東漢時代369 献帝(五十一) 呂布討伐 198年(2)
『三国志・先主伝』裴松之注によると、建安三年(本年)春、呂布が人に金を持たせて河内で馬を買わせようとしましたが、劉備の兵に奪われました。そこで呂布は中郎将・高順、北地太守・張遼等に劉備を攻撃させました。
本文に戻ります。
劉備は単身で逃走しました。
荀攸が言いました「劉表と張繍は破れたばかりなので、敢えて動けない形勢にあります(勢不敢動)。呂布は驍猛で、しかも袁術に頼っています。もし淮・泗の間に縦横させたら豪傑が必ずこれに応じます。今、叛したばかりで衆心が一つになっていないところに乗じて進めば破ることができます。」
曹操は「善し」と言いました。
呂布は引き還して城を守り、敢えて出撃しなくなりました。
懼れた呂布は投降を欲します。
陳宮はこう言いました「曹操は遠くから来たので、久しくいられる形勢ではありません(勢不能久)。将軍が歩騎を率いて外に出屯し、宮(私)が余衆を指揮して内で閉守すれば、もしも(曹操が)将軍に向かったら宮(私)が兵を率いてその背を攻め、もしも(曹操が)城だけを攻めたら将軍が外から救援できます。こうすれば旬月(一月)も過ぎずに曹操軍の食が尽きるので、これを撃てば破ることができます。」
ところが呂布の妻が呂布にこう言いました「陳宮と高順はかねてから不和なので、将軍が一度出たら、陳宮と高順は必ず心を同じくして共に城を守ろうとはしません。もしも蹉跌(過失。失敗)があったら、将軍はどこで自立するのでしょう(将軍当於何自立乎)。そもそも曹氏は公台(陳宮の字)を赤子のように大切に遇していたのに、(陳宮は)それを捨てて我々に帰しました(曹氏待公台如赤子猶舍而帰我)。今、将軍の公台に対する厚(厚遇。厚恩)は曹氏に及ばないのに、全城を委ね、妻子を捨てて、孤軍で遠くに出ようと欲しています。もしも一旦に変があったら、妾(私)はどうしてまた将軍の妻になることができるでしょう。」
呂布は出兵を中止しました。
河内太守・張楊は以前から呂布と関係が善かったため、呂布を救いたいと思いましたが、その力がないので、東市(『資治通鑑』胡三省注によると、野王県の東市です)に兵を出して遠くで後援になりました(遥為之勢)。
荀攸と郭嘉が言いました「呂布は勇(勇猛)ですが謀がなく、今はしばしば戦って全て敗北し、鋭気が衰えています(今屢戦皆北鋭気衰矣)。三軍(全軍)は将を主と為します。主が衰えたら軍に奮意がなくなります。陳宮は智があっても遅いので、今、呂布の気がまだ恢復せず、陳宮の謀がまだ定まらないうちに急攻すれば、呂布を抜く(攻略する)ことができます。」
一月余経って呂布がますます困迫します。
尚、『後漢書・劉焉袁術呂布列伝(巻七十五)』と『三国志・魏書七・呂布臧洪伝』は「三カ月」としていますが、曹操が下邳に至ったのは十月で、呂布は年内に殺されるので、三カ月は長すぎます。『三国志・武帝紀』は「一月余」としており、『資治通鑑』もこれに従っています(胡三省注参照)。
次回に続きます。