東漢時代389 献帝(七十一) 李術討伐 200年(11)

今回で東漢献帝建安五年が終わります。
 
[十四] 『三国志呉書二呉主伝』と『資治通鑑』からです。
以前、孫策が上表して李術を廬江太守にしましたが、孫策の死後、李術は孫権に仕えようとせず、多数の亡叛(逃亡離反)した者を受け入れました。
孫権が書を送って亡叛した者を求めましたが、李術はこう答えました「徳があれば帰順され、徳がなければ背叛される。返還には応じない(有徳見帰,無徳見叛,不応復還)。」
 
孫権は激怒してこの状況を曹操に報告しました「厳刺史(厳象)は昔、公(曹操)によって用いられ、また、州の挙将でもありましたが(「挙将」は「挙主」ともいい、人材を推挙した者です。孫権はかつて州刺史によって茂才に挙げられました。この刺史が厳象です)、李術が凶悪で、漢制を軽んじて侵しており、州司(州官。刺史・厳象)を残害(殺害)してその無道をほしいままにしています。速やかに誅滅して、醜類を懲らしめるべきです。今これを討とうと欲するのは、進めば国朝のために鯨鯢(巨悪)を掃除し、退いても挙将のために恩讎に報いることになるので(進為国朝掃除鯨鯢,退為挙将報塞怨讎)、これは天下の達義(公然の道理)であって夙夜に(朝から夜まで)甘心(心底から願うこと)することです。しかし李術は必ず誅を懼れ、また詭弁によって救援を求めます(詭説求救)。明公は阿衡(伊尹。重臣の任におり、海内に嘱望されています(海内所瞻)(征伐の)事を実行するように勅令して、再び(李術の言を)聴き入れないことを願います(願敕執事勿復聴受)。」
 
孫権はこれを機に兵を挙げて皖城で李術を攻撃しました。
李術は門を閉じて守りを堅め、曹操に救援を求めましたが、曹操は援軍を出しませんでした。
糧食が欠乏し尽くし、婦女には泥を丸めて呑みこむ者もいました。
 
孫権は皖城を屠し(皆殺しにし)、李術の首を斬って晒しました(梟術首)。李術の部曲三万余人が孫権支配下に)移されます。
尚、『資治通鑑』は「部曲二万余人」としていますが、『三国志呉主伝』裴松之注では「部曲三万余人」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
劉表が張羨献帝建安三年198年参照)を攻撃しましたが、年を経ても攻略できませんでした。
しかし曹操袁紹と対峙していたため、張羨を助ける余裕がありません。
その間に張羨が病死しました。
長沙はその子張懌を立てましたが、劉表が張懌(長沙)および零(零陵桂陽)を攻撃して全て平定しました。
 
こうして劉表の地は方数千里になり、帯甲(兵士)十余万を擁すようになりました。
劉表は朝廷への貢物を献上せず、天地を郊祀し、居処(住居)や服用(衣服器物)は越権して乗輿(皇帝)を模倣するようになりました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
張魯劉璋が闇懦(愚昧軟弱)だとみなし、従順に仕えようとしなくなりました。
逆に別部司馬・張脩霊帝中平元年・184年参照)を襲って殺し、その衆を併合します。
怒った劉璋張魯の母と弟を殺しました。
張魯は漢中を占拠して劉璋と敵対します。
 
劉璋が中郎将・龐羲を送って張魯を撃ちましたが、勝てませんでした。
劉璋は龐羲を巴郡太守に任命し、閬中に駐屯して張魯を防がせます。
そこで龐羲はすぐに漢昌の賨民少数民族を招いて兵にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、東漢和帝時代に宕渠県の地を分けて漢昌県を置き、巴郡に属させました。その地の夷人は一人当たり四十銭の税を納めることになり、これを「賨銭」といったため、夷人は「賨民」と呼ばれるようになりました。
 
ある人が龐羲を陥れて劉璋との関係を悪化させようとしました(或構羲於璋)劉璋が龐羲を疑います。
 
趙韙がしばしば劉璋を諫めましたが、劉璋が従わないため、趙韙も恚恨(怨恨)しました。
 
以前、南陽と三輔の民で益州流入した者が数万家もいました。劉焉劉璋の父)は彼等を全て収めて自分の兵にし、東州兵と名づけました。
劉璋は性格が寛柔で、威略(威信智略)がありませんでした。東州人が旧民益州に以前から住む民)を侵暴しても、劉璋は禁じることができません。
 
趙韙はかねてから人心を得ていました。
資治通鑑』胡三省注によると、趙韙は劉焉に従って蜀に入り、趙韙によって劉璋が立てられたため、益州の大吏になりました。
趙韙は益州士民の怨みを利用して乱を為し、数万の兵を率いて劉璋を攻撃しました。
また、荊州劉表に厚い賄賂を贈って連和しました。
蜀郡、広漢郡、犍為郡が皆これに呼応します。
 
 
 
次回に続きます。