東漢時代385 献帝(六十七) 官渡の戦い 200年(7)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』『三国志魏書一武帝紀』本文および裴松之注と『資治通鑑』からです。
曹操が兵を出して袁紹と戦いましたが、勝てなかったため、引き返して営壁を堅めました。
 
三国志武帝紀』はここで「当時、公曹操の兵は一万を満たさず、負傷者は十分の二三に上った」と書いています。
しかし裴松之はこの記述を否定してこう分析しています「魏武曹操が挙兵したばかりの時、既に五千の衆がおり、その後、百戦百勝して敗れたのは十分の二三だけだった。一度黄巾を破っただけで、受け入れた降卒は三十余万もおり、その外に吞并した者は全てを書き記すことができないほどだ。征戦して損傷したとしても、まだこれほど少なくなるはずがない。営を構えて守るのは、敵の鋭鋒を折って決戦するのとは異なる(夫結営相守異於摧鋒決戦)。また、『本紀武帝紀)』は『袁紹の衆十余万が屯営し、東西数十里に及んだ』と言っている。魏太祖がたとえ際限なく臨機応変に対応できて、才略がこの世にまたとないほどであったとしても(機変無方略不世出)、どうして数千の兵で時を越えて(長い時間)対抗できるだろう。理に則って言うなら、そうではなかったと思う(竊謂不然)
袁紹が屯(営)を構えて数十里になったが、公は営を分けて当たることができた。これが兵が極めて少ないはずがない理由の一つ目である。袁紹にもし十倍の衆がいたとしたら、理に則るなら全力で包囲して(悉力囲守)出入を断絶させたはずである。しかし公は徐晃等にその袁紹の)運車(輜重車)を撃たせ、また、公も自ら出陣して淳于瓊等を撃ち、旗を掲げて往来したのに(揚旌往還)、抵抗する者がいなかった(曾無抵閡)。明らかに袁紹の力では制すことができなかったのだ。これが兵が極めて少ないはずがない理由の二つ目である。諸書は公が袁紹の衆八万を坑した(生埋めにした)と言い、ある書は七万といっている(後述します)。もし八万人が奔散したら、八千人で縛れるものではない。それなのに袁紹の大衆は皆、手をこまねて殺戮されている(拱手就戮)。どのような力で制すことができたのか(何縁力能制之)。これが兵が極めて少ないはずがない理由の三つ目である。
(官渡の戦い)記述した者は少数によって奇を示そうと欲したのであり、実録ではない。
また、『鍾繇(三国志・魏書十三・鍾繇華歆王朗伝)』には、『公と袁紹が対峙した。鐘繇は司隷となり、馬二千余匹を送って軍に供給した』とある。『本紀』と『世語』は共に『公はこの時、騎六百余匹しかいなかった』と書いているが、鐘繇の馬はどこに行ったのだ。」
以上が裴松之の意見です。
但し、『三国志集解』は、曹操が少数で袁紹を破ったのは確かであり、馬に関しても、元々少なかっところに鐘繇の馬が届いたはずだと解説しています。
 
本文に戻ります。
袁紹は高櫓(『資治通鑑』胡三省注によると、「櫓」は屋根がない楼です)を建てて土山を築き、曹操の営内に矢を射ました。雨のように矢が降り注ぎます。
曹操の営内では皆、楯をかぶって行動し、衆兵が大いに懼れました。
 
曹操は霹靂車を造り、石を発して袁紹の楼を攻撃しました。楼が全て破壊されます。
「霹靂車」は「投石車」「発石車」で、「霹靂」は雷鳴の意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、石を発する時の音が激しくて地を震わせたため(以其発石声烈震)、「霹靂」と称しました。
范蠡兵法』に「重さ十二斤の石を三百歩飛ばした」と書かれており、曹操はその方法に倣ったようです。
 
袁紹は地道を掘って曹操を攻撃しました。
しかし曹操もすぐに営の内側に長塹(長い堀)を造って拒みました。
 
曹操軍は兵が少なく食糧もほぼ尽きていました。士卒は疲弊窮乏し、百姓は征賦(税の徴収)に困苦し、多くの者が叛して袁紹に帰すようになります。
これを患いた曹操は荀彧に書を送り、許に還って袁紹を誘い出したいという意見を議しました(議欲還許以致紹師)
しかし荀彧はこう答えました「袁紹は悉衆(全軍)を官渡に集めて公と勝敗を決しようと欲しています。公は至弱によって至強に当たっているので、もしも制すことができなかったら、必ず乗じられることになります。これは天下の大機(天下を得るかどうかの肝心な時)です。そもそも袁紹は布衣の雄に過ぎず、人を集めることはできても用いることはできません。公には神武明哲があり、しかも大順によって(天子を)輔佐しているので、どうして成功できないでしょう(以公之神武明哲而輔以大順,何向而不済)。今、穀食は少なくなりましたが、楚漢が滎陽成皋の間で対峙していた時ほどではありません(未若楚漢在滎陽成皋間也)。当時、劉項とも先に退こうとしなかったのは、先に退いたら勢が屈することになったからです(先に退いた方が劣勢になると分かっていたからです。原文「劉項莫肯先退者,以為先退則勢屈也」)。公は十分の一の衆(十分居一之衆)によって、地を画して(境界線を定めて)これを守り(画地而守之)、その袁紹の)喉を押さえて前に進めなくさせ(搤其喉而不得進)、既に半年になります。袁紹の)実情が明らかになり、勢いが尽きたら、必ず変化が起きます(情見勢竭必将有変)。その時こそ奇策を用いる時なので、失ってはなりません(此用奇之時不可失也)。」
曹操はこれに従い、営壁を堅めて保持しました。
 
三国志武帝紀』はここで「孫策が公と袁紹が対峙していると聞いて許襲撃を謀ったが、発する前に刺客に殺された」と書いています(上述)孫策の死は四月に書きました。
 
袁紹軍の穀物を運ぶ車数千乗が官渡に到りました。
荀攸曹操に言いました「袁紹の運車が旦暮(朝夕)に到着します。その将韓猛は鋭(勇猛)ですが敵を軽んじているので、撃てば破ることができます。」
曹操が問いました「誰を送るべきだ(誰可使者)?」
荀攸が言いました「徐晃が相応しいでしょう徐晃可)。」
曹操は偏将軍河東の人徐晃(『資治通鑑』胡三省注によると、曹魏は将軍四十号を置きました。偏将軍と裨将軍は末座に位置します)と史渙を送って韓猛を迎撃させました。
徐晃等は韓猛を破って走らせ、その輜重を焼きました。
 
 
 
次回に続きます。