東漢時代376 献帝(五十八) 孫策の進撃(上) 199年(4)

今回も東漢献帝建安四年の続きです。
 
[十一] 『三国志呉書一孫破虜討逆伝』と『資治通鑑』からです。
揚州賊の帥鄭宝が居民を略して(奪って)江表(長江以南)に赴こうとしました。
淮南の人劉曄が高族の名人(貴族の名士)だったため(『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』と『資治通鑑』胡三省注によると、劉曄東漢光武帝の子阜陵王劉延の後代です。蒋済、胡質と共に揚州の名士として知られていました)、鄭宝は劉曄を脅迫して共にこの謀を提唱しようとします。
劉曄はこれを患いました。
 
ちょうど曹操が使者を揚州に派遣し、ある事を案問(審問。調査)しました。
劉曄は使者を招いて一緒に家に帰ります。
鄭宝も劉瞱の家に来て使者に挨拶しました。
劉曄は鄭宝を留めて宴飲し、自らの手で殺して(手刃殺之)首を斬ると、その首を持って鄭宝の軍に令を下しました「曹公の令がある。敢えて動く者は鄭宝と同罪とする!」
鄭宝の衆数千人は皆、懼れて服従し、劉曄を主に推しました。
 
劉曄はその衆を廬江太守劉勳に与えました。
劉勳が理由を怪しんだため、劉曄はこう言いました「鄭宝は法制がなく、その衆は以前から鈔略(略奪)によって利を為してきました。僕(私)は元から資(資財)がないのに、これを整斉したら(彼等を正したら)(彼等が)必ず怨みを抱くので、久しくするのは困難です(僕宿無資而整斉之,必懐怨難久)。だから譲ったのです(故以相與耳)。」
 
劉勳は袁術の部曲も収容したばかりでした。人数が多いのに糧食が少なかったため、帰順した者を救済できず、物資の供給もままなりません。
そこで従弟の劉偕を派遣して豫章太守華歆から食糧を買い求めようとしました(告糴)
しかし華歆の郡も元々穀物が少なかったため、官吏を派遣し、劉偕を連れて海昏上繚に向かわせました。上繚の諸宗帥に要求して合計三万斛の米を劉偕に提供させます。
ところが、劉偕が上繚に行ってから、月を経ても数千斛しか得られませんでした。
劉偕は劉勳に報告して詳しい状況を説明し、諸宗帥を襲って(土地や物資を)奪取するように促しました。
 
豫章上繚の諸宗帥は、献帝建安三年198年)に触れた宗賊の主です。『資治通鑑』胡三省注は「郡民数千家が互いに集まって宗伍(宗部)を形成していた」としていますが、『三国志孫破虜討逆伝』には「豫章上繚の宗民一万余家が江東にいた」と書かれています。
 
孫策は劉勳が袁術等の兵を吸収したと聞き、その勢力が強盛なことを嫌いました。そこで、偽って辞を低くし、劉勳に仕えるふりをして(『資治通鑑』では「偽卑辞以事勳」、『三国志呉書一孫破虜討逆伝』では「偽與勳好盟」です。『三国志』の「好盟」は「結盟(盟を結んだ)」の誤りではないかと思われます。ここは『資治通鑑』に従いました)こう言いました「上繚の宗民がしばしば鄙郡(私の郡)を虐げているので(数欺鄙郡)、これを撃とうと欲していますが、路が不便です。上繚は甚だ富実(富裕)なので、君(あなた)がこれを伐つことを願います。(私も)兵を出して外援となることを請います。」
孫策は珠宝や葛越(布の一種)を劉勳に贈りました。
 
劉勳は大いに喜び、内外の者も皆、祝賀しました。
しかし劉曄だけは反対します。
劉勳が理由を問うと、劉瞱はこう答えました「上繚は小さいとはいえ、城壁は堅固で池(堀)が深いので、攻めるのは困難ですが守るのは容易です(城堅池深攻難守易)。旬日(十日程度)では挙げられません(占拠できません。原文「不可旬日而挙也」)。兵が外で疲弊して国内が虚になった時、孫策がその虚に乗じて我々を襲ったら、後方が独守(自守)できなくなります。このようになったら、将軍は進んだら敵に屈し、退いても帰る所がありません。もし軍を必ず出すなら、禍が今にも至ります。」
 
劉勳は劉偕の書も得ていたため、諫言を聞かず、上繚を討伐することにしました。秘かに軍を海昏に到らせます。
しかし宗帥が事前にそれを知り、皆、営壁を空にして逃げ遷りました。
劉勳は何も得る物がありませんでした。
 
この時、孫策は兵を率いて西の黄祖を攻撃しており、石城に至りました。
劉勳が自ら兵を率いて海昏に居ると聞いた孫策は、従兄の孫賁孫輔を分けて派遣し、八千人を率いて彭沢に駐屯させました。劉勳を迎撃させるためです。
孫策自身は領江夏太守周瑜と共に二万人を率いて歩行し、皖城(劉勳の拠点)を襲いました(『資治通鑑』は「二万人を率いて皖城を襲った(将二万人襲皖城)」、『三国志孫破虜討逆伝』裴松之注は「二万人を率いて歩行して皖城を襲った(率二万人歩襲皖城)」ですが、『三国志孫破虜討逆伝』本文は「孫策の軽軍が朝から夜まで廬江を襲って抜いた孫策軽軍晨夜襲抜廬江)」としており、若干異なります)
 
