東漢時代372 献帝(五十四) 太史慈 198年(5)

今回で東漢献帝建安三年が終わります。

[(続き)] ちょうどこの頃、劉繇が豫章で死にました。
劉繇の士衆万余人は豫章太守華歆を主に立てようとします。
しかし華歆は「時を利用して命を勝手に行うのは、人臣として相応しいことではない(因時擅命非人臣所宜)」と考えました。
士衆が数カ月にわたって華歆を囲みましたが、華歆は結局謝意を伝えて士衆を去らせました。
士衆は帰順する場所がなくなります。
 
そこで孫策太史慈に命じて撫安(按撫)させることにしました。
孫策太史慈に言いました「劉牧劉繇はかつて私が袁氏のために廬江を攻撃したことを責めた献帝興平元年194年参照)(当時は)我が先君(父孫堅の兵数千人が全て公路袁術の字)の処にいた。私の志は事(事業・大事)を立てることにある。どうしてそれ(父の兵)を求めるために公路に対して意を屈することなくいられただろう(意を曲げて袁術を頼ったのは父の兵を得るためだ。原文「安得不屈意於公路以求之乎」)。その後、袁術が)臣節を遵守しなくなり、これを諫めても従わなかった。丈夫とは義によって交わるものだが、もしも大故(大きな変化、理由)があったら、離れないわけにはいかない。私が公路と交わって(援助を)求めてから、それ(関係)を絶つまでの本末はこのようだった。劉繇が)生きているうちに共に語って弁解できなかったことを後悔している(恨不及其生時與共論辯也)。今、劉繇の)児子が豫章にいるから、卿はこれに会いに行き、併せて孤の意孫策の意思)をその部曲に宣伝せよ。部曲で喜んで来る者(楽来者)は共に来い。喜んで来ようとしない者(不楽来者)はとりあえず安慰せよ。また、華子魚(子魚は豫章太守華歆の字です)の牧御方規(統治の方法、様子)がどのようであるかを観察せよ(観華子魚所以牧御方規何如)。卿はいくらの兵が必要だ。兵の数は意に任せる(多少隨意)。」
太史慈が言いました「慈(私)には不赦の罪(赦されない罪)がありますが、将軍の量(度量)が桓(斉桓公晋文公)と等しいので、命をかけて徳に報いなければなりません(当尽死以報徳)。今は双方とも戦を止めているので(今並息兵)、兵を多くするべきではありません。数十人を率いれば足ります。」
 
左右の者が孫策に「太史慈は必ず北に去って還らなくなります」と言いましたが、孫策は「子義太史慈の字)が私を捨てたら、また誰に従うのだ」と言いました。
 
孫策が昌門で餞別して太史慈を送り出しました。
資治通鑑』胡三省注によると、呉の西郭門を閶門といい、かつて、呉王夫差が造りました。後に楚の春申君が昌門に改名しました。
 
この時、孫策太史慈の腕を取って別れの言葉を述べ、「いつ還って来ることができるか」と問いました。
太史慈は「六十日を過ぎません」と答えます。
太史慈が出発してからも、議者はなお盛んに太史慈を派遣したのは良計ではないと言いました。
しかし孫策はこう言いました「諸君はそれ以上言うな(勿復言)。孤(私)はよく考えて決断した(断之詳矣)。太史子義は気が勇(勇敢)で膽烈(胆力と勇烈)があるが、縦横(放縦、反覆)の人ではない。必ず道義をもって然諾(約束)を重んじ、一度心を許して知己になったら、死んでも裏切ることがない(一以意許知己,死亡不相負)。諸君が憂いる必要はない。」
果たして太史慈は期日通りに帰還しました。
 
太史慈孫策に言いました「華子魚は良徳です。しかし他には方規(方法、策略)がなく、自分を守っているだけです。また、丹陽の人僮芝(僮が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢代に交趾刺史僮尹がいました。一説では「僮」は「童」の意味で、顓頊の子老童の後代に当たる誰かが「童」を「僮」に改めて氏にしました)が自ら廬陵を占有し、番陽の民帥が別に宗部を立てて『我々は既に海昏と上繚に別の郡を立てた(我已別立郡海昏上繚)。発召(徴発の命令)は受けない』と言っていますが、子魚はただこれを覩視(傍観)しているだけです。」
孫策は手を叩いて大笑し、兼併の志を抱くようになりました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、「宗部」は江南の宗賊(宗族が集まって形成した勢力)です。
海昏県は豫章郡に属します。当時、郡民数千家が互いに集まって宗伍(宗部)を形成し、上繚に壁を造っていました。海昏は県名ですが、上僚は僚水(上僚水)が流れる地名のようです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
袁紹が連年、公孫瓉を攻めましたが、勝てなかったため、書を送って公孫瓉を諭し、怨みを解いて連和しようと欲しました。
しかし公孫瓉はこれに答えず、守備を増修して長史太原の人関靖にこう言いました「今は四方で虎が争っている。我が城下に坐して包囲したまま年を越えられる者がいないのは明らかだ(無有能坐吾城下相守経年者明矣)。袁本初に私をどうすることができるだろう(袁本初其若我何)。」
 
袁紹は大いに兵を興して公孫瓉を攻撃しました。
 
以前、公孫瓉の別将が敵に包囲されたことがありました。
しかし公孫瓉は救援せず、こう言いました「一人を救ったら後の将が救援を頼りにして力戦しなくなってしまう(使後将恃救,不肯力戦)。」
袁紹が攻めてきた時、公孫瓉の南界に位置する別営の将兵は、営を守っても固守することができないと予測し、また、救援が来るはずがないことも知っていたため、ある者は投降し、ある者は潰散しました。
 
袁紹軍が直接、易京の門に至りました。
公孫瓉は子の公孫続を派遣して黒山諸帥に救援を請い、自ら突騎を率いて傍の西山に出て、黒山の衆を擁して冀州を侵掠し、袁紹の後ろを切断しようとしました。
資治通鑑』胡三省注によると、黒山諸帥は張燕等を指します。易京の西に諸山が連なり、中山に接していました。これらの山谷は深くて広く、黒山諸賊が険阻な地形を利用して拠点にしていました。
 
関靖が諫めて言いました「今、将軍の将士で瓦解の心を抱いていない者はいません。それでも守っていられるのは、居処・老少(住居や家族)を顧恋(顧念。思念)し、また、将軍を頼って主としているからです。堅守して日が経てば(堅守曠日)、あるいは袁紹が自ら退くようにさせることもできるかもしれません。もしこれを捨てて出撃したら、後ろに鎮重がなくなり(城内に主がいなくなり)、易京の危機はすぐに訪れます(易京之危可立待也)。」
公孫瓉は中止しました。
 
この後、袁紹の攻撃が徐々に公孫瓉を逼迫するようになり、公孫瓉の衆は日に日に困窮していきました。
 
 
 
次回に続きます。