東漢時代394 献帝(七十六) 曹操と孫権 202年(3)

今回で東漢献帝建安七年が終わります。
 
[] 『三国志蜀書二先主伝』と『資治通鑑』からです。
劉表劉備に北侵させました。劉備は葉に至ります。
資治通鑑』胡三省注によると、葉県は南陽郡に属します。春秋時代、楚の葉公子高の邑でした。
曹操夏侯惇于禁等を送って劉備を防ぎました。
 
この部分は『資治通鑑』に従いました。『資治通鑑』は『三国志魏書十八二李臧文呂許典二龐閻伝』を元にしています。
三国志先主伝』は、劉表劉備に北侵させたことには触れず、「劉表劉備に)博望で夏侯惇于禁等を拒ませた」と書いています。
 
久しくして、劉備が伏兵を設けてから、一旦にして(「一旦」は「突然」または「ある朝」の意味です)(営)を焼いて遁走するふりをしました。
夏侯惇等が追撃します。
裨将軍鉅鹿の人李典(『資治通鑑』胡三省注によると、裨将軍は偏将軍の下です)が言いました「賊は理由もないのに退きました(賊無故退)。埋伏があるはずです(疑必有伏)。南道は窄狭で草木が深いので、追ってはなりません。」
夏侯惇等は諫言を聞かず、李典に留守をさせて劉備の後を追いました。
果たして夏侯惇等は埋伏の中に入り、兵が大敗しました。しかし李典が助けに来たため、劉備は退きました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
曹操が書を下して孫権に任子を要求しました。
「任子」は子弟を朝廷に送って仕官させることですが、実際は人質です。
 
孫権が群僚を集めて会議しました。しかし張昭、秦松等は躊躇して決断できません。
そこで孫権周瑜を招き、呉夫人孫権の母)の前で決議させました。
周瑜が言いました「昔、楚国が(周から)初封された時は百里の地に満ちませんでした。しかし継嗣(後継者)が賢能だったので、土地を拡げて境を開き(広土開境)、ついに荊揚を占拠し、(代々)業を伝えて祚(福)を延ばし、九百余年に及びました(原文「伝業延祚九百余年」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。西周成王が熊繹を楚に封じました。子男(子爵男爵)の田(地)を与え、丹陽を国とします。漢の南郡枝江県です。その後、しだいに強盛になり、若敖、蚡冒の代に至って汝を辺界にしました。武王、文王は江漢の間を全て領有し、荘王以後は中国(中原)と盟を争います。威王の代に越を破って南海に至りました。楚は秦に滅ぼされるまで九百余年も続きました)。今、将軍は父兄の余資(遺産)を継承し、六郡(『資治通鑑』胡三省注によると、会稽、呉、丹陽、豫章、廬陵、廬江を指します)の衆を兼ね、兵は精鋭で食糧も多く(兵精糧多)、将士が用命し(命に従って尽力し)、鋳山(山を採掘すること)して銅と為し、海を煮て塩と為し、境内は富饒(富裕)で、人々は乱を思っていません(人心が安定しています。原文「人不思乱」)。何に逼迫されて質(人質)を送ろうとするのでしょうか(有何逼迫而欲送質)。質が一度入ったら、曹氏との関係を密接にしなければならず(原文「不得不與曹氏相首尾」。「首尾」は関係を密接にすることです)、互いに密接になったら(與相首尾)、命によって召された時、行かないわけにはいかず(命召不得不往)、こうして人に制されることになります(如此便見制於人也)(その時に得られるのは)極めても(多くても)一侯印、僕従十余人、車数乗、馬数匹に過ぎません。どうして南面して孤(王侯の自称)と称すのと同じでいられるでしょうか(豈與南面称孤同哉)(質を)派遣せず、ゆっくり変化を観た方がいいでしょう(不如勿遣徐観其変)。もし曹氏が義を行うことで天下を正せるのなら(能率義以正天下)(それを見極めてから)将軍が仕えても晚くはありません。もし(曹操)暴乱を為そうと図ったら、彼は自ら亡んで余裕がなくなります(彼自亡之不暇)。どうして人を害すことができるでしょう(焉能害人)。」
 
呉夫人が言いました「公瑾周瑜の字)の議が是です(正論です)。公瑾と伯符孫策の字)は同年で、一月小さいだけなので、私は自分の子のように視ています。汝孫権は兄事しなさい。」
 
孫権は質を送りませんでした。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
この年、越の男子が女子に変わりました。
 
[] 『三国志呉書二呉主伝』からです。
この年、孫権の母呉氏が死にました。
 
資治通鑑』は建安十二年207年)に呉氏が死んだと書いていますが、『三国志呉主伝』は本年の事としており、『三国志呉書五妃嬪伝』にも「建安七年202年。本年)(呉氏が)死に臨んで張昭等を引見し、後事を託した」と書かれているので、恐らく『資治通鑑』の誤りです。
 
 
 
次回に続きます。