東漢時代388 献帝(七十) 曹操と孫権 200年(10)

今回も東漢献帝建安五年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十月辛亥(十二日)、孛星(異星。彗星の一種)が大梁(十二星次の一つ)に現れました。
 
[十一] 『後漢書孝献帝紀』からです。
東海王・劉祗が死にました。
 
劉祗の諡号は懿王といいます。孝王劉臻の子で、光武帝の元太子劉彊(恭王)の子孫です桓帝永寿二年156年参照)
後漢書光武十王列(巻四十二)』によると、劉祗の在位年数は四十四年に及びました。子の劉羡が継ぎましたが、魏が漢の禅譲を受けてから、崇徳侯に落とされます。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
廬江太守李術(前年、孫策が太守に任命しました)が揚州刺史厳象を攻めて殺しました。
廬江の人梅乾、雷緒、陳蘭等も江淮間でそれぞれ数万の衆を集めます。
 
曹操が上表して沛国の人劉馥を揚州刺史に任命しました。
当時、揚州には九江郡しか残っていませんでした。劉馥は単馬で合肥の空城に向かい、州治(治所)を建立します。
資治通鑑』胡三省注によると、廬江、丹陽、会稽、呉郡、豫章の五郡は孫氏に属しており、劉馥が刺史として治めるのは九江しかありませんでした。
漢の揚州刺史は歴陽を治所にしましたが、劉馥は合肥に遷しました。後に寿春に遷されます。
後漢書郡国志四』を見ると、歴陽、合肥、寿春とも九江に属します。
 
劉馥は梅乾、雷緒等を招いて懐柔しました。
皆、相次いで貢献し、数年の間で恩化が大いに行き届いて、帰順した流民は万を数えました。
そこで広く屯田を行い、陂を興しました(「陂」は溜池ですが、溜池に留まらず、灌漑等を行って水利を整えたのだと思います)
そのおかげで官民に蓄えができ、諸生儒者、学生)が集まったので、学校を建てました。
また、城塁を高くし、多くの木石を積み、戦守の備えを整えました。
 
[十三] 『三国志呉書二呉主伝』と『資治通鑑』からです。
曹操孫策の死を聞き、喪に乗じて討伐しようと欲しました。
侍御史張紘献帝建安三年198年、孫策が張紘を許に派遣して方物を献上しました。その時、張紘は朝廷から侍御史に任命され、許に留まっていました)が諫めて言いました「人の喪に乗じるのは、既に古義ではありません。(そのうえ)もしも克てなかったら、讎を成して友好を棄てることになります(成讎棄好)(逆に)これを機に厚く遇した方がいいでしょう(不如因而厚之)。」
 
曹操は上表して孫権を討虜将軍に任命し、会稽太守を兼任させました(領会稽太守)
資治通鑑』胡三省注によると、討虜将軍の号はここから始まります。
 
孫権は会稽太守になりましたが、呉に駐屯しました。丞を会稽郡に送って文書の事を代行させます(行文書事)
三国志呉書七張顧諸葛歩伝』によると、孫権は顧雍を丞に任命して太守の政務を代行させました(行太守事)
 
曹操は張紘に孫権を輔佐させて孫権の内附(朝廷に帰順すること)を促そうとしました。そこで張紘を会稽東部都尉に任命します。
 
張紘が呉に到ると、太夫(呉夫人。孫権の母)孫権がまだ若かったため、張紘と張昭が共同して孫権を輔佐するように委ねました。
張紘は思惟(思考)が明察で是非をわきまえており(思惟補察)、為すべきことは必ず行いました(誠心誠意、尽力しました。原文「知無不為」)
 
孫権が張紘を部(会稽郡)に派遣しました。
張紘が北曹操の任命を受けていたため、その志趣(意志、意向)はこの地に留まらないと嫌疑する者もいましたが、孫権は意に介しませんでした。
 
太夫人が揚武都尉会稽の人董襲に問いました「江東は保つことができますか?」
董襲が言いました「江東には山川の固があり、しかも討逆明府孫策の恩徳が民にあって討虜孫権が承基しました(家業の基礎を継承しました)。大小が用命し(大小の官員が命に従って尽力し)、張昭が衆事を掌握し、襲(私)等が爪牙となっています。これは地利人和の時(地の利人の和がそろっている時)なので、万に一つも憂いることはありません(万無所憂)。」
 
