東漢時代379 献帝(六十一) 劉備敗走 200年(1)

今回は東漢献帝建安五年です。十一回に分けます。
 
東漢献帝建安五年
庚辰 200
 
[] 『後漢書孝献帝紀』『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、董承等の謀が漏れました。
壬午(『孝献帝紀』では「壬午」ですが、『資治通鑑』では「壬子」です。しかし中華書局『白話資治通鑑』は「壬子」を恐らく誤りとしています)曹操が董承および王服、种輯を誅殺し、全て三族を滅ぼしました(夷三族)
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』『三国志蜀書二先主伝』と『資治通鑑』からです。
曹操が自ら東征して劉備を討とうと欲しましたが、諸将がそろってこう言いました「公と天下を争っているのは袁紹です。今、袁紹(攻めて)来たばかりなのに、これを棄てて東に向い(紹方来而棄之東)、もしも袁紹が人の後ろに乗じたらどうするのですか?」
曹操が言いました「劉備は人傑である。今撃たなかったら必ず後患になる。袁紹は大志があるが、事を見るのが遅いから(反応が鈍いから)、必ず動くことはない。」
 
三国志武帝紀』の裴松之注は、孫盛の『魏氏春秋』から曹操の言葉を紹介しており、そこでは「劉備は人傑である。将来、寡人に憂いを生ませるだろう(私の禍になるだろう。原文「将生憂寡人」)」と言っています。
この「将生憂寡人」は『春秋左氏伝』で呉王夫差が言った言葉です。夫差は死ぬ前に「句践は寡人を憂いさせるだろう(私に害を及ぼすだろう。私は句践によって殺されることになる。原文「句践将生憂寡人」)」と言いました東漢元王元年475年参照)
裴松之は孫盛のこの記述を引用した後、こう否定しています「史書が言葉を記録する時は、既に多くの潤色をしているので、以前に記載されて述べている内容には事実ではないこともある。後の作者もまた意を生んで(創意を抱いて)これを改めたら、真実を失うということにおいて、ますます遠くなるのではないか(元々潤色されているのに、後の史家が更に創作したら、ますます真実から遠くなってしまう)。孫盛が書を作る時は、多くが『左氏(春秋左氏伝)』を用いて旧文(『春秋左氏伝』の文)を換えており、このようなことは一つではない。ああ(嗟乎)、後の学者はどこから信(真実)を得るのか。そもそも魏武曹操はまさに天下を目標にして志を奮わせているのに(以天下勵志)、夫差の分死の言(死ぬと決まった時の言葉)を用いるのは、最もその類ではない(最もふさわしくない引用だ。原文「尤非其類」)。」
 
本文に戻ります。
郭嘉曹操に出征を勧めてこう言いました「袁紹の性(性格)は鈍くて疑いが多いので(遅而多疑)(攻めて)来るのが速いはずがありません(すぐには攻めて来ません。原文「来必不速」)劉備は起きたばかりなので、衆心がまだ附いていません。急いでこれを撃てば必ず敗れます。」
曹操は兵を出して東に向かいました。
 
冀州別駕田豊袁紹を説得して言いました「曹操劉備が兵を連ねたら、すぐに解くことはできません(未可卒解)。公が軍を挙げてその後ろを襲えば、一度向かうだけで平定できます(可一往而定)。」
しかし袁紹は子疾(子供の病)を理由に拒否しました。
好機に兵を出せなかったため、田豊は杖を挙げて地を撃ち、「嗟乎(ああ)!難遇に遭った時に(またとない好機にあった時に。原文「遭難遇之時」)、嬰児の病によってその会(機会)を失ってしまとは惜しいことだ。事(大事)は去ってしまった!」
 
曹操劉備を撃って破りました。その衆を全て収容し、将夏侯博を生け捕りにします。
 
曹操劉備の妻子を獲てから、進軍して下邳を攻略し、関羽を捕らえました。関羽曹操に降ります。
昌豨も叛して劉備に就いていたため、曹操がこれを撃って破りました。
 
三国志先主伝』の裴松之注は、『魏書』から引用して当時の状況をこう書いています。
曹操は官渡の状況が切迫していたため(有急於官渡)、諸将を分けて官渡に駐留させ、自ら精兵を率いて劉備を征討しました。
劉備は元々曹操が大敵と連なっているので東に向かうことはできないと考えていました。そこに候騎が突然現れて曹公が自ら来たと報告します。
劉備は大いに驚きましたが、まだ信じませんでした。
しかし、自ら数十騎を率いて外出し、遠くに曹操軍を望んで麾旌(将帥旗)を見ると、すぐに衆を棄てて逃走しました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)はこの記述を否定して、「量るに劉備がこれほどの状況に到るはずはない。『魏書』は妄(虚妄。道理に合わないこと)が多い(計備必不至此。『魏書』多妄)」と書いています。
 
