東漢時代370 献帝(五十二) 呂布の死 198年(3)

今回も東漢献帝建安三年の続きです。
 
[(続き)] 呂布の将侯成が名馬を失いましたが、暫くしてまた見つけて連れ戻しました。
諸将が礼に合わせて(礼に則って)侯成を祝賀します(諸将合礼以賀成)
侯成は酒肉を分けて先に呂布に献上しました。
ところが呂布は怒ってこう言いました「布(わし)が禁酒したのに卿等は醞釀(造酒)している。酒を利用して共に布(わし)を謀ろうと欲しているのか(為欲因酒共謀布邪)!」
侯成は憤懣と懼れを抱きました。
 
十二月癸酉(二十四日)、侯成と諸将の宋憲、魏続等が共に陳宮や高順を捕え、衆を率いて曹操に降りました。
呂布と麾下(部下)は白門楼に登ります。
資治通鑑』胡三省注によると、下邳城の南門を白門といいました。
 
曹操の兵が包囲して激しく迫ったため、呂布は左右の者に命じ、自分の首を斬って曹操を訪ねさせようとしました。しかし左右の者が忍びなかったため(手を下せなかったため)呂布は楼を下りて投降しました。
 
呂布曹操に会って言いました「今日が過ぎたら(これからは)天下が定まるだろう(今日已往天下定矣)。」
曹操が問いました「何をもってそういうのだ(何以言之)?」
呂布が言いました「明公が患いとするのは布に過ぎないが(私だけだが)、今、既に服したのだ。もし布(私)に騎を率いさせ、明公が歩を率いれば、天下は容易に定められる(原文「天下不足定也」。この「不足」は「容易」の意味です)。」
呂布が顔の向きを変えて劉備に言いました(顧謂劉備曰)「玄徳劉備の字)、卿は上客に坐すことになり、私は降虜になった。私を縛る縄がきつすぎる(縄縛我急)。一言も助けてくれないのか(独不可一言邪)?」
曹操が笑って言いました「虎を縛るのだから、きつくしないわけにはいかない(縛虎不得不急)。」
曹操呂布を縛った縄を緩めるように命じましたが、劉備が反対して言いました「いけません(不可)。明公は呂布が丁建陽(建陽は丁原の字です)と董太師董卓に仕えたのを見なかったのですか(二人とも呂布に殺されました)。」
曹操は頷きました。
呂布劉備をにらんで言いました(布目備曰)「大耳児(耳が大きい劉備を指します)が最も信用できない(大耳児最叵信)!」
 
三国志魏書七呂布臧洪伝』の裴松之注では、曹操呂布の縄を緩めようとした時、劉備ではなく主簿王必が小走りで進み出て「呂布は勍虜(強賊)です。その衆が近く外に居るので、緩めてはなりません」と言い、曹操呂布に「本来は緩めようと思ったが、主簿が同意しない。どうすればいい(如之何)?」と言っています。
資治通鑑』は『三国志呂布臧洪伝』の本文と『後漢書劉焉袁術呂布列伝(巻七十五)』に倣って劉備が諫めたことにしています。
 
曹操陳宮に言いました「公台陳宮の字)は平生から自分は智に余りがあると言っていたが、今はどうだ(今竟何如)。」
陳宮呂布を指さして言いました「是子(彼)が宮(私)の言を用いなかったからこうなってしまったのだ(以至於此)。もしも従っていたら、禽(虜)になっていたとは限らない。」
曹操が問いました「卿の老母はどうする(柰卿老母何)?」
陳宮が言いました「宮(私)が聞くに、孝によって天下を治める者は人の親を害さないものだ。老母の存否は明公にあり、宮(私)にはない(老母が生きるか死ぬかは曹操しだいだ)。」
曹操が問いました「卿の妻子はどうする(柰卿妻子何)?」
陳宮が言いました「宮(私)が聞くに、天下に仁政を施す者は人の祀(祭祀。後代)を絶えさせないものだ。妻子の存否は明公にあり、宮にはない。」
曹操は何も言わなくなりました。
陳宮は刑に就くことを請い、振り返らずに退出しました。曹操陳宮のために涙を流しました。
 
陳宮呂布、高順と共に縊殺されました。その首が許の市に送られます。
曹操陳宮の母を招いて終生養いました。また、陳宮の娘を結婚させ、陳宮の家族を撫視(撫養)して以前陳宮曹操と一緒だった頃)よりも厚く遇しました(嫁宮女撫視其家皆厚於初)
 
