東漢時代393 献帝(七十五) 賈逵 鐘繇 202年(2)

今回は東漢献帝建安七年の続きです。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
秋九月、曹操が渡河して袁譚を攻めました。
袁譚袁尚に急を告げます。
 
袁尚は審配を留めて鄴を守らせ、自ら兵を率いて袁譚を助け、共に曹操を防ぎました。
しかし袁譚袁尚は連戦してしばしば敗れたため、退いて守りを固めました。
 
袁尚は自分が任命した河東太守郭援を派遣し、高幹や匈奴単于と共に河東を攻撃させました。また、関中諸将馬騰等に使者を送って同盟するように誘いました。馬騰等は秘かに同意します。
郭援が通った城邑は全て下りました(援所経城邑皆下)
 
河東の郡吏賈逵が絳(『資治通鑑』胡三省注によると、絳県は河東郡に属します。春秋時代晋の都でした)を守っていました。郭援が絳を激しく攻撃します。
城が落ちようとした時(城将潰)、父老が郭援と交渉して、賈逵を害さないなら投降すると約束しました。
郭援はこれに同意します。
 
(絳が降ってから)郭援は賈逵を自分の将にしようと欲し、武器で脅しました。しかし賈逵は動きません。
左右の者が賈逵を引きつれて叩頭させようとすると(引逵使叩頭)、賈逵が叱咤して言いました「国家の長吏で賊のために叩頭する者がいるか(原文「安有国家長吏為賊叩頭」。『資治通鑑』胡三省注は「賈逵は郡吏なので長吏(県の高官)ではない。しかし絳県を守っていたので、自分を県の長吏といった」と解説しています)!」
郭援は怒って賈逵を斬ろうとしました。しかしある者が賈逵の上に伏せて助けます。絳の吏民も賈逵が殺されると聞いて、皆、城壁に登って「約束に背いて我々の賢君を殺すのなら、我々も共に死ぬだけだ(寧俱死耳)!」と叫びました。
郭援は賈逵を殺さず、壺関で幽囚して土窖穀物等を貯蔵する地下倉庫)の中に入れ(『資治通鑑』の原文は「囚於壺関,著土窖中」ですが、『三国志魏書十五劉司馬梁張温賈伝』裴松之注では「囚於壺関,閉著土窖中」です。『資治通鑑』は「閉」が抜けています)、車輪で蓋をしました。
 
賈逵が守者(守衛)に言いました「この辺には健児(壮士)がいないのか(此間無健児邪)。義士をこの中で死なせるのか。」
祝公道という者がおり、ちょうどこの言葉を聞きました。
祝公道は夜になってから土窖に行って秘かに賈逵を連れ出し、刑具を外して去らせました。祝公道は姓名を語りませんでした。
 
曹操司隸校尉鍾繇に命じて平陽で南単于を包囲させました。
資治通鑑』胡三省注によると、平陽県は河東郡に属します。当時は南単于呼廚泉が住んでいました。
 
鐘繇が平陽を攻略する前に、南単于の援軍(下の文面から、この援軍は馬騰を指すと思います)が到着しました。
鐘繇は新豊令馮翊の人張既を送り、馬騰に利害を語って説得させました。
馬騰が躊躇して決断できないため、傅幹が馬騰に説きました「古人にはこのような言葉があります『徳に順じる者は栄え、徳に逆らう者は亡びる(原文「順徳者昌,逆徳者亡」。新城の三老董公が劉邦に語った言葉です。西楚覇王二年漢王二年205年参照)。』曹公は天子を奉じて暴乱を誅し、法が明らかで政が治まっており、上下が命を用いているので(上下が命に従って尽力しているので)、道(徳)に順じているといえます(可謂順道矣)。袁氏はその強大(な力)に恃み、王命を背棄し、胡虜匈奴を馳せさせて中国を虐げているので(陵中国)、徳に逆らっているといえます(可謂逆徳矣)。今、将軍は既に道(徳)がある者に仕えながら、秘かに両端(どちらにも附かない態度)を抱き(既事有道,陰懐両端)、坐して成敗を観ようと欲しています。吾(私)は成敗が既に定まってから、曹操が)(皇帝の命)を奉じて罪を責め、将軍が真っ先に誅首(誅殺されるべき悪人)となることを恐れます。」
馬騰は懼れを抱きました。
そこで傅幹が言いました「智者とは禍を転じて福と為すものです。今、曹公は袁氏と相持(対峙)しており、高幹や郭援が共に河東を攻めています。たとえ曹公に万全の計があったとしても、河東の危機を無くすことはできません(原文「不能禁河東之不危也」。意訳しました)。将軍が誠に兵を率いて郭援を討てるなら、内外でこれを撃ち(河東の兵が内から撃って馬騰の兵が外から撃ちます)、必ず勝つことができます(其勢必挙)。これは将軍の一挙によって袁氏の臂(腕)を断ち、一方の急(危急)を解くことになるので、曹公は必ず将軍を重く徳とし(感謝し)、将軍の功名は並ぶ者が無くなります(無與比矣)。」
馬騰は進言に従って子の馬超を派遣し、兵一万余人を率いて鐘繇に合流させました。
 
諸将は郭援の衆が盛んだったため、平陽の包囲を解いて去ろうとしました。
しかし鍾繇はこう言いました「袁氏はまさに強盛であり、郭援が来たことによって関中馬騰等)が秘かにこれ(袁氏)と通じた。まだ全てが叛していないのは、私の威名を顧慮しているからだ。それなのにもしも(平陽を)棄てて去ってしまったら、弱(劣勢)を示すことになるので、各地の民は誰もが寇讎と化してしまう(所在之民誰非寇讎)。たとえ我々が帰ろうと欲しても、司隸の治所に)到達することができるか(其得至乎)。これは戦う前に自ら敗れることだ(此為未戦先自敗也)。そもそも、郭援は剛愎(頑固)で勝ちを好み(剛愎好勝)、必ず我が軍を軽視している。もし汾(汾水。『資治通鑑』胡三省注によると、平陽県の東を流れます)を渡って営を構えようとしたら、渡り終る前に撃てば大克(大勝)できる。」
 
果たして郭援は直接進軍して汾水を渡ろうとしました。衆人が止めても従いません。
川を渡り始めて半分に及ばない時、鐘繇が攻撃して大破しました。
戦が終わってから、衆人が皆、「郭援は死んだがその首は得られなかった」と言いました。
郭援は鐘繇の甥に当たります。
 
晚になってから、馬超の校尉南安の人龐徳が鞬(弓矢を入れる袋)の中から一つの頭を出しました。鐘繇はそれを見て哀哭します。
龐徳が鐘繇に謝ると、鐘繇はこう言いました「郭援は確かに私の甥だが、国賊である。卿になぜ謝る必要があるのか(卿何謝之有)。」
 
この後、南単于も鐘繇に投降しました。
尚、『三国志魏書十五劉司馬梁張温賈伝』には「高幹および単于が皆降った」と書かれていますが、高幹が降るのは後のことです。
 
 
 
次回に続きます。