本文に戻ります。
劉備青州に奔りました。
青州刺史袁譚はかつて劉備の茂才だったため、歩騎を率いて劉備を迎え入れます。
劉備袁譚に従って平原に至り、袁譚が使者を駆けさせて袁紹に報告しました。
 
劉備が来たと聞いた袁紹は、将を派遣して道路で奉迎させ(道中で迎え入れさせ)、自らも鄴から二百里離れた地まで迎えに行って劉備と対面しました。
三国志先主伝』裴松之注によると、劉備袁紹に帰順してから、袁紹父子は心を尽くして尊重しました(傾心敬重)
 
劉備が鄴に駐在して一月余り経つと、失った士卒が少しずつ集まって劉備に帰しました。
 
曹操は軍を官渡に還しました。
結局、曹操劉備を討伐している間、袁紹は兵を出しませんでした。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』『三国志先主伝』と『資治通鑑』からです。
袁紹がやっと許攻撃について討議しました。
田豊が言いました「曹操は既に劉備を破ったので、許の地が空虚のままであるはずがありません(許下非復空虚)。しかも曹操は用兵を善くし、変化に法則がないので(変化無方)、たとえ衆が少ないとしても軽んじてはなりません。今は久しく対峙するべきです(不如以久持之)。将軍が山河の固に拠り、四州の衆を擁し、外は英雄と結び、内は農戦(農業と戦備)を修め、その後、精鋭を選び、分けて奇兵と為し、虚に乗じて迭出(繰り返し出撃すること)することで河南を攪乱し、(敵が)右を救ったらその左を撃ち、左を救ったらその右を撃てば、敵を奔命によって疲れさせ、民が安業できなくなり、我々が疲労する前に彼等が既に困窮し、三年に及ばず坐して克つことができます。今、廟勝の策(朝廷で定める必勝の策)を棄て、一戦において成敗を決しようとして、もしも志の通りにならなかったら、後悔しても及びません(若不如志悔無及也)。」
袁紹はこれに従いませんでした。
しかし田豊が強く諫めて袁紹に逆らったため、袁紹は衆人の士気を喪わせている(沮衆)という理由で、田豊に刑具をつけて牢に繋ぎました(械繫之)
その後、袁紹は檄を州郡に送り、曹操の罪悪を数え上げて譴責しました。
 
二月、袁紹が黎陽に進軍して黄河を渡る準備をしました。
 
沮授が出征に臨んで宗族を集め、資財を分け与えてこう言いました「勢いがあれば威を加えられない場所はないが、勢いを失ったら一身を保つこともできない(勢存則威無不加,勢亡則不保一身)。哀しいことだ(哀哉)。」
弟の沮宗が言いました「曹操の士馬は(我が軍に)敵いません。君(あなた)は何を懼れるのですか。」
沮授が言いました「(敵には)曹操の明略があり、しかも天子を挟んで(擁して)資本としている(挾天子以為資)。我々は伯珪(公孫瓉の字)には克ったが、実は衆が疲敝しており、主は驕(驕慢)で諸将は忲(奢侈貪婪)(主驕将忲)。軍の破敗(敗北)はこの一挙にある。揚雄はこう言った『(戦国時代の)六国が混戦したのは、嬴(秦)のために姫(周)を弱くしたのである(六国蚩蚩為嬴弱姫)。』これは今のことを言っているのだろう(原文「其今之謂乎」。六国の混戦は袁紹と公孫瓉が戦ったことを指し、秦はその間に台頭した曹操を指します)。」
 
振威将軍程昱が七百の兵で鄄城を守っていました。
資治通鑑』胡三省注によると、振威将軍は東漢初に宋登が任命されたのが初めです。
 
曹操が程昱の兵を二千人増やそうとしましたが、程昱は同意せず、こう言いました「袁紹は十万の衆を擁しており、向かう所に前を遮る者がいない(所向無前)と思っています。今、昱(私)の少い兵を見たら、必ず軽易(軽視)して攻めて来ません。しかしもしも程昱の兵を増やしたら、袁紹軍が)通ったら攻めないわけにはいかず、攻めたら必ず克ち、徒に両者曹操と程昱)の勢力を損なうことになります(若益昱兵,過則不可不攻,攻之必克,徒両損其勢)。公が疑わないこと(躊躇しないこと。心配しないこと)を願います(願公無疑)。」
果たして、袁紹は程昱の兵が少ないと聞いて鄄城に向かいませんでした。
曹操が賈詡に言いました「程昱の膽(胆)は賁(孟賁と夏育。古代の勇士です)を越えている。」

 
 
次回に続きます。