東漢時代371 献帝(五十三) 呉侯孫策 198年(4)

今回も東漢献帝建安三年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
劉表袁紹と深く約を結びました。
治中鄧羲が劉表を諫めると、劉表はこう言いました「内(朝廷)に対しては貢職(貢献。貢納)を失わず、外に対しては盟主(袁紹)に背かない。これは天下の達義(明白な道理)だ。治中だけが何を疑うのか(治中独何怪乎)。」
鄧羲は病と称して辞職しました。
 
長沙太守張羨は性格が屈強(強情で人に従わないこと)でした。
劉表が張羨を礼遇しなかったため、郡の人桓階が張羨を説得し、長沙、零陵、桂陽三郡を挙げて劉表に対抗したうえで、使者を送って曹操に附くように勧めました。
張羨はこれに従いました。
 
三国志魏書二十二桓二陳徐衛盧伝(桓階伝)』では、袁紹曹操が官渡で対峙してから、桓階が張羨を説得していますが、『後漢書袁紹劉表列伝下(巻七十四下)』では建安三年(本年)に書いています。『資治通鑑』は『後漢書』に従っています。

[] 『三国志呉書一孫破虜討逆伝』の本文と裴松之注および『資治通鑑』からです。
孫策が正議校尉張紘を派遣して朝廷に方物(地方の物品)を献上しました。建安元年196年)に献上した方物の倍に当たる物品が朝廷に贈られます。
資治通鑑』胡三省注によると、この正議校尉は孫策が自ら置いた官です。
 
曹操孫策を撫納(按撫招納。籠絡、懐柔)したいと思い、孫策の将軍号を改め、併せて加封するように上表しました。
献帝は制書(皇帝の言葉)を発して、孫策を討逆将軍に移し(以前は明漢将軍です)、呉侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、討逆将軍もこの時に置かれたようです。また、孫策は烏程侯から呉侯に遷されたので、進封になります。
三国志書八張厳程闞薛伝』を見ると、建安四年(翌年)孫策が張紘を許宮に派遣し、張紘は朝廷に留められて侍御史になっています。
しかし『張厳程闞薛伝』裴松之注では、張紘が許に入ってから朝廷の公卿や旧知と話をして、孫策の材略が絶異で、三郡を平定して心が朝廷にあることを語ったため、曹操孫策の号を改め、加封しています。
『張厳程闞薛伝』が建安四年としているのは、恐らく三年の誤りです(胡三省注参照)
 
本文に戻ります。
更に曹操は弟の娘を孫策の弟孫匡に嫁がせ、曹操の子曹彰孫賁の娘を娶らせました。
また、礼を用いて孫策の弟孫権孫翊を招聘し、張紘を侍御史にしました。
資治通鑑』胡三省注は「曹操が礼を用いて孫権孫翊を招いたのは質(人質)にしようと欲したからだ」と解説しています。
尚、『三国志呉書一孫破虜討逆伝』は曹操孫策との関係を深くした事を翌年に書いています(再述します)

袁術周瑜を居巣長に任命し、臨淮の人魯粛を東城長に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、居巣県は廬江郡に属します。東城県は、東漢時代は九江郡に属しましたが、東漢になって廃されました。袁術が再び設置したようです。
 
周瑜魯粛袁術が最後は成功できないと知っていたため、どちらも官を棄て、長江を渡って孫策に従いました。
孫策周瑜を建威中郎将に任命しました。
魯粛はこれを機に家を曲阿に遷しました。
 
曹操が上表して王朗を招きました(王朗は孫策に降りました)
孫策は王朗を朝廷に還らせます。
曹操は王朗を諫議大夫に任命し、司空曹操の軍事に参画させました(参司空軍事)
 
袁術が間使(密使)印綬を持たせて派遣し、丹陽の宗帥(地方勢力の主)祖郎等に印綬を与えて山越(山険に住む越民)を激動(扇動)させました。共に孫策を図るためです。
 
劉繇が豫章に奔った時、太史慈が蕪湖山中に遁走して丹陽太守を自称しました。
当時、孫策が既に宣城以東を平定していましたが、涇(県)以西の六県だけはまだ服従していませんでした。
そこで太史慈は兵を進めて涇県に向かいました。多くの山越が太史慈に帰順します。
 
孫策は自ら兵を率いて陵陽で祖郎を討ち、捕虜にしました。
孫策が祖郎に言いました「爾(汝)は昔、孤(私)を襲い献帝興平元年194年参照)、孤の馬鞍を斫った(切った)。しかし今、(私は)軍を創建して事を立てたので(創軍立事)、宿恨(旧恨)を除棄し、能力がある者なら用いている(惟取能用)。これは天下共通であって、汝だけではない。汝が恐れる必要はない(汝勿恐怖)。」
祖郎は叩頭謝罪しました。
孫策はすぐに械(刑具)を解き、門下賊曹に置きました。
 
孫策が勇里で太史慈を討ちました。
資治通鑑』胡三省注によると、勇里は涇県にあります。
 
孫策太史慈を捕らえましたが、縄を解いてからその手を取ってこう言いました「神亭の時の事献帝興平二年195年参照)を覚えているか(寧識神亭時邪)?もし卿があの時に私を得ていたらどうしていた(若卿爾時得我云何)?」
太史慈は「量ることができません(想像できません。わかりません。原文「未可量也」)」と答えました。
孫策が大笑して言いました「今日の事(今日以後の大事)は卿と共にするべきだ。卿には烈義(剛直な節義)があると聞いた(『資治通鑑』胡三省注によると、太史慈は東莱の人で、若い頃に郡の奏曹史になりました。当時、郡と州が対立しており、互いに上書して朝廷に報告しました。州の奏章が先に雒陽に着きましたが、太史慈はそれを奪って破毀しました。この一件で名が知られるようになります。後に孔融の危急に赴き、劉備を訪ねて救援を求めました。これらが孫策の言う「烈義」に当たります)。天下の智士である。ただ託した者が相応しい人ではなかっただけだ(相応しい主に遇えなかっただけだ。原文「但所託未得其人耳」)。孤は卿の知己なので、意のままにならないことを憂いる必要はない(勿憂不如意也)。」
孫策太史慈を門下督に置きました。
 
孫策の軍が還る時、祖郎と太史慈が共に先導しました。軍人はこれ(二人が先導になっていること)を栄誉としました。



次回に続きます。