東漢時代381 献帝(六十三) 孫策の死(上) 200年(3)
孫策が西征して黄祖を撃つと(『三国志・孫破虜討逆伝』裴松之注は「策前西征」と書いています。「以前の西征」なので、前年の黄祖討伐を指すようです。しかし孫策は前年、黄祖を破ってから東に帰っています。『資治通鑑』は「孫策西撃黄祖」と書いています。本年改めて黄祖を撃つために西に向かったようです)、陳登が秘かに間使(密使)を派遣し、印綬を厳白虎の余党に与えて誘いました。陳瑀が破られた恥辱(献帝建安二年・197年)に報いるため、孫策の後ろで害を為そうと図ります。
孫策は引き還して陳登を撃ちました。軍が丹徒に到って食糧の輸送を待ちます。
丹徒県は、西漢は会稽郡に属していましたが、東漢になって呉郡に属しました。春秋時代の朱方です。秦代に望気の者(気を観測する者)が「その地に天子の気がある」と言ったため、始皇帝が赭徒(囚人。「赭」は赤褐色です。囚人は赭衣を着たため「赭徒」と呼ばれました)二千人を使って城を穿ち、その勢いを喪わせました(鑿城以敗其勢)。そこで、「丹徒」に改名されました。
尚、『三国志・魏書二十二・桓二陳徐衛盧伝』にはこう書かれています「郡(広陵郡。陳登)が匡奇(地名)で孫権に包囲された。陳登が陳矯に命じて太祖(曹操)に救援を求めさせた。(略)太祖は(兵を)派遣して救援に赴かせた。(援軍が来たため)呉軍が退くと、陳登は多くの閒伏(伏兵)を設け、兵を整え、奔走する敵を追ってこれを大破した。」
『三国志・魏書七・呂布臧洪伝』にも記述があります「呂布が誅に伏してから、陳登は功績によって伏波将軍を加えられた。甚だ江・淮一帯の歓心を得たので、江南を吞滅する志を抱くようになった。孫策が軍を派遣して匡琦城で陳登を攻めた。(略)賊(孫策軍)が大破し、皆、船を棄てて迸走(逃走)した。陳登が勝ちに乗じて奔走する敵を追い、斬虜が万を数えた。(略)暫くして(孫策が)また大いに兵を興して陳登に向かった。陳登は自分の兵では敵わないと判断し、功曹・陳矯を派遣して太祖に救援を求めた。陳登は秘かに城から十里離れた場所で軍を治め(原文「登密去城十里治軍営処所」。「営処所」の意味が分かりません)、多くの柴薪を集めさせ、二束で一つのまとまりとし(両束一聚)、それぞれ十歩離れさせ、縦横に並んで行列を作り、夜になって一斉に火をつけさせた。火が聚(この「聚」は柴薪を集めてまとめたものです)を燃やすと、城壁の上で慶賀を称えて(稱慶)大軍が到着したようにした。賊(孫策)は火を眺め見て、驚いて潰滅した。陳登は兵を整えて奔走する敵を追い、一万級を斬首した。」
これらの記述によると、孫策は陳登を撃ったものの、失敗したようです。
本文に戻ります。
以前、呉郡太守・許貢が漢帝(献帝)に上表しました「孫策は驍雄で、項籍と相い似ているので、貴寵を加えて京邑に召還するべきです。もし詔を被ったら還らざるをえません。もしも外に放っておいたら、必ず世患(世の禍患)となります。」
ところが許貢が「上表はしていない」と言い訳したため、孫策はすぐに武士に命じて絞殺しました。
許貢の小子と奴客(家奴・門客)は逃亡して江辺に隠れ、民間に潜んで許貢の讎に報いる機会を探しました。
但し、献帝興平二年(195年)に丹陽都尉・朱治が呉郡太守・許貢を駆逐してその郡を占拠しており、許貢は厳白虎を頼りました。許貢は呉郡太守の時に殺されたのではなく、厳白虎が孫策に敗れた時(前年)に殺されたのだと思われます(胡三省注参照)。
狩猟の日、突然、三人が現れました。許貢の客です。
残った二人は恐慌し、弓を挙げて孫策を射ました。矢が頰に命中します。
後ろの騎兵がすぐに到着して、皆、刺殺しました。
この内容に対して裴松之は否定する意見も載せています(裴松之は孫盛の『異同評』から引用しています)「『江表伝』は孫策が韓当の軍士をことごとく知っていたので、偽っていると疑い(疑此為詐)、すぐに一人を射殺したと言っている。しかし、三軍の将士には、あるいは新附の者もいるので、孫策は大将として、どうして全てを知ることができただろう。もし知らないからと言ってすぐに射殺したのなら、その論ではない(論外だ。話にならない。原文「非其論也」)。」
本文に戻ります。
孫策が張昭等を招いて言いました「中国は混乱しているが、呉・越の衆と三江の固(三江に守られた堅固な地勢。『資治通鑑』胡三省注によると、三江は呉松江・銭塘江・浦陽江、または婁江・東江・松江を指します)をもってすれば、成敗を観るに足りる。公等は善く我が弟を輔佐せよ(善相吾弟)。」
孫策が孫権を呼び、印綬を佩させて言いました「江東の衆を挙げ、両陣の間で機を決し、天下と争衡(闘争)することにおいては、卿は私に及ばない(挙江東之衆,決機於両陳之間,與天下争衡,卿不如我)。しかし賢人を挙げて能力がある者に任せ、それぞれに心を尽くさせて江東を保つことにおいては、私は卿に及ばない(挙賢任能,各尽其心以保江東,我不如卿)。」
次回に続きます。