東漢時代382 献帝(六十四) 孫策の死(下) 200年(4)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。
 
[(続き)] 前回、孫策が死にました。
三国志呉書一孫破虜討逆伝』は孫策が死んだ日を明確にしておらず、「建安五年、曹公と袁紹が官渡で対峙したため、孫策が秘かに許を襲撃して漢帝を迎えようと欲し、隠れて兵を治め、諸将を部署した。しかしまだ発する前に、ちょうど故呉郡太守許貢の客に殺された」と書いています。
三国志武帝紀』も「孫策は公(曹操)袁紹が対峙していると聞いて許襲撃を謀ったが、発する前に刺客に殺された」と書いています。
また、『孫破虜討逆伝』の裴松之注によると、『九州春秋』が「孫策は曹公が柳城に北征したと聞き、江南の衆をことごとく起こして自ら大司馬を号し、北上して許を襲おうとした。その勇に恃んで行軍に備えを設けなかったため、難に及ぶことになった」と書いており、傅子西晋傅玄)も「曹公が柳城を征した時、孫策が)許を襲おうとした」と書いています。

しかし、孫盛の『異同評』がこう書いています(『孫破虜討逆伝』裴松之注が引用しています)「これらの数書にはそれぞれ欠点がある(各有所失)孫策は江外に威を行い、六郡を攻略したとはいえ、黄祖がその上流に乗じ、陳登がその心腹に入り(間其心腹)、しかも深険な地にいる強宗はまだ全てが帰服したのではなく、曹袁が虎争して勢が山海を傾けていた。それなのに、孫策にどうして汝潁に遠征して帝を呉越に遷す余裕があっただろう(豈暇遠師汝潁,而遷帝於呉越哉)。これは恐らく庸人(凡人)の鑒見するところである(凡人の洞察によって抱く考えである)孫策のように事勢に達している者ならなおさらではないか(なおさらそのような考えを持つはずがない。原文「況策達於事勢者乎」)。また、考えるに、袁紹は建安五年(二月)に黎陽に到ったが、これに対して孫策は四月に害に遇った。『志三国志』が『孫策は曹公と袁紹が官渡で対峙していると聞いた袁紹曹操が官渡で直接対峙するのは八月以降のことです)』といっているのは誤りである(謬矣)(よって、孫策は)陳登を伐ったとする言に根拠がある孫策は許を狙おうとして殺されたのではなく、陳登を討伐しようとして殺されたという方が信用できる。原文「伐登之言為有證也」)。更に、孫策が殺されるのは(建安)五年であり、柳城の役は建安十二年なので、『九州春秋』の乖錯(乖離錯誤)は最も甚だしい。」 
裴松之も傅子(傅玄)の記述に対して、「このような記述をするとは、なんという疎(おろそか。粗末)であろうか(何其疎哉)」と批判しています。
しかし裴松之は孫盛の分析に対しても一部否定しており、こう書いています「孫盛が譏す(否定する)ところも、全てが正しいわけではない。黄祖孫策に破れたばかりで、魂気がまだ戻っていなく、そもそも劉表の君臣には元から兼并の志がないので、たとえ黄祖が)上流にいたとしても、どうして呉(呉と会稽)を狙えただろう(原文「何辦規擬呉会」。誤訳かもしれません)孫策のこの挙は、道理に則るなら先に陳登を図ったはずだ(許を襲うために出兵したのではない)。しかし挙兵の目的は陳登だけに留まらない。当時は強宗驍帥、祖郎、厳虎の徒は全て禽滅(滅亡)し尽くしており、残った山越は憂慮に足りなかったはずだ(蓋何足慮)。それならば、孫策が計画した事に対して、余裕がなかったとは言えないのである(未可謂之不暇也)。もし孫策がその志を獲従(獲得、達成)させて大権が手中にあったら、淮泗の間(淮水泗水一帯)はどこでも都にできるので、どうして江外で志を尽きさせて、帝を楊越に遷す必要があるのだろう。また、『魏武紀武帝紀)』によると、武帝曹操は建安四年(前年)に既に出征して官渡に駐屯した。孫策が死ぬ前から、久しく袁紹と兵を交えていたのである。よって、『国志三国志』が述べているのも、謬(誤り)ではない。」
裴松之は許貢の賓客に対してもこう書いています「許貢の客は名も知られていない小人だったが、恩遇を感識し(恩遇に感動して忘れることなく)、義に臨んで生を忘れ、最後にはついに奮い立つことができた(卒然奮発)。古烈(古代の烈士)と同等である(有侔古烈矣)。『詩(小雅·角弓)』はこう言っている『君子に美道があれば、小人がこれに属す(君子有徽猷,小人與属)』。許貢の客にはこれがあった(許貢の客がそうだった。原文「貢客其有焉」)。」
資治通鑑』胡三省注によると、虞喜東晋の学者。虞翻の子孫)の『志林』が孫策の死を四月四日としているので、『資治通鑑』も孫策の死を四月丙午(初四日)に置いています。

尚、『三国志魏書十四程郭董劉蒋劉伝』にはこのような記述があります「孫策は千里を転戦して江東を全て有した。太祖曹操袁紹が官渡で対峙していると聞き、渡江して北の許を襲おうとした。それを聞いた衆人は皆懼れたが、郭嘉が予測してこう言った『孫策は江東を兼併したばかりであり、誅されたのは皆、英豪雄傑で、人の死力を得られる者である。しかし孫策は軽率で備えが無く、たとえ百万の衆がいても、一人で中原を行くのと異ならない。もし刺客が伏せて攻撃したら、彼一人を敵にするだけだ(若刺客伏起一人之敵耳)。吾(私)が観るに、必ず匹夫の手によって死ぬだろう。』果たして、孫策は江に臨んで渡る前に許貢の客に殺された。」
この記述に対して裴松之はこう書いています「郭嘉は)誠に事を見るのが明だったが(時勢を判断する能力が長けていたが)上智(聖人のような上等な智者)ではないのだから、孫策が)何年に死ぬかは知る術がなかった。今、正に許を襲った年に死んだのは、事が偶然一致したのだろう(此蓋事之偶合)。」
胡三省もこう書いています「郭嘉は先見(の明があった)とはいえ、どうして孫策が許を襲う前に死ぬと知ることができただろう。恐らく、当時の人々は孫策が江に臨んで兵を治めるのを見て、許を襲うと疑ったが、郭嘉孫策には)それができないと予測したのだ(嘉料其不能為耳)。」
 
また、『三国志孫破虜討逆伝』裴松之注によると、孫策が負傷してから、医者は「治すことができます(可治)。良く自分を守り、百日の間、動いてはなりません(当好自将護,百日勿動)」と言いました。
しかし孫策は鏡を引き寄せて自分を映すと、左右の者に「面(顔)がこのようになったのに、まだ再び功を建てて事を立てることができるか」と言い、几(机)を叩いて大奮しました。そのため傷が全て裂けてその夜に死んでしまいました。
 
孫策の死には于吉という道士が関係あるという説もあります。『三国志孫破虜討逆伝』裴松之注を元に別の場所で紹介します。

東漢時代 于吉


後に孫権が尊号を称してから(帝位に即いてから)孫策に長沙桓王の諡号を贈り、その子孫紹を呉侯に封じました。孫紹は後に上虞侯に改封されます。
孫紹の死後は、子の孫奉が継ぎました。
しかし、孫皓(呉の末帝)の時代に「孫奉が立つべきだ(奉当立)」という謡言が流れたため、孫奉は誅殺されました。
 
 
 
次回に続きます。