東漢時代370 献帝(五十二) 呂布の死 198年(3)
諸将が礼に合わせて(礼に則って)侯成を祝賀します(諸将合礼以賀成)。
侯成は酒肉を分けて先に呂布に献上しました。
侯成は憤懣と懼れを抱きました。
『資治通鑑』胡三省注によると、下邳城の南門を白門といいました。
呂布が言いました「明公が患いとするのは布に過ぎないが(私だけだが)、今、既に服したのだ。もし布(私)に騎を率いさせ、明公が歩を率いれば、天下は容易に定められる(原文「天下不足定也」。この「不足」は「容易」の意味です)。」
曹操が呂布を縛った縄を緩めるように命じましたが、劉備が反対して言いました「いけません(不可)。明公は呂布が丁建陽(建陽は丁原の字です)と董太師(董卓)に仕えたのを見なかったのですか(二人とも呂布に殺されました)。」
曹操は頷きました。
『三国志・魏書七・呂布臧洪伝』の裴松之注では、曹操が呂布の縄を緩めようとした時、劉備ではなく主簿・王必が小走りで進み出て「呂布は勍虜(強賊)です。その衆が近く外に居るので、緩めてはなりません」と言い、曹操が呂布に「本来は緩めようと思ったが、主簿が同意しない。どうすればいい(如之何)?」と言っています。
曹操は何も言わなくなりました。
曹操はどちらも礼遇して用いました。
張遼がその衆を率いて投降し、中郎将に任命されました。
また、この部分を『三国志・武帝紀』は「青・徐二州で海に接している地域を割いて(臧覇等に)委ね、琅邪、東海、北海を分けて城陽、利城、昌慮郡にした」と書いていますが、上述の通り、城陽、利城、昌慮は琅邪と東海に属し(北海は関係ありません)、『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、琅邪と東海は徐州刺史の管轄下にあります(青州は関係ありません)。
しかし兗州が平定されたため、徐翕と毛暉は亡命して臧霸に投じました。
曹操は劉備にこれを語り、劉備を送って臧霸に二人の首を送るように伝えさせました。しかし臧霸は劉備にこう言いました「霸(私)が自立できたのは、そのような事(亡命した者の首を斬るようなこと)をしなかったからです。霸(私)は主公の生全の恩(命を助けられた恩)を受けたので、敢えて命に違えることはできません。しかし王霸の君とは、義をもって告げることができるものです(王覇の主君に対しては、義を語ることができるものです)。将軍がこの件のために弁明することを願います(願将軍為之辞)。」
張邈が叛した時、張邈は畢諶の母、弟、妻子を人質にしました。
しかし畢諶は頓首して二心がないことを示します。曹操はこれを嘉して涙を流しました。
ところが畢諶は退出すると逃亡して張邈に帰順してしまいました。
呂布が破れてから、畢諶が生け捕りにされました。人々は畢諶のために懼れて心配しましたが、曹操は「人というのは、その親に対して孝である者なら、どうして君に対して忠でないことがあるだろう。(畢諶のような人材は)吾(私)が求めるところだ」と言って畢諶を魯相に任命しました(魯国は孔子の故郷で孝を重んじているので、魯相に任命されたのだと思います)。
陳登は曹操に協力した功によって伏波将軍が加えられました。
『三国志・先主伝』はこの後に「(劉備は)曹公(曹操)に従って許に還った。(曹操が)上表して先主(劉備)を左将軍にした。(曹操は劉備に対する)礼をますます重くし、外出する時は同じ輿に乗り、(酒宴等で)坐す時は席を同じくした」と書いています。
しかし曹操が許に還ったのがいつのことかはわかりません。
『三国志・魏書一・武帝紀』を見ると、翌年春二月に曹操が昌邑まで還っていますが、許には至っていません。翌年九月に「許に還る」という記述がありますが、それまで劉備が同行していたとも思えないので、二月に曹操が昌邑まで還った時、劉備は先に許に入ったのかもしれません。
次回に続きます。