東漢時代387 献帝(六十九) 戦後 200年(9)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。
 
[(続き)] 袁紹軍は驚擾(恐慌・混乱)して大崩壊しました。
袁紹および袁譚等は幅巾(頭巾)を被って馬に乗り、軍を棄てて八百騎と共に渡河します。
曹操袁紹を追撃して追いつけませんでしたが、輜重、図書、珍宝を全て回収しました。
 
余衆で曹操に降った者は、曹操によって全て生埋めにされました。前後して殺された者は七万余人に上ります。
 
この部分は『資治通鑑』に従いました。原文は「余衆降者操尽阬之。前後所殺七万余人」です。
三国志武帝紀』は「その衆を捕虜にした(虜其衆)」としており、生き埋めにしたことも殺した人数も書いていません。但し裴松之注が曹操の上書の中で「斬首は合わせて七万余級(凡斬首七万余級)」と述べています(下述します)
三国志・魏書六・董二袁劉伝』は「袁紹の)余衆が偽って投降し、(曹操)全て生埋めにした(余衆偽降尽坑之)」としており、裴松之注が「殺した袁紹の士卒は合わせて八万人(殺紹卒凡八万人)」と書いています。
後漢書袁紹劉表列伝上(巻七十四上)』は「余衆が偽って投降し、曹操が全て生埋めにした。前後して八万人を殺した(余衆偽降曹操尽阬之,前後所殺八万人)」としています。
 
曹操が朝廷に上書しました「大将軍・鄴侯・袁紹は以前、冀州牧・韓馥と共に故大司馬・劉虞を立て、金璽を刻作(彫刻・制作)し、故任長(任県長)・畢瑜を派遣して劉虞を訪ねさせ、命録の数(命運、命数)を説きました。また、袁紹は臣()に書を送ってこう言いました『鄄城は都にできる。(今の天子の他に)擁立されるべき者がいるはずだ(可都鄄城,当有所立)。』(袁紹)勝手に金銀の印を鋳造し(擅鋳金銀印)、孝廉・計吏(地方の状況を朝廷に報告する官吏)は皆、袁紹を訪ねに行きました。従弟の済陰太守・袁敘は袁紹に書を送ってこう言いました『今、海内が喪敗(崩壊)し、天意は実に我が家にあります。神応(神霊の感応)には徵があり、それは尊兄にあるはずです。南兄袁術の臣下(恐らく袁敘自身を指します)袁術を)即位させようと欲しましたが、南兄は『年においては北兄袁紹が長じており、位においては北兄が重い』と言い、璽を(袁紹)送ろうとしました。しかしちょうど曹操に道を断たれました。』袁紹の宗族は累世(代々)国の重恩を受けてきたのに、凶逆無道がこれほどまでになりました。(そこで)すぐに兵馬を整えて官渡で戦ったところ、聖朝の威に乗じて袁紹の大将・淳于瓊等八人の首を斬ることができ、ついに袁紹軍が)大破潰(大破潰滅)して、袁紹と子の袁譚は軽身で迸走(逃走)しました。斬首は合わせて七万余級(原文「凡斬首七万余級」。上述の内容です)(獲得した)輜重・財物は巨億に上ります。」
 
沮授は渡河した袁紹に追いつけず、曹操軍に捕えられました。
沮授が大声で叫びました「授(私)は降ったのではない。捕えられたのだ(授不降也為所執耳)!」
曹操は沮授との間に旧交があったため、自ら迎え入れてこう言いました「それぞれのいる場所が異なるので、隔絶されていたが(原文「分野殊異,遂用圮絶」。意訳しました)、図らずも、今日、捕えることになってしまった(不図今日乃相禽也)。」
沮授が言いました「冀州袁紹が失策して自ら敗走を招くことになった(自取奔北)。授(私)は知も力も共に困したので(窮したので)、捕えられて当然だ(知力俱困宜其見禽)。」
曹操が言いました「本初袁紹の字)は謀がなく、(あなたの)計を用いなかった。今、(天下は)喪乱してまだ定まっていないので、まさに君と共にこれを図るつもりだ(方当與君図之)。」
沮授が言いました「叔父も母弟(同母弟)も袁氏に命を懸けている(彼等の命は袁氏に懸かっている。原文「縣命袁氏」)。もし公の霊(威霊。福)を蒙れるのなら、速く死ぬことが福となる。」
曹操が嘆いて言いました「孤(私)が早く得ていれば、天下は憂慮するに足らなかった(天下不足慮也)。」
曹操は沮授を釈放して厚遇しましたが、暫くして沮授が袁氏の下に逃げ帰ろうと謀ったため、ついに殺しました。
 
