東漢時代374 献帝(五十六) 張繍帰順 199年(2)

今回は東漢献帝建安四年の続きです。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
袁紹は公孫瓉に勝ってその地を併合してから、四州の地を兼ねており、衆も十余万を数えました。心中にますます驕りを抱き、貢御(朝廷への貢物)が稀簡(少なくて簡単なこと)になります。
主簿耿包が秘かに袁紹に進言しました「天と人に応じて尊号を称すべきです。」
袁紹は耿包が進言した内容を軍府に示しました。
ところが僚属は皆、「耿包は妖妄(荒唐で道理がないこと)なので誅すべきです」と言いました。
袁紹はやむなく耿包を殺し、称帝の意志がないことを示して弁解しました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
袁紹が精兵十万人、騎馬一万頭を選んで許を攻めようとしました。
 
三国志魏書一武帝紀』裴松之注には、この頃の袁紹曹操の対立を物語る記述があります。
袁紹はかねてから元太尉楊彪、大長秋梁紹、少府孔融と対立していたため、他の過失によって(口実を探して)曹操に誅殺させようとしました。
しかし曹操はこう言いました「今は天下が土崩瓦解して雄豪が並び起っており、輔相(大臣)も君長(諸勢力の長)も人々が怏怏(不満憂憤の気持ち)を抱いてそれぞれ自為(自立。自分を利すために動くこと)の心を持っています。これは上下が互いに疑っている秋(時)であり、相手を疑わずに遇したとしても、(相手から)信頼されないことを懼れるものです(雖以無嫌待之猶懼未信)。もしも除かれる者がいたら、誰が自分の危険を感じないでしょう(今は誰もが猜疑心を抱いているので、こちらが相手を疑わなくても、相手に信用されない恐れがあります。それなのに人を殺してしまったら、皆が危険を感じて我々を信用しなくなります)。そもそも布衣から起きて塵垢の間(俗世)にいるのに、庸人(凡人。私)に陵陷(凌辱)されたら、怨みに堪えられるでしょうか(可勝怨乎)。高祖は雍歯の讎(怨み)を赦したので、それによって群情が安んじました。どうしてこれを忘れるのでしょうか(如何忘之)。」
袁紹曹操が表面は公義に託しながら、内実は離異(離反)していると思い、深く怨望(怨恨)を抱きました。
 
本文に戻ります。
袁紹が許に進攻しようとしたため、沮授が袁紹を諫めて言いました「最近、公孫瓉を討ち、出征して年を重ねたので(師出歴年)、百姓が疲敝して倉庫に積(蓄え)がありません。よって、まだ動くべきではありません(未可動也)。農業に務めて民を休め(務農息民)、先に使者を派遣して天子に献捷(戦勝を報告して戦利品を献上すること)するべきです。もし(道を)通ることができなかったら、曹操が我々の王路尊王の道)を隔てたことを上表し、その後、黎陽に進屯して、徐々に河南を営み(徐々に河南を攻略し)、更に舟船を造り、器械(武器道具)を繕修(修繕)し、精騎を分遣してその辺鄙(辺界)を掠め、彼(曹操)が安(安寧)を得られないようにして、我々はその逸(安逸。安楽)を取ります(自軍は余裕を持って辺界を襲い、曹操を疲弊させます)。このようにすれば、坐して定めることができます。」
 
郭図と審配が言いました「明公の神武をもち、河朔黄河以北)の強衆を率いて曹操を伐てば、(勝つのは)手を返すように容易です(易如覆手)。どうしてそのように(沮授の計のように)する必要があるのでしょう(何必乃爾)。」
 
沮授が言いました「乱を救って(乱を治めて)暴虐を誅すのを、義兵といいます(救乱誅暴謂之義兵)。衆に恃んで強に頼るのは(多勢や強盛を背景にした兵は)驕兵といいます(恃衆憑強謂之驕兵)。義の者は敵がいませんが、驕の者は先に滅びます(義者無敵驕者先滅)曹操は天子を奉じて天下に号令しています奉天子以令天下)。今、師()を挙げて南に向かったら、義において違えることになります。そもそも、廟勝の策(国家が立てた必勝の策)は強弱にあるのではありません。曹操は法令を既に行い、士卒が精練です。公孫瓉のように坐して攻撃を受けるような者ではありません。今、万安の術を棄てて無名の師(出征の名義、名分がない兵)を興そうとしていますが、心中で公のためにこれを懼れます(竊為公懼之)。」
 
郭図と審配が言いました「武王が紂を伐ちましたが、不義とはされませんでした。曹操に兵を加えるのに、どうして無名(名分がないこと)というのでしょう(況兵加曹操而云無名)。そもそも、公の今日における強(強盛)によって、将士が奮を思っています(奮起しています)。この時に乗じて大業を定めなければ、『天が与えたのに取らなかったら、逆に咎を受ける(天與不取反受其咎)』ということになります。これは越が霸を称えて呉が滅んだ理由です。監軍袁紹が沮授に諸将を監護させていたため、沮授は監軍と呼ばれました)の計は持牢(固守、安全)にありますが、時を見て事象の変化を理解した計ではありません臨機応変な策ではありません。原文「非見時知幾之変也」)。」
袁紹は郭図の言を採用しました。
 
