東漢時代373 献帝(五十五) 公孫瓉と袁術の死 199年(1)
己卯 199年
張燕等が到着する前に、公孫瓉が秘かに行人(使者)に書を持たせて公孫続と連絡を取り、五千の鉄騎を率いて北隰(易京北の湿地)で待機させ、火が起きたら呼応させようとしました。公孫瓉自ら城を出て戦うつもりです。
公孫瓉は大敗して再び城内に還り、守りを固めます。
袁紹が地道を造って楼下を穿ちました。中に木柱を立てて支えとし、進度を測って城楼の半分ほどに達したと判断すると、火をつけて木柱を焼きます。
公孫瓉は自分の身を守ることができなくなった判断し(自計必無全)、姉妹や妻子を全て縊殺してから火をつけて自焚しました。
袁紹は兵を督促して台に登らせ、公孫瓉を斬りました。
田楷は戦死しました。
関靖が嘆いて言いました「以前、もしも将軍が自ら行くのを(出撃するのを)止めなかったら、助からなかったとは限らない(あるいは助かったかもしれない。原文「未必不済」)。吾(私)は『君子が人を危(危難)に陥れてしまったら、必ずその難を同じくする(君子陷人危必同其難)』と聞いている。どうして独りだけ生きられるか(豈可以独生乎)。」
関靖は馬に鞭打って袁紹軍に赴き、戦死しました。
漁陽の人・田豫が太守・鮮于輔に言いました(『資治通鑑』胡三省注によると、かつて公孫瓉が鄒丹を漁陽太守に任命しましたが、献帝興平二年(195年)に鮮于輔が鄒丹を斬って漁陽太守になりました)「曹氏は天子を奉じて諸侯に号令しており(奉天子以令諸侯)、最後は天下を定めることができるので、早く従うべきです。」
鮮于輔はその衆を率いて王命を奉じました(朝廷に帰順しました)。
献帝は詔によって鮮于輔を建忠将軍に任命し、幽州六郡を都督させました。
その後、難楼と蘇僕延が楼班を奉じて単于に立て、蹋頓を王にしました。しかしやはり蹋頓が計策を主持しました。
眭固が射犬(地名)に駐屯しました。
史渙、曹仁が交戦して大勝し、眭固を斬りました。
曹操は敖倉に軍を還しました。
以前、曹操が兗州で魏种を孝廉に挙げました。
しかし魏种は逃走しました。
魏种を河内太守に任命して河北の政務を属させます(委ねます)。
衛将軍・董承を車騎将軍にしました。
しかし下の者が飢困しても收恤(収容救済)することはありませんでした。
そこで宮室を焼きはらい、灊山に奔って部曲の陳簡、雷薄を頼りました。
ところが陳簡等に拒まれたため袁術は大いに困窮し、士卒が離散逃走しました。
袁術は憂懣(憂慮憤懣)するだけで為す術がなくなり、ついに使者を送って帝号を従兄の袁紹に帰し、こう言いました「禄(福)が漢室を去って久しくなります。袁氏は命を受けて王になるべきであり、符瑞が炳然(明らかな様子)としています。今、君(あなた)は四州(青・冀・幽・并)を擁有し、人戸が百万を数えるので、謹んで大命を帰します。君(あなた)がこれを興隆させてください(君其興之)。」
袁術は道を阻まれたため、再び寿春に走ります。
袁術は憤慨して病を患い、血を吐いて死んでしまいました。
『三国志・孫破虜討逆伝』裴松之注も「孫策が詔勅を被り、司空・曹公(曹操)、衛将軍・董承、益州牧・劉璋等と力を併せて袁術、劉表を討った。孫策が軍を整えて進もうとした時(軍厳当進)、ちょうど袁術が死んだ。袁術の従弟・袁胤、女壻(娘婿)・黄猗等は曹公(曹操)を畏懼したため、敢えて寿春を守ることができず、共に袁術の棺柩を運び、その妻子や部曲の男女を支え助けて皖城の劉勳に就いた」と書いています。
『資治通鑑』は『三国志・孫破虜討逆伝』本文の「劉勳が邀撃して全て捕虜にした」という記述を採用せず、『三国志・魏書六・董二袁劉伝』『後漢書・劉焉袁術呂布列伝』および『三国志・孫破虜討逆伝』裴松之注に従っています。
次回に続きます。