かつての尚書陳紀と陳紀の子陳群が呂布の軍中にいました。
曹操はどちらも礼遇して用いました。
 
張遼がその衆を率いて投降し、中郎将に任命されました。
 
臧霸は逃亡して隠れていましたが、曹操が広く求めて探し出しました(操募索得之)
その後、臧霸を使って呉敦、尹礼、孫観等を招かせます。皆、曹操を訪ねて投降しました。
曹操は彼等を受け入れて厚遇しました。琅邪と東海を分けて城陽、利城、昌慮の三郡を置き、臧霸等を守相に任命します。
資治通鑑』胡三省注によると、城陽西漢時代は王国でしたが、東漢光武帝が廃して琅邪に入れました。利城と昌慮の二県は東海に属します。諸屯帥が住んでいた場所なので、それぞれ分けて郡にしたようです。
なお、『三国志魏書十八二李臧文呂許典二龐閻伝』を見ると、臧霸は琅邪相になり、呉敦が利城太守に、尹礼が東莞太守に、孫観が北海太守に、孫観の兄孫康が城陽太守になっています。昌慮太守はわかりません。
 
また、この部分を『三国志武帝紀』は「青徐二州で海に接している地域を割いて臧覇等に)委ね、琅邪、東海、北海を分けて城陽、利城、昌慮郡にした」と書いていますが、上述の通り、城陽、利城、昌慮は琅邪と東海に属し(北海は関係ありません)、『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、琅邪と東海は徐州刺史の管轄下にあります青州は関係ありません)
資治通鑑』は『武帝紀』の「青徐二州で海に接している地域を割いて臧覇等に)委ねた」「北海を分けた」という部分を削除しています。
 
以前、曹操が兗州に居た時、徐翕と毛暉を将にしましたが、兗州が乱れると(張邈の背反を指します)徐翕も毛暉も曹操に叛しました。
しかし兗州が平定されたため、徐翕と毛暉は亡命して臧霸に投じました。
曹操劉備にこれを語り、劉備を送って臧霸に二人の首を送るように伝えさせました。しかし臧霸劉備にこう言いました「霸(私)が自立できたのは、そのような事(亡命した者の首を斬るようなこと)をしなかったからです。霸(私)は主公の生全の恩(命を助けられた恩)を受けたので、敢えて命に違えることはできません。しかし王霸の君とは、義をもって告げることができるものです(王覇の主君に対しては、義を語ることができるものです)。将軍がこの件のために弁明することを願います(願将軍為之辞)。」
劉備臧霸の言を曹操に報告すると、曹操は嘆息して臧霸に「これは古人の事(古の賢人の行為)だが、君はそれを行えた。孤(私)の願うところだ」と言い、徐翕と毛暉も郡守にしました。
 
曹操が兗州牧になった時、東平の人畢諶を別駕にしました。
張邈が叛した時、張邈は畢諶の母、弟、妻子を人質にしました。
曹操は畢諶に別れを告げ、「卿の老母は彼の地にいる。去ってもよい(可去)」と言って送り出そうとしました。
しかし畢諶は頓首して二心がないことを示します。曹操はこれを嘉して涙を流しました。
ところが畢諶は退出すると逃亡して張邈に帰順してしまいました。
呂布が破れてから、畢諶が生け捕りにされました。人々は畢諶のために懼れて心配しましたが、曹操は「人というのは、その親に対して孝である者なら、どうして君に対して忠でないことがあるだろう。(畢諶のような人材は)(私)が求めるところだ」と言って畢諶を魯相に任命しました(魯国は孔子の故郷で孝を重んじているので、魯相に任命されたのだと思います)
 
陳登は曹操に協力した功によって伏波将軍が加えられました。
 
劉備呂布に捕えられていた妻子を取り返しました。
三国志先主伝』はこの後に「劉備は)曹公曹操に従って許に還った。曹操が)上表して先主劉備を左将軍にした。曹操劉備に対する)礼をますます重くし、外出する時は同じ輿に乗り、(酒宴等で)坐す時は席を同じくした」と書いています。
しかし曹操が許に還ったのがいつのことかはわかりません。
三国志魏書一武帝紀』を見ると、翌年春二月に曹操が昌邑まで還っていますが、許には至っていません。翌年九月に「許に還る」という記述がありますが、それまで劉備が同行していたとも思えないので、二月に曹操が昌邑まで還った時、劉備は先に許に入ったのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。