東漢時代392 献帝(七十四) 袁紹の後継者 202年(1)

今回は東漢献帝建安七年です。三回に分けます。
 
東漢献帝建安七年
壬申 202
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月,曹操が譙に駐軍しました。
譙県は沛国に属し、曹操の郷里です。
 
曹操が令を発しました「吾()は義兵を起こし、天下のために暴乱を除いた。旧土(故郷)の人民はほとんど死滅してしまい(死喪略尽)、国中を終日歩いても、知っている者に会うことなく(国中終日行不見所識)、吾()を悽愴傷懐(「悽愴」は「凄愴」「悲傷」、「傷懷」は「傷心」です)させる。義兵を挙げて以来、将士で後継者が絶えていない者(絶無後者)は、その親戚を求めて後を継がせ、上田を授け、官が耕牛を支給し、学師(教師。学官)を置いてこれに教える(教育する)。存者(生きている者)のために廟を建ててその先人を祀らせる。魂になっても霊があるのなら、吾()は百年の後に何を恨むだろう(人が死んでも心霊になって知ることができるのなら、私は死後に恨むことはない。原文「魂而有霊,吾百年之後何恨哉」)。」
 
最後の部分が少しわかりにくいので、大意を書きます。
「故郷に帰ったものの、知っている人に会えないほど民が死んでしまった。しかし彼等のために後継者を立てて生活を助け、祭祀を継続させた。彼等は死んでしまったが、心霊となってこれらの事を知ることができるのなら、私も死んで彼等に会ってから、悔いることはない」という意味だと思います。
 
この後、曹操は浚儀に至り、睢陽渠(水路)を築きました。
資治通鑑』胡三省注によると、浚儀県は陳留郡に属します。
 
曹操は使者を送って太牢(牛羊を犠牲に使う祭祀の規格)橋玄を祀らせました。
曹操が世に出る前に橋玄曹操の才能を認めたからです。
三国志武帝紀』裴松之注に曹操橋玄に奉げた祀文(祭文)が紹介されています。曹操はこう言いました「故太尉橋公は大いに明徳を敷き、汎愛博容(博愛で度量が大きいこと)だった。国はその明訓(明確な訓戒)を念じ、士はその令謨(嘉謀。善策)を思っている。霊は幽暗となり体は隠され(埋葬され)、遠くに離れて、亡くなってしまった(霊幽体翳,邈哉晞矣)。吾(私)は幼年にして橋玄の)堂室に登るに及び、特に頑鄙な姿(愚鈍な様子・資質)だったが、大君子橋玄に受け入れられた。栄を増してますます注目されるようになったのは(増栄益観)、皆、奨助橋玄の奨励や援助)によるものであり、仲尼孔子が顔淵顔回に及ばないと称し、李生が賈復光武帝の将)に対して厚く感嘆したのと同じである。士は己を知る者のために死ぬものであり(士死知己)、これを心中に抱いて忘れたことがない。
また、従容約誓の言(落ち着いた様子で語った約束の言葉)を承った。『殂逝の後、路を経由することがあったとして橋玄の死後、曹操橋玄の墓の近くを通ることがあったとして)、一斗の酒と一隻(一羽)の雞を持って(墓を)訪れ、沃酹(酒を撒いて祭ること)しなかったら(汝の)車が三歩過ぎただけで腹が痛くなっても怪しむな(私を責めるな)』と。これは臨時(ひと時)の戲笑の言ではあったが、至親の篤好(厚い親しみがある関係)がなかったら、どうしてこのような辞(言葉)を為せただろう(非至親之篤好,胡肯為此辞乎)
(今、橋玄を祀るのは)霊が怒って私に病を与えることができると思っているからではない(匪謂霊忿能詒己疾)。旧(旧交。旧事)を懐かしんで惟顧(思念)し、悽愴(悲傷)を念じるのである(懐旧惟顧,念之悽愴)(天子の)命を奉じて東征し、郷里に屯次(駐軍)して北の貴土(貴国。貴公の地)を望み、心が陵墓を思った(乃心陵墓)。そこで薄奠(粗末な供物)を用意して贈るので、公が享受することを願う(裁致薄奠,公其尚饗)。」

曹操は官渡に進軍しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
袁紹は軍が敗れてから慙憤(慚愧憤懣)し、発病して血を吐きました。
夏五月庚戌、袁紹が死にました。
 
袁紹には三人の子がいました。袁譚、袁熙、袁尚です。
袁紹の後妻劉氏は少子袁尚を愛しており、しばしば袁紹の前で称賛しました。
袁紹袁尚を後継者にしようと欲しましたが、まだ顕言(明言)はせず、袁譚に兄袁紹の兄。袁譚の伯父)の後を継がせることにしました。また、袁譚を外に出して青州刺史に任命しました献帝初平四年193年の事です)
資治通鑑』胡三省注が解説しています。袁紹は元々司空袁逢の孽子庶子でしたが、家を出て伯父袁成を継ぎました。袁成にも子がいたはずですが、既に死んでいたようです。袁紹袁譚を廃して袁尚を自分の後継者に立てようとしたため、袁譚に兄の後を継がせました。
 
尚、袁譚が継いだ「袁紹の兄」が誰を指すのかははっきりしません。胡三省の解説を見ると、早死した袁成の子袁紹の義理の兄)を指すようにも思えます。
しかし袁紹には袁基という実の兄弟もいました(『後漢書袁張韓周列伝(巻四十五)』によると、袁紹の実父袁逢の死後、袁基が跡を継いでいるので、袁基は嫡長子のはずです)。あるいは袁基の子孫が既に途絶えていたため、袁紹は実兄袁基の後を袁譚に継がせたのかもしれません。
 
本文に戻ります。
沮授が諫めて言いました「世(の人々)はこう称しています『万人が兔を逐い、一人がそれを獲たら、貪欲な者も全て止まる。分け前が決まったからである(分配が明確なら争いは起きないが、明確でないうちは争いが起きる。原文「万人逐兔一人獲之,貪者悉止,分定故也」)。』譚は長子なので、嗣(後継者)になるべきです。それなのに排斥して外に住ませたら、禍がここから始まるでしょう。」
袁紹が言いました「吾(わし)は諸子それぞれを一州に拠らせ、その能(能力)を視ようと欲しているのだ。」
こうして中子袁熙が幽州刺史に、外甥袁紹の姉妹の子)高幹が并州刺史に任命されました(『資治通鑑』は高幹を「并州刺史」としていますが、『三国志魏書一武帝紀』は「袁紹が甥の高幹を領并州牧にした」と書いています。献帝建安十年205年参照)
 
逢紀と審配は以前から袁譚に嫌われていました。
辛評と郭図は袁譚に附いたため、審配、逢紀との間に対立が生まれます。
袁紹が死ぬと、衆人は袁譚が年長なので擁立しようと欲しました。
ところが審配等は袁譚が立ってから辛評等に害されることを恐れ、袁紹の遺命と偽って袁尚を後嗣にしました。
 
袁譚青州から帰還しても袁紹の後を継げなかったため、自ら車騎将軍を称して黎陽に駐屯します。
資治通鑑』胡三省注によると、袁紹が挙兵した時に車騎将軍を自称したため、袁譚もそれに倣いました。
 
袁尚袁譚に少数の兵を与え、逢紀を送って袁譚に従わせました。
袁譚が兵を増やすように要求しましたが、審配等は議論の結果、兵を与えませんでした。袁譚は怒って逢紀を殺しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
于寘国が馴象(訓練された象)を献上しました。
 
 
 
次回に続きます。