東漢時代389 献帝(七十一) 李術討伐 200年(11)
孫権は激怒してこの状況を曹操に報告しました「厳刺史(厳象)は昔、公(曹操)によって用いられ、また、州の挙将でもありましたが(「挙将」は「挙主」ともいい、人材を推挙した者です。孫権はかつて州刺史によって茂才に挙げられました。この刺史が厳象です)、李術が凶悪で、漢制を軽んじて侵しており、州司(州官。刺史・厳象)を残害(殺害)してその無道をほしいままにしています。速やかに誅滅して、醜類を懲らしめるべきです。今これを討とうと欲するのは、進めば国朝のために鯨鯢(巨悪)を掃除し、退いても挙将のために恩讎に報いることになるので(進為国朝掃除鯨鯢,退為挙将報塞怨讎)、これは天下の達義(公然の道理)であって夙夜に(朝から夜まで)甘心(心底から願うこと)することです。しかし李術は必ず誅を懼れ、また詭弁によって救援を求めます(詭説求救)。明公は阿衡(伊尹。重臣)の任におり、海内に嘱望されています(海内所瞻)。(征伐の)事を実行するように勅令して、再び(李術の言を)聴き入れないことを願います(願敕執事勿復聴受)。」
孫権はこれを機に兵を挙げて皖城で李術を攻撃しました。
糧食が欠乏し尽くし、婦女には泥を丸めて呑みこむ者もいました。
その間に張羨が病死しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、東漢和帝時代に宕渠県の地を分けて漢昌県を置き、巴郡に属させました。その地の夷人は一人当たり四十銭の税を納めることになり、これを「賨銭」といったため、夷人は「賨民」と呼ばれるようになりました。
趙韙はかねてから人心を得ていました。
蜀郡、広漢郡、犍為郡が皆これに呼応します。
次回に続きます。