孫策が皖城を攻略し、劉勳の衆が全て降りました。孫策袁術の百工および鼓吹(楽隊)部曲三万余人や袁術、劉勳の妻子を得ます。
 
孫策は上表して汝南の人李術を廬江太守に任命し、兵三千人を与えて皖城を守らせました。
孫策が得た民は全て東の呉に遷されます。
 
劉勳が(上繚から)還って彭沢に至りましたが、孫賁孫輔が邀撃して破りました。
劉勳は逃走して楚江に入り、尋陽から歩いて置馬亭に到ります。そこで孫策等が皖を攻略したと聞き、西塞に投じました。
流沂(西塞付近の地名。『資治通鑑』では「流沂」、『三国志孫破虜討逆伝』裴松之注では「沂」です。『三国志集解』は「流沂」が正しいとしています)に塁壁を築いて守りを固め、劉表に急を告げて黄祖に救援を求めます。
 
黄祖は太子黄射を派遣し、船軍五千人を率いて劉勳を援けさせました。
しかし孫策が再び劉勳を攻めて大破します。
劉勳の衆は孫策に降りましたが、劉勳と劉偕は麾下数百人と共に北の曹操に帰順しました。黄射も遁走します。
孫策が劉勳の兵二千余人、船千艘を得て収容しました。
 
三国志魏書一武帝紀』によると、廬江太守劉勳は衆を率いて曹操に降ったため、列侯に封じられました。
 
三国志呉書一孫破虜討逆伝』はここで「当時、袁紹が強盛で、孫策も江東を兼併した。曹操は力がまだ足りなかったため(力未能逞)、とりあえず孫策を)宣撫しようと欲した。そこで、曹操の弟の娘を孫策の小弟孫匡に嫁がせ、子の曹章曹彰孫賁の娘を娶らせ、孫策の弟孫権孫翊をそれぞれ礼を用いて招いた。また、揚州刺史厳象に命じて孫権を茂才に挙げさせた」と書いています。
資治通鑑』はこれらを前年の事としています。
 
また、裴松之注によると、曹操孫策が江南を平定したと聞き、心中で甚だ難として(厄介だと思って)しばしばこう叫びました(常呼)「猘児(「猘」は狂犬です)は鋒を争うのが難しい(勝敗を争うのがむずかしい。原文「猘児難與争鋒也」)。」
 
本文に戻ります。
孫策が兵を進めて黄祖を撃ちました。
 
十二月辛亥(初八日)孫策軍が沙羡に至りました。
資治通鑑』胡三省注によると、沙羡は江夏郡に属す県です。
 
劉表が従子(甥)の劉虎と南陽の人韓晞を派遣し、長矛の兵五千を率いて黄祖を援けさせました。劉虎等が先鋒になります。
甲寅(十一日)孫策が劉虎等と戦って大破し、韓晞を斬りました。
黄祖は脱出して逃走します。
孫策黄祖の妻子や船六千艘を得ました。士卒で殺されたり溺死した者は数万人に上ります。
 
孫策が朝廷に上表しました「臣は黄祖を討ち、十二月八日に黄祖が駐屯する沙羨県に到りました。すると劉表が将を派遣して黄祖を助け、並んで臣に向かってきました(並来趣臣)。臣は十一日平旦(早朝)に領江夏太守行建威中郎将周瑜、領桂陽太守行征虜中郎将呂範、領零陵太守行蕩寇中郎将程普、行奉業校尉孫権、行先登校尉韓当、行武鋒校尉黄蓋等を配置して同時に進みました。身は馬に跨って陣を撃ち(身跨馬櫟陳)、手は激しく戦鼓を敲いて戦勢を整えました(手撃急鼓以斉戦勢)。吏士が奮激して踊躍百倍し、専心して意を果たし(心精意果)、それぞれ競って尽力しました(各競用命)。重壍(多数の堀)を越え渡り、飛ぶように迅速でした。火が風上に放たれ、兵が煙下で激しくなり、弓弩が並んで発せられ、流矢が雨集し(雨のように集中し)、辰時になって(原文「日加辰時」。「辰時」は午前七時から九時です)黄祖がやっと潰爛(潰滅)しました。鋒刃が截る(切る)ところ、猋火(炎火)が焚く(焼く)ところ、我々の前で生き延びた寇(賊)はいませんでしたが、黄祖だけは迸走(逃走)しました(前無生寇惟祖迸走)。その妻息(妻子)男女七人を獲て、劉虎、韓晞以下二万余級を斬り、水(川)に赴いて溺れた者は一万余口に上り、(戦利品は)船六千余艘があり、財物が山積みにされました。劉表はまだ捕えておらず、黄祖は元から狡猾で、劉表の腹心となり、外に出たら爪牙になり、劉表の鴟張(凶暴。放縦)黄祖の気息(呼吸)によるものでした。しかし、黄祖の家属・部曲は地を掃いたように残りが無くなり(埽地無余)劉表は孤特(孤独)の虜として鬼(幽鬼)か歩く尸となっています(表孤特之虜成鬼行尸)。誠に皆、聖朝の神武が遠くに振ったおかげで、臣が有罪(罪人)を討って微勤(わずかな勤労、辛苦)を尽くすことができました(誠皆聖朝神武遠振,臣討有罪得效微勤)。」
 
 
 
次回に続きます。