東漢時代 高岱
東漢時代377 献帝(五十九) 孫策の進撃(下) 199年(5)
高岱という者が餘姚で隠棲していました。
ある時、孫策が高岱に出仕を命じ、会稽丞・陸昭に迎えに行かせました。孫策自身は虚心になって高岱を待ちます(虚己候焉)。
ところがある人が孫策に「高岱は、将軍には英武があるだけで、文学の才はないと思っています。もし『伝(左伝)』を論じて、知らないと言うようなことがあったら、某(私)の言に符合したことになります(将軍を軽視しているので知らないと答えるのです)」と言い、高岱には「孫将軍の為人は、自分より勝る者を嫌います(悪勝己者)。もし問われる度に知らないと言えば、その意に合うことができます。もし全てにおいて義(道理)を弁じたら、必ず危殆(危険)になります」と言いました。
高岱はこれに納得し、孫策と『左伝』について論じた時、「知りません」と答えることもありました。
すると孫策は自分を軽んじていると思い、怒って捕えてしまいました。
それを知った知人、友人や時の人が皆、露坐(外に坐ること)して命乞いをします。
孫策は高岱が衆心を収めていることを嫌い、ついに殺してしまいました。
この時、三十余歳でした。
高岱は字を孔文といい、呉郡の人です。
高岱は天性の聡達(聡明で道理に通じていること)で、財を軽んじて義を貴びました。
士と交友する時は奇才を選び、名が知られていないうちから関係を持ち(其友士拔奇取於未顕)、交友した八人は皆、当世の英偉な者でした。
呉郡太守・盛憲が高岱を上計(地方の財政や政務の状況を朝廷に報告する者)にして孝廉に挙げました。
高岱は陶謙の書を得て帰還しましたが、許貢が既に高岱の母を捕えていました。
呉人は大小とも皆、高岱のために危竦(危惧)し、許貢が宿忿(古くからの怨み)を抱いているので行けば必ず害されると思いました。
しかし高岱はこう言いました「主君の傍にいたら主君のために働くべきだ(在君則為君)。そもそも母は牢獄におり、(私が)行くことを期待している(期於当往)。もし入って(許貢に)会うことができれば、事は自ずから解決するはずだ。」
高岱は書を届けて自ら名乗り出ました。
許貢がすぐに会見します。
高岱は才辞が敏捷で、進んで自ら陳謝したため(好自陳謝)、許貢がすぐに高岱の母を釈放しました。
高岱は許貢に会う前に、友人の張允、沈䁕と話をし、あらかじめ船を準備させました。許貢が必ず後悔して後を追うと考えたからです。
退出した高岱は母を連れて船に乗り、道を変えながら逃走しました。
果たして、許貢はすぐに人を送って後を追わせました。追者(追手)には、船に追いついた時、江上だったら殺し、既に渡り終えていたら諦めるように命じます(令追者若及於船,江上便殺之,已過則止)。
派遣された者が高岱と異なる道を追ったため、高岱は免れることができました(この後、餘姚で隠棲したのだと思われます)。