東漢時代373 献帝(五十五) 公孫瓉と袁術の死 199年(1)

今回は東漢献帝建安四年です。六回に分けます。
 
東漢献帝建安四年
己卯 199
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』からです。
春二月、曹操が還って昌邑に至りました曹操呂布を撃つために徐州に遠征していました)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、黒山賊の帥張燕と公孫続が兵十三万を率いて三道から公孫瓉を援けに行きました。
張燕等が到着する前に、公孫瓉が秘かに行人(使者)に書を持たせて公孫続と連絡を取り、五千の鉄騎を率いて北隰(易京北の湿地)で待機させ、火が起きたら呼応させようとしました。公孫瓉自ら城を出て戦うつもりです。
しかし袁紹の候(偵察兵)がその書を得ました。
 
公孫瓉が公孫続と約束した日に、袁紹が火を挙げました。公孫瓉は援軍が来たと思って出撃します。そこを袁紹が伏兵を設けて攻撃しました。
公孫瓉は大敗して再び城内に還り、守りを固めます。
 
袁紹が地道を造って楼下を穿ちました。中に木柱を立てて支えとし、進度を測って城楼の半分ほどに達したと判断すると、火をつけて木柱を焼きます。
楼が傾き倒れて(袁紹軍が)徐々に京中(易京の中心)に至りました。
 
公孫瓉は自分の身を守ることができなくなった判断し(自計必無全)、姉妹や妻子を全て縊殺してから火をつけて自焚しました。
袁紹は兵を督促して台に登らせ、公孫瓉を斬りました。
孝献帝紀』は「袁紹が易京で公孫瓉を攻めてこれを獲った」と書いていますが、この「獲る」は「首を獲る」の意味だと思います。
 
田楷は戦死しました。
 
関靖が嘆いて言いました「以前、もしも将軍が自ら行くのを(出撃するのを)止めなかったら、助からなかったとは限らない(あるいは助かったかもしれない。原文「未必不済」)。吾()は『君子が人を危(危難)に陥れてしまったら、必ずその難を同じくする(君子陷人危必同其難)』と聞いている。どうして独りだけ生きられるか(豈可以独生乎)。」
関靖は馬に鞭打って袁紹軍に赴き、戦死しました。
 
公孫続は屠各匈奴の部族)に殺されました。
 
漁陽の人田豫が太守鮮于輔に言いました(『資治通鑑』胡三省注によると、かつて公孫瓉が鄒丹を漁陽太守に任命しましたが、献帝興平二年195年)に鮮于輔が鄒丹を斬って漁陽太守になりました)「曹氏は天子を奉じて諸侯に号令しており奉天子以令諸侯)、最後は天下を定めることができるので、早く従うべきです。」
鮮于輔はその衆を率いて王命を奉じました(朝廷に帰順しました)
献帝は詔によって鮮于輔を建忠将軍に任命し、幽州六郡を都督させました。
 
以前、烏桓丘力居が死んだ時、子の楼班はまだ年少で、従子(甥)蹋頓に武略があったため、蹋頓が代わりに王に立って、上谷大人難楼、遼東大人蘇僕延、右北平大人烏延等を総摂(総管)しました。
袁紹が公孫瓉を攻めると、蹋頓は烏桓を率いて袁紹を援けました。
公孫瓉が滅んでから、袁紹は承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって蹋頓、難楼、蘇僕延、烏延等、皆に単于印綬を賜りました。
また、閻柔が烏桓の人心を得ていたため、袁紹は北辺を安定させるために、閻柔に寵慰(恩寵慰撫)を加えました。
その後、難楼と蘇僕延が楼班を奉じて単于に立て、蹋頓を王にしました。しかしやはり蹋頓が計策を主持しました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
眭固が射犬(地名)に駐屯しました。
 
三国志魏書一武帝紀』はここで「張楊の将楊醜が張楊を殺したが、眭固がまた楊醜を殺した。(眭固は)その衆を率いて袁紹に属し、射犬に駐屯した」と書いています。
後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』では前年に張楊と楊醜が殺されています(既述)
 
夏四月、曹操が進軍して黄河に臨み、将軍史渙と曹仁に命じて渡河して眭固を撃たせました。
曹仁曹操の従弟です。
 
眭固は張楊の旧長史薛洪と河内太守繆尚に留守させ、自ら兵を率いて北上し、袁紹に投じて救援を求めようとしました。しかし、犬城で史渙、曹仁と遭遇します。
史渙、曹仁が交戦して大勝し、眭固を斬りました。
 