郭図等はこれを機に沮授を讒言しました「沮授は内外を監統しており、威が三軍を震わせています。もしも寖盛したら(徐々に権勢を拡大したら)、どうして制すことができるでしょう(何以制之)。臣と主が同等の者(臣と主の権威が等しい者)は亡びます。これは『黄石西漢張良が得た書)』が忌した(嫌った)ことです。しかも(彼は)外で衆を御しているので(外で兵を統率しているので)、内の事を知るべきではありません(御衆於外不宜知内)。」
袁紹は沮授が統率する軍を三都督に分け、沮授、郭図、淳于瓊にそれぞれ一軍を管理させました。
 
騎都尉清河の人崔琰も袁紹を諫めて「天子が許におり、民は順(天子に従う者。曹操を助けることを望んでいます(民望助順)。攻めてはなりません(不可攻也)」と言いましたが、袁紹は従いませんでした。
 
許の諸将は、袁紹が許を攻めようとしていると聞き、皆、敵わないと思って懼れを抱きました。
しかし曹操がこう言いました「吾(私)袁紹の為人を知っている。志は大きいが智は小さく(志大而智小)、外見は厳しいが胆は小さく(色厲而膽薄)、嫉妬深く刻薄で威望が少なく(忌克(忌刻)而少威)、兵は多くても分画(配置。または規律)が不明確で(兵多而分画不明)、将領が驕って政令が一致しない(将驕而政令不壹)。たとえ土地が広く、たとえ糧食が豊かでも、吾()のために奉じるにちょうど足りている(広い土地も豊かな食料も、ちょうど私のために準備したようなものだ。原文「適足以為吾奉也」)。」
 
孔融が荀彧に言いました「袁紹は地が広くて兵も強い。田豊、許攸は智士であり、彼(袁紹)のために謀っている。審配、逢紀は忠臣であり、彼の事袁紹の政務)を任せられている。顔良文醜は勇将であり、彼の兵を統率している。克つのは難しいのではないか(殆難克乎)。」
荀彧が言いました「袁紹の兵は多いとはいえ、法が整っていません。田豊は硬直で上に逆らい(剛而犯上)、許攸は貪婪で身を正さず(貪而不治)、審配は専権していながら謀が無く(専而無謀)、逢紀は果断で人の意見を聴きません(果而自用)。この数人は相容れることができないので、必ず内変が生まれます(勢不相容必生内変)顔良文醜は一夫の勇に過ぎません。一戦にして捕えることができます(可一戦而禽也)。」
 
秋八月、曹操が黎陽黄河北岸)に進軍しました。
臧霸等に精兵を率いて青州に入らせ、東方を守らせます。
資治通鑑』胡三省注によると、臧霸は泰山で起きて東方で雄を称したので、東方を守らせて袁氏が平原から東に向かうのを防ぎました青州は平原の東に位置します)
尚、『三国志武帝紀』は「臧霸等に青州に入って斉、北海、東安を破らせた」と書いていますが、ここは『資治通鑑』に従って「東方を守らせた」としました。
 
曹操于禁を留めて河上(黄河沿岸)に駐屯させました。
 
九月、曹操が許に還りました。
兵を分けて官渡を守らせます。
 
袁紹が人を派遣して張繍を招き、併せて賈詡に書を送って友好を結ぼうとしました。張繍袁紹の招きに同意しようとします。
ところが賈詡が張繍の坐上におり、袁紹の使者にはっきりと言いました(顕謂紹使曰)「帰って袁本初(本初は袁紹の字です)に謝せ(帰謝袁本初)。兄弟でも相容れることができないのに袁術と対立していたことを指します)、天下の国士を容れることができるか。」
張繍が驚き懼れて言いました「どうしてそのようにするのだ(どうしてそのようなことを言うのだ。原文「何至於此」)!」
 
張繍が秘かに賈詡に問いました「それでは誰に帰すべきだ(若此当何帰)?」
賈詡が言いました「曹公に従った方がいいでしょう(不如従曹公)。」
張繍が問いました「袁紹は強く、曹操は弱い(袁強曹弱)。また、以前、曹操とは讎を為した(先與曹為讎)。彼に仕えてどうするのだ(従之如何)?」
賈詡が言いました「それが従うべき理由です(此乃所以宜従也)。曹公は天子を奉じて天下に号令しています奉天子以令天下)。これが従うべき理由の一つ目です。袁紹は強盛なので、我々が少衆を率いて従っても、我々を重んじることはありません(必不以我為重)。曹公は衆が弱いので、我々を得たら必ず喜びます。これが従うべき理由の二つ目です。霸王の志を持つ者とは、元から私怨を解いて四海に徳を明るくするものです。これが従うべき理由の三つ目です。将軍が疑わない(迷わない)ことを願います。」
 
冬十一月、張繍が衆を率いて曹操に降りました。
曹操張繍の手を取り、共に歓宴します。
 
曹操は子の曹均に張繍の娘を娶らせ、張繍を揚武将軍に任命して列侯に封じました。
また、上表して賈詡を執金吾に任命し、都亭侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、郡道の治所には都亭がありました。
 
 
 
次回に続きます。