魯粛が北に還ろうとしましたが魯粛献帝建安三年198年に袁術の下から去って孫策に従い、曲阿に移っていました)周瑜魯粛を止め、これを機に魯粛孫権に勧めてこう言いました「魯粛の才は当世の主を輔佐するのに相応しく(才宜佐時)、このような者を広く求めて功業を為すべきです(当広求其比以成功業)。」
孫権はすぐ魯粛に会って談論し、満足して悦びました。
他の賓客が退いてからも魯粛だけを残し、榻(「榻」は寝床ですが、ここでは食事をする机だと思います)を合わせて向かい合って酒を飲みました(合榻対飲)
孫権が問いました「今、漢室が傾危しており(傾いて危うくなっており)、孤(私)は桓(斉桓公晋文公)の功を建てたいと思っている。君はどのようにして輔佐するつもりだ(君何以佐之)?」
魯粛が言いました「昔、高帝が義帝を尊んで仕えようと欲したのに獲られなかったのは(そうできなかったのは)項羽が害したからです。今の曹操は昔の項羽のようなものです。将軍がどうして桓文になれるでしょう。粛(私)が心中で量るに(竊料之)、漢室は復興することができず、曹操もすぐに除くことはできません。将軍のために計るなら、ただ江東を保守して天下の釁(禍患。争乱)を観るだけです。もし北方曹操の多務に乗じて黄祖を勦除(廃除消滅)し、進んで劉表を伐ち、長江流域を全て占拠して領有すれば、これが王業となります(竟長江所極拠而有之,此王業也)。」
孫権が言いました「今、一方(一地方)で尽力しているのは、漢を輔佐することを望んでいるだけだ(冀以輔漢耳)。この言は及ぶところではない(「魯粛の言は大きすぎるので、思いもよらなかった」または「実現できることではない」。原文「此言非所及也」)。」
 
張昭は魯粛がまだ若くて粗疏(粗略。注意深くないこと)だとみなして批判しました。
しかし孫権はますます貴重し、儲(貯蓄。財物)を賞賜しました。そのおかげで魯粛は以前のように豊かになりました。
三国志書九周瑜魯粛呂蒙伝』と『資治通鑑』胡三省注によると、魯粛の家は元々裕福で、周瑜が食糧を求めた時、囷(穀倉)を与えて援助したこともありました。
 
尚、『三国志書九周瑜魯粛呂蒙伝』を見ると、魯粛と交友があった劉子揚が魯粛に書を送って鄭宝に附くように勧めており、周瑜がそれを止めています。
しかし鄭宝は既に劉曄に殺されているはずです(前年参照)。『資治通鑑』胡三省注は『周瑜魯粛呂蒙伝』の記述を否定しています。
 
本文に戻ります。
孫権が諸小将を調べ、兵が少なくて用薄の者(原文「少而用薄者」。「用薄者」は「費用経費が少ない者」または「用いることが少ない者。能力がない者」だと思います)を選んで合併しました(権料諸小将兵少而用薄者并合之)
 
別部司馬汝南の人呂蒙(『資治通鑑』胡三省注によると、大将軍営には五部があり、各部にそれぞれ校尉が一人、軍司馬が一人いました。別営は別部司馬に属します。兵の数は状況によって変わりました)の軍容が鮮整(鮮明整然)としており、士卒が熟練していたため、孫権は大いに悦んで兵を増やし、呂蒙を寵任しました。
 
功曹駱統孫権に進言しました。賢人を尊重して士人と接し、勤めて損益(恐らく自分の得失に関わる意見)を求めること、饗賜(酒宴賞賜)の日は個別に接見して燥湿(住居の状況)を問い、親密な情意を加えることで、発言を誘ってその志趣(意向)を察すること等を勧めます。
孫権は全て採用しました。
駱統は駱俊献帝建安二年197年参照)の子です。
 
廬陵太守孫輔孫権が江東を保てないのではないかと恐れ、秘かに人に書を持たせて派遣し、曹操を招こうとしました。
しかし行人(派遣された者)孫権に報告したため、孫権孫輔の親近の者を全て斬ってその部曲を分け、孫輔を遷して(呉の)東部に置きました。
 
曹操が上表して華歆を招き、議郎参司空軍事にしました。
 
三国志呉主伝』は当時の孫権をまとめてこう書いています「張昭を師傅の礼で待遇し、周瑜、程普、呂範等を将率(将帥、将領)にした。広く俊秀を招き、名士を求めて招聘した(招延俊秀聘求名士)魯粛諸葛瑾等が始めて賓客になった。そこで、諸将を分けて配置し、山越を鎮撫して命に従わない者を討伐した。」
 
 
 
次回に続きます。