曹操黄河を渡って射犬を包囲しました。射犬を守っていた薛洪と繆尚は衆を率いて曹操に投降し、列侯に封じられました。
 
曹操は敖倉に軍を還しました。
 
以前、曹操が兗州で魏种を孝廉に挙げました。
兗州が叛した時(張邈が兗州を挙げて呂布に附いた時です。献帝興平元年194年参照)曹操が言いました「魏种だけは孤()を棄てるはずがない(唯魏种且不棄孤)。」
しかし魏种は逃走しました。
それを聞いた曹操は怒って「魏种が南は越に走らず、北は胡匈奴に走らない限り、汝を置く(あきらめる)ことはない(种不南走越北走胡,不置汝也)」と言いました。
しかし射犬を降して魏种を生け捕りにすると、曹操は「ただその才のみである(その才だけがあればいい。原文「唯其才也」)」と言い、縛っていた縄を解いて用いました。
魏种を河内太守に任命して河北の政務を属させます(委ねます)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
衛将軍董承を車騎将軍にしました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
袁術は帝を称してから淫侈(奢侈)がますます甚だしくなり、媵御(姫妾)が数百人に上りました。羅紈(精美な絹織物)を重ねて着ない者はなく(無不兼羅紈)、粱肉(豪勢な食事)でも厭きて嫌うほどです。
しかし下の者が飢困しても收恤(収容救済)することはありませんでした。
 
袁術は陳で曹操に敗れてから献帝建安二年197年参照)徐々に困窮しました。やがて資実(物資)を使い果たして、自立できなくなります。
そこで宮室を焼きはらい、灊山に奔って部曲の陳簡、雷薄を頼りました。
ところが陳簡等に拒まれたため袁術は大いに困窮し、士卒が離散逃走しました。
袁術は憂懣(憂慮憤懣)するだけで為す術がなくなり、ついに使者を送って帝号を従兄の袁紹に帰し、こう言いました「禄(福)が漢室を去って久しくなります。袁氏は命を受けて王になるべきであり、符瑞が炳然(明らかな様子)としています。今、君(あなた)は四州(青并)を擁有し、人戸が百万を数えるので、謹んで大命を帰します。君(あなた)がこれを興隆させてください(君其興之)。」
 
袁紹の子・袁譚青州から袁術を迎えに行きました。袁術は下邳の北を通ろうとします。
それを知った曹操劉備と将軍清河の人朱霊に袁術を迎撃させました。
袁術は道を阻まれたため、再び寿春に走ります。
 
六月、袁術が江亭に至り、簀床(蓆もない粗末な寝床)に座って嘆いて言いました「袁術がこうなってしまうとは袁術乃至是乎)。」
袁術は憤慨して病を患い、血を吐いて死んでしまいました。
 
袁術の従弟袁胤は曹操を畏れたため寿春に住もうとせず、その部曲を率い、袁術の柩と妻子を奉じて皖城の廬江太守劉勳に奔りました。
 
三国志呉書一孫破虜討逆伝』本文によると、袁術の死後、長史楊弘や大将張勳等がその衆を率いて孫策に就こうとしましたが、廬江太守劉勳が邀撃して全て捕虜にし、その珍宝を回収して帰りました。
しかし、『三国志董二袁劉伝』と『後漢書劉焉袁術呂布列伝(巻七十五)』は「袁術の)妻子は袁術の故吏(旧部下)である廬江太守劉勳を頼った」と書いています。
三国志孫破虜討逆伝』裴松之注も「孫策詔勅を被り、司空曹公曹操、衛将軍董承、益州劉璋等と力を併せて袁術劉表を討った。孫策が軍を整えて進もうとした時(軍厳当進)、ちょうど袁術が死んだ。袁術の従弟袁胤、女壻(娘婿)黄猗等は曹公曹操を畏懼したため、敢えて寿春を守ることができず、共に袁術の棺柩を運び、その妻子や部曲の男女を支え助けて皖城の劉勳に就いた」と書いています。
資治通鑑』は『三国志孫破虜討逆伝』本文の「劉勳が邀撃して全て捕虜にした」という記述を採用せず、『三国志魏書六董二袁劉伝』『後漢書劉焉袁術呂布列伝』および『三国志孫破虜討逆伝』裴松之注に従っています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
広陵太守徐璆が伝国の璽を得たため、朝廷に献上しました(伝国の璽は袁術孫堅の妻を拘留して奪っていました)
 
 
 
次回に続きます。