪われました。そこで呂布は中郎将高順、北地太守張遼等に劉備を攻撃させました。
資治通鑑』胡三省注によると、呂布張遼に北地太守を遥領させていました。「遥領」というのは、官職だけ授かって実際には任地に赴かないことです。
 
本文に戻ります。
曹操が将軍夏侯惇を送って劉備を援けさせましたが、高順等に敗れました。
秋九月、高順等が沛城を破り、劉備の妻子を捕虜にしました。妻子は呂布の下に送られます。
劉備は単身で逃走しました。
 
曹操劉備を援けるために自ら徐州の呂布を撃とうとしました。
諸将が皆こう言いました「劉表張繍が後ろに居るのに、遠く呂布を襲ったら、必ず危険になります(其危必也)。」
荀攸が言いました「劉表張繍は破れたばかりなので、敢えて動けない形勢にあります(勢不敢動)呂布は驍猛で、しかも袁術に頼っています。もし淮泗の間に縦横させたら豪傑が必ずこれに応じます。今、叛したばかりで衆心が一つになっていないところに乗じて進めば破ることができます。」
曹操は「善し」と言いました。
 
曹操が東征した時、泰山の屯帥(一勢力の主)臧霸、孫観、呉敦、尹礼、昌豨(『資治通鑑』胡三省注によると、昌姓は昌意黄帝の子)の後代です)等が皆それぞれ衆を集めて呂布に附きました。
 
冬十月、曹操劉備と梁国界中で遇ってから、進軍して彭城に至りました。劉備曹操の東征に従います。
 
陳宮呂布に言いました「逆撃するべきです。逸によって労を待てば(余裕ある我が軍が疲労した敵を迎撃すれば)勝てないはずがありません(以逸待労無不克也)。」
しかし呂布はこう言いました「彼等が来るのを待って泗水の中に追い込んだ方がいい(不如待其来蹙著泗水中)。」
 
曹操が彭城を屠し(皆殺しにし)、その相侯諧を捕えました。
広陵太守陳登が郡兵を率いて曹操の先駆(先鋒)になり、兵を進めて下邳呂布の拠点)に至ります。
呂布は自ら騎兵を率いて反撃し、曹操と何回も戦いましたが、全て大敗して驍将成廉が捕えられました。
呂布は引き還して城を守り、敢えて出撃しなくなりました。
 
曹操呂布を追撃して下邳の城下に至り、呂布に書を送って禍福を述べました。
懼れた呂布は投降を欲します。
しかし陳宮等がその計を阻止し、袁術に救援を求めること、呂布自ら出撃することを勧めました。
陳宮はこう言いました「曹操は遠くから来たので、久しくいられる形勢ではありません(勢不能久)。将軍が歩騎を率いて外に出屯し、宮(私)が余衆を指揮して内で閉守すれば、もしも曹操が)将軍に向かったら宮(私)が兵を率いてその背を攻め、もしも曹操が)城だけを攻めたら将軍が外から救援できます。こうすれば旬月(一月)も過ぎずに曹操軍の食が尽きるので、これを撃てば破ることができます。」
呂布はこの意見に納得して陳宮と高順に城を守らせ、自ら騎兵を率いて曹操の糧道を断とうとしました。
ところが呂布の妻が呂布にこう言いました「陳宮と高順はかねてから不和なので、将軍が一度出たら、陳宮と高順は必ず心を同じくして共に城を守ろうとはしません。もしも蹉跌(過失。失敗)があったら、将軍はどこで自立するのでしょう(将軍当於何自立乎)。そもそも曹氏は公台陳宮の字)を赤子のように大切に遇していたのに、陳宮は)それを捨てて我々に帰しました(曹氏待公台如赤子猶舍而帰我)。今、将軍の公台に対する厚(厚遇。厚恩)は曹氏に及ばないのに、全城を委ね、妻子を捨てて、孤軍で遠くに出ようと欲しています。もしも一旦に変があったら、妾()はどうしてまた将軍の妻になることができるでしょう。」
呂布は出兵を中止しました。
 
呂布は秘かに官属の許汜、王楷を派遣し、袁術に救援を求めました。
袁術が言いました「呂布が娘を私に送らないのだから、理において敗れて当然だ。なぜまた来たのだ?」
許汜と王楷が言いました「明上袁術が今、呂布を救わなかったら、自ら敗れることになります(為自敗耳)呂布が破れたら、明上もまた破れます。」
袁術は兵を整えて呂布のために声援を為しました。
 
呂布は娘を送らなければ袁術が救兵を派遣しないかもしれないと恐れました。そこで、綿(綿織物)で娘の体を包み、馬の上に縛り付けて、夜の間に自ら娘を送り出そうとしました。
ところが曹操の守兵と接触し、格射(格闘射撃)を受けて通過できなくなりました(格射不得過)。結局、呂布は敗退して再び城に還り、また守りを固めました。
 
河内太守張楊は以前から呂布と関係が善かったため、呂布を救いたいと思いましたが、その力がないので、東市(『資治通鑑』胡三省注によると、野王県の東市です)に兵を出して遠くで後援になりました(遥為之勢)
 
十一月、張楊の将楊醜が張楊を殺して曹操に呼応しました。
しかし別将眭固が楊醜を殺し、その衆を率いて北の袁紹と合流しました。
後漢書孝献帝紀』は「盗が大司馬張楊を殺した」と書いています。「盗」は楊醜を指します。
また、『三国志・魏書一・武帝紀』は、楊醜が張楊を殺して眭固が揚醜を殺したことを翌年に書いています。
 
張楊は性格が仁和で威刑がなく、下人(部下)の謀反が発覚しても対面して涙を流し、いつも罪を赦して不問にしたため、最後は難に遭うことになりました。
 
曹操が塹()を掘って下邳を包囲しました。しかし久しい時間が経っても攻略できず、連戦して士卒が疲敝していたため、曹操は帰還しようとしました。
荀攸郭嘉が言いました「呂布は勇(勇猛)ですが謀がなく、今はしばしば戦って全て敗北し、鋭気が衰えています(今屢戦皆北鋭気衰矣)。三軍(全軍)は将を主と為します。主が衰えたら軍に奮意がなくなります。陳宮は智があっても遅いので、今、呂布の気がまだ恢復せず、陳宮の謀がまだ定まらないうちに急攻すれば、呂布を抜く(攻略する)ことができます。」
 
曹操荀攸郭嘉の計を採用し、沂水と泗水を引いて城に水を注ぎました。
一月余経って呂布がますます困迫します。
尚、『後漢書劉焉袁術呂布列伝(巻七十五)』と『三国志魏書七呂布臧洪伝』は「三カ月」としていますが、曹操が下邳に至ったのは十月で、呂布は年内に殺されるので、三カ月は長すぎます。『三国志武帝紀』は「一月余」としており、『資治通鑑』もこれに従っています(胡三省注参照)
 
呂布が城壁に登って曹操の軍士に言いました「卿曹(卿等)が私を困窮させる必要はない。私が明公に自首しよう(卿曹無相困我,我当自首於明公)。」
しかし陳宮がこう言いました「逆賊曹操がどうして明公なのですか(何等明公)。今日降ったら、卵を石に投じるようなものです。どうして(生命を)全うできるでしょう。」
 
 
 
次回に続きます。