東漢時代380 献帝(六十二) 顔良と文醜 200年(2)

今回は東漢献帝建安五年の続きです。
 
[(続き)] 袁紹が郭図、淳于瓊、顔良を派遣し、白馬で東郡太守劉延を攻撃させました。
沮授が袁紹に「顔良の性(性格)は促狭(度量が小さいこと)です。驍勇とはいえ、彼一人に任せることはできません(不可独任)」と言いましたが、袁紹は聴き入れませんでした。
 
夏四月、曹操が劉延を救うために北に向かいました。
荀攸が言いました「今は兵が少なく袁紹軍に)敵わないので、彼等の勢いを分けさせなければなりません(今兵少不敵必分其勢乃可)。公が延津(南岸)に至り、兵を渡河させてその後ろに向かおうとすれば、袁紹は必ず西に向かってこれに応じます。その後、軽兵が白馬を襲い、その不備を突けば(掩其不備)顔良を虜にできます(可禽也)。」
曹操はこれに従いました。
 
袁紹曹操の兵が渡河すると聞いて、曹操を邀撃するため、すぐに兵を分けて西に向かいました。
そこで曹操は軍を率いて兼行(急行)し、白馬に向かいます。
曹操軍が白馬から十余里の地まで接近した時(未至十余里)顔良が気づいて大いに驚き、迎撃しに来ました。
曹操張遼関羽を先登(先鋒)にして顔良を撃たせます。
関羽顔良の麾蓋(大将が乗る戎車(戦車)の旗と傘)を眺め見ると、馬に鞭打って万衆の中で顔良を刺し、その首を斬って帰還しました(策馬刺良於万衆之中斬其首而還)
袁紹軍には対抗できる者がなく、白馬の包囲が解かれました。
曹操はその民(燕県と白馬県の民。建安十八年・213年に触れます)を遷し、黄河に沿って西に向かわせました。
 
袁紹黄河を南に渡って曹操軍を追撃しようとしました。
沮授が諫めて言いました「勝負の変化は慎重に把握しなければなりません(勝負変化不可不詳)。今は延津に留まって駐屯し、兵を官渡に分けるべきです。彼等が戦勝したら、それから戻って(延津の大軍を)迎えさせても晩くはありません(若其克獲還迎不晚)(全軍が南下してから)もしも難があったら、衆(大軍)が還れなくなります(設其有難衆弗可還)。」
袁紹はこれに従いませんでした。
 
沮授が渡河に臨んで嘆いて言いました「上はその志を満たし、下はその功に務めている(上は志を大きくするだけで、下は功績を求めているだけだ)。悠悠とした黄河よ、私は渡ることができるのか(生きて還ることができるのか。原文「上盈其志,下務其功。悠悠黄河,吾其済乎」)
沮授は病を理由に辞職しようとしました。
しかし袁紹は同意せず、心中で沮授を恨みました。再び沮授の部(兵)を除いて全て郭図に属させます。
 
袁紹軍が延津南に到りました。
曹操は兵を整えて南阪下に駐営(駐屯)します。
資治通鑑』胡三省注によると、この「南阪」は白馬山の南のようです。当時、曹操黄河に沿って酸棗界内に入っていました。
 
曹操が人を送り、営塁に登って遠くを眺めさせました。
派遣された者が言いました「約五六百騎です。」
暫くしてまた言いました「騎兵が少しずつ増えています。歩兵は数え切れません。」
曹操は「もう報告する必要はない(勿復白)」と言うと、騎兵に鞍を解いて馬を放つように命じました。
この時、白馬から来た輜重が道中にいました。
諸将は敵の騎兵が多いので還って営塁を守らせるべきだと考えましたが、荀攸がこう言いました「これは敵を誘っているのだ。なぜ去らせるのだ(此所以餌敵,如何去之)。」
曹操荀攸を顧みて笑いました。
 
袁紹の騎将文醜劉備が五六千騎を指揮し、前後して迫ってきました。
諸将が曹操に言いました「馬に乗るべきです(可上馬)。」
しかし曹操は「まだだ(未也)」と言いました。
また暫くして、騎兵がますます増えました。ある者は別れて輜重に向かいます。
すると曹操が「今だ(可矣)」と言いました。皆が一斉に馬に乗ります。
曹操の騎兵は六百人を満たしませんでしたが、兵を放って袁紹軍を撃ち、大破して文醜を斬りました。
文醜顔良はどちらも袁紹の名将でしたが、再戦(二戦)して倒されたため(再戦悉禽之)袁紹軍は大いに震撼し、士気が失われました(奪気)
 
かつて曹操関羽の為人を壮(勇壮壮大)とみなして称賛しました。しかし関羽心神(心意。心中)には久しく留まる意思がないことを察し、張遼を派遣して心情を問わせました。
関羽が嘆息して言いました「私は曹公が私を厚く遇していることを極めて知っています。しかし私は劉将軍の恩を受け、共に死ぬことを誓ったので、背くわけにはいきません。私はいつまでもここには留まらず、功績を立てて曹公に報いたら去ります(吾終不留,要当立效以報曹公乃去耳)。」
張遼関羽の言葉を曹操に報告しました。
曹操はこれを義とみなします。
関羽顔良を殺してから、曹操関羽が必ず去ることになると知り、厚く賞賜を加えました。
しかし関羽は下賜された物に全て封をしてから、書を献上して別れを告げ(拝書告辞)袁紹軍にいる劉備の下に奔りました。
曹操の左右の者が追撃しようとしましたが、曹操はこう言いました「彼は(彼が去ったのは)それぞれの主に仕えるためだ。追ってはならない(彼各為其主,勿追也)。」
 
曹操が官渡に軍を還しました。
閻柔(当時は幽州におり、袁紹が寵慰を加えていました。献帝建安四年199年参照)が使者を送って曹操を訪ねさせました。曹操は閻柔を烏桓校尉に任命します。
 
鮮于輔も自ら官渡で曹操に会いました。曹操は鮮于輔を右度遼将軍に任命し、還って幽土(幽州)を鎮撫させました。
 
資治通鑑』胡三省注は「当時、幽州は袁紹に統治されており、許とは隔遠していたが、閻柔と鮮于輔は既に曹操に帰心していた」と書いています。
漢の度遼将軍は范明友から始まりましたが、中興東漢建国)の後、度遼将軍は西河に駐屯して南匈奴を守ることになりました。今回、鮮于輔に幽土を鎮撫させたため、「右度遼将軍」にしました。中原(朝廷)から北を向いたら西河が左、幽土が右になります。
 
 
 
次回に続きます。