東漢時代375 献帝(五十七) 劉表 199年(3)

今回も東漢献帝建安四年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
袁紹曹操が争っている中、関中諸将は皆、中立顧望(傍観)しました。
涼州韋端が従事天水の人楊阜を派遣して許を訪ねさせました。
楊阜が還ると、関右(関西)の諸将が問いました「袁と曹の勝敗はどちらにある(勝敗孰在)?」
楊阜が言いました「袁公は寛大ですが果断ではなく(寛而不断)、謀を好みますが決断が少ないです(好謀而少決)。果断でなければ威望がなく(不断則無威)、決断が少なければ後れを取ります(決則後事)。今は強いとはいえ、最後は大業を成すことができません。曹公は雄才遠略があり、時機を選んで躊躇せず(決機無疑)、法が統一されていて兵も精鋭で(法一而兵精)、度外の人(法や礼に拘らない人)でも用いることができ、任せられた者がその力を尽くしているので、必ず大事を成就できます(必能済大事者也)。」
 
曹操が治書侍御史河東の人衛覬に関中を鎮撫させました。
当時は四方に大量の還民(故郷に還った難民)がおり、関中の諸将が多くの民を引き入れて部曲にしていました。
衛覬が荀彧に書を送りました「関中は膏腴(肥沃)の地ですが、最近、荒乱に遭ったため、人民で荊州流入した者が十万余家もいました。(彼等は)本土が安寧になったと聞いて、皆、帰郷を希望しています(企望思帰)。しかし帰った者は自業(生計を立てる事業)がないので、諸将がそれぞれ競って招懐(招致懐柔)し、部曲にしています。郡県は貧弱なので争うことができず、そのため兵家(諸将)がしだいに強くなっており、一旦変動したら必ず後の憂いになります。
塩とは国の大宝です。乱が起きてから放散(分散、放置)されていますが(乱来放散)、以前のように使者(朝廷が派遣した官員)を置いて販売を監督させ、その直益(収入。利益)によって犂牛(農業用の牛。または農具や牛)を買い、帰民がいたらそれを供給し、農業を奨励して粟穀物を蓄え、こうして関中の生産を豊かにさせるべきです(宜如旧置使者監売以其直益市犂牛,若有帰民以供給之,勤耕積粟以豊殖関中)。遠民がそれを聞いたら必ず日夜競って帰還します。
また、司隸校尉を留めて関中を治めさせることで彼等の主にすれば、諸将(の勢力)が日に日に削られ、官民が日に日に盛んになります。これが本を強くして敵を弱くするという利です(此強本弱敵之利也)。」
荀彧はこの内容を曹操に報告しました。
 
曹操は進言に従い、謁者僕射を派遣して塩官を監督させ、司隸校尉の治所を弘農に置くことにしました司隸校尉治弘農)
この後、関中が服従するようになります。
資治通鑑』胡三省注によると、河東安邑に塩池があり、塩官が置かれました。
当時の司隸校尉は鍾繇です。鐘繇の治所は洛陽(雒陽)ですが、関中を招撫するために、暫定的に弘農を治所にしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
袁紹が人を送って劉表に援軍を求めました。
劉表はこれに同意しましたが、袁紹に兵を送らず、曹操も援けませんでした。
従事中郎南陽の人韓嵩(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では司隸校尉だけに従事中郎がいましたが、漢末になって州牧も従事中郎を置いたようです)、別駕零陵の人劉先が劉表を説得して言いました「今、両雄が相持(対峙)し、天下の重が将軍にあります(将軍が重要な役割を持っています)。もしも事を為したいのなら、(双方の)疲弊に乗じて起きれば成功します(若欲有為,起乗其敝可也)。もしそうでないのなら、従うのに相応しい者を選ぶべきです(如其不然,固将択所宜従)。どうして甲兵十万を擁しながら坐して成敗を傍観していられるでしょう。援軍を求められても助けることができず、賢を見ても帰順しようとしなかったら、両怨が必ず将軍に集まり、恐らく中立ではいられなくなります。曹操は用兵を善くし、賢俊の多くが帰しているので、その形勢は必ず袁紹を挙げ袁紹の地を占拠し)、その後、兵を移して江漢に向かいます。恐らく将軍が防御することはできません。今の勝計(最良の計)は、荊州を挙げて曹操に附くしかありません。曹操は必ず将軍を重く徳とするので(厚く感謝するので)、長く福祚(福禄)を享受して後嗣に垂らす(伝える)ことができます。これが万全の策です。」
 
蒯越も曹操に附くように勧めましたが、劉表は躊躇して決断できませんでした(狐疑不断)
 
そこで劉表は韓嵩を許に派遣することにしました。
劉表が韓嵩に言いました「今、天下は定まるところが分からないが、曹操は天子を擁して許を都にしている。君は私のためにその釁(隙)を観察せよ(君為我観其釁)。」
しかし韓嵩はこう言いました「聖人は節に達し、次(聖人より劣る者)は節を守るものです聖達節,次守節)。嵩(私)は節を守る者であり、君臣の名が定まったら死によってそれを守らなければなりません。今、(将軍の)臣籍に名を記して忠誠を誓ったので(策名委質)、将軍が命じることなら、たとえ熱湯に入って烈火を踏むようなことでも(赴湯蹈火)、死んでも辞退しません。しかし、嵩(私)がこれを観るに、曹公は必ず天下において志を得ます曹操が天下を平定します)。将軍が上は天子に順じ、下は曹公に帰すのなら、嵩(私)を使者にしても問題ありませんが(使嵩可也)、もしもまだ猶豫(躊躇)しており、嵩(私)が京師に至ってから、天子が嵩(私)に一職を与えて(私がその)命を辞退できなかったら(天子假嵩一職不獲辞命)(私は)天子の臣、将軍の故吏(旧部下)に成ってしまいます。主君の所にいたら主君のために働かなければなりません(在君為君)。よって、嵩(私)は天子の命を守り、義において再び将軍のために死ぬことはできなくなります。(将軍が)再考を加えて嵩(私)の忠心に背かないことを願います(惟加重思無為負嵩)。」
劉表は韓嵩が使者になることを恐れていると思い、強制しました。
 
韓嵩が許に入ると、献帝が詔によって韓嵩を侍中零陵太守に任命しました。
韓嵩は荊州に還ってから盛んに朝廷や曹公の徳を称賛し、劉表に子を送って入侍させるように勧めました。
すると劉表は激怒して韓嵩が二心を抱いたと判断しました。
劉表は寮属(百官)を大いに集め、兵を並べ、朝廷の符節を持ち(原文「持節」。妄りに臣下を殺すのではないという姿を示すためです)、韓嵩を譴責して「韓嵩は敢えて二心を抱くのか(敢懐貳邪)!」と言いました。
衆人は皆恐れ、韓嵩に謝らせようとしました。しかし韓嵩は容貌を動かすことなく、ゆっくりと劉表に言いました「将軍が嵩(私)に背いたのです。嵩が将軍に背いたのではありません(将軍負嵩,嵩不負将軍)。」
韓嵩は改めて前言を述べました。
劉表の妻蔡氏も諫めて「韓嵩は楚国荊州の望です。しかもその言直は誅殺する理由がありません(且其言直誅之無辞)」と言いました。
しかし劉表はまだ怒っていたため、韓嵩に従った者を拷問で殺しました(考殺従行者)
韓嵩に他意(裏切りの心)がないと知ってから、誅殺を止めて囚禁しました。
 
 
 
次回に続きます。