曹操袁紹の書を回収しました。その中から許下の者および曹操の軍中の者が出した書を得ましたが曹操の部下が袁紹と密通していたことを示します)、全て焼き捨ててこう言いました「袁紹が強盛だった時、孤(私)でも自分を保つことができなかった。衆人ならなおさらだ。」
かつて光武帝も同じ処置をしました(玄漢劉玄更始二年・24年参照)
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「英雄が事を処置する様子は、たとえ時代が離れていても一致するものだ(英雄処事,世雖相遠,若合符節)。」
 
冀州諸郡の多くが城邑を挙げて曹操に降りました。
袁紹は逃走して黎陽北岸に至り、将軍・蒋義渠の営に入ります。
袁紹が蒋義渠の手を握って言いました「孤(私)はこの首を委ねよう(孤以首領相付矣)。」
蒋義渠は自分の帳から離れて袁紹に譲り、そこから号令を宣布させました。
袁紹がいると聞いた衆人がまた徐々に帰服しました。
 
田豊袁紹の出兵に反対したため、捕えられていました。ある人が田豊に言いました「君(あなた)は必ず重んじられます。」
しかし田豊はこう言いました「公は外貌は寛大だが内心は嫉妬深く(貌寛而内忌)、私の忠心を明白にできなかった(不亮吾忠)。しかも吾(私)はしばしば至言(直言)によって逆らってきた。もしも勝って喜べば、まだ私を救うことができただろう。しかし今は戦に敗れて憤懣しているので(戦敗而恚)、内忌(内心の嫉妬や猜疑)が発することになる。私は生きることを望まない(私に生きる望みはない。原文「吾不望生」)。」
袁紹の軍士が皆、胸を叩いて泣きながら言いました「もしも田豊がここにいたら、間違いなく失敗に到ることはなかった(必不至於敗)。」
袁紹が逢紀に言いました「冀州の諸人は我が軍が敗れたと聞き、皆、吾(私)のことを念じている。ただ田別駕だけは以前、吾を諫止して衆(皆)と同じではなかった。吾もこれを慚愧している(吾亦慙之)。」
逢紀が言いました「田豊は将軍が退いたと聞いて、手を叩いて大笑し(拊手大笑)、その言が的中したと喜んでいます。」
袁紹は僚属に「吾(わし)田豊の言を用いなかったため、果たして笑われることになってしまった」と言い、田豊を殺しました。
 
以前、曹操田豊が従軍していないと聞き、喜んで「袁紹は必ず敗れる」と言いました。
袁紹が遁走すると、曹操はまたこう言いました「もしも袁紹に別駕(田豊)の計を用いさせていたら、どうなっていたか分からない(尚未可知也)。」
 
審配の二人の子が曹操に捕えられました。
袁紹の将・孟岱が袁紹に言いました「審配は位(高位)にいて専政しており、その族は大きく兵も強く、しかも二子が南にいるので、必ず反計を抱いています。」
郭図と辛評もこの考えに賛成しました。
そこで袁紹は孟岱を監軍に任命し、審配に代わって鄴を守らせました。
 
護軍・逢紀は以前から審配と和していませんでした。ところが、袁紹が意見を求めると逢紀はこう言いました「審配は天性の烈直で、いつも古人の節を慕っています。二子が南にいるからといって不義を為すことはありません(必不以二子在南爲不義也)。公が疑わないことを願います。」
袁紹が問いました「君は彼を嫌っているのではないのか(君不悪之邪)?」
逢紀が言いました「以前彼と争ったのは私情によるものです(先所争者私情也)。今述べているのは国事です(今所陳者国事也)。」
袁紹は「善(善し)」と言って審配を廃しませんでした(孟岱の監軍の地位はそのままだと思います)
この後、審配は逢紀と親しくなりました。
資治通鑑』胡三省注は「逢紀は審配のために進言できたが、田豊の死を救おうとしなかった。果たして国事のためだろうか(果為国事乎)」と書いています。
 
資治通鑑』はここで、「冀州の城邑で袁紹に叛した者も、袁紹が徐々に攻撃して再び平定した」と書いています。『三国志魏書一武帝紀』を見ると、翌年に「袁紹が帰り、再び散卒を収め、叛した諸郡県を攻めて平定した」とあります。
 
袁紹の為人は寛雅(寛大優雅)で局度(能力度量)があり、喜怒を形に表しませんでした。しかし性格が矜愎自高(驕慢で人の意見を受け付けず、自分が正しいと思っていること)で、正しい意見に従うことがなかなかできなかったため、最後は失敗を招きました。
 
かつて桓帝の時代に黄星が楚・宋の分(天体を十二分して楚・宋に対応する場所)に現れました。
遼東の人・殷馗は天文に長じており、こう言いました「この後、五十歳(五十年)で、真人が梁・沛の間で起ちあがるはずだ。その鋒には当たることができない。」
それからおよそ五十年が経ち、曹操袁紹を破って天下に敵う者がいなくなりました。
 
 
 
次回に続きます。