東漢時代396 献帝(七十八) 袁譚講和 203年(2)

今回は東漢献帝建安八年の続きです。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』からです。
秋七月、曹操が令を下しました「喪乱以来十五年が経ち、後生の者が仁義礼譲の風を見ていないので、吾()は甚だ悲痛している(甚傷之)。よって郡国にそれぞれ文学を修めさせ、県が五百戸を満たしていたら校官を置き、その郷の俊造(才智が傑出した者)を選んで教学させる。先王の道が廃れず、こうすることで天下に対して益があることを望む(庶幾先王之道不廃而有以益於天下)。」
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
八月、曹操劉表を征討し、西平に駐軍しました。
資治通鑑』胡三省注によると、西平県は汝南郡に属します。曹操郭嘉の謀に従いました。
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と資治通鑑』からです。
袁尚が自ら兵を率いて(南皮の)袁譚を攻め、大破しました。
袁譚は平原に奔り、城にこもって守りを固めます(嬰城固守)
しかし袁尚が城を包囲して激しく攻撃したため、袁譚は辛評の弟辛毗を派遣して曹操を訪ねさせ、投降を乞いました。合わせて救援を求めます。
 
劉表が書を送って袁譚を諫めました劉表袁紹と同盟していました)「君子は難を避けても讎国に向かわず、交わりを絶っても悪声(悪口)を出さないものだ(君子違難不適讎国,交絶不出悪声)。それなのに先人(袁紹)の讎を忘れ、親戚の好(友好)を棄て、万世が戒めとすることと為り、同盟の恥を残すとは(為万世之戒,遺同盟之恥哉)。もし冀州袁尚に不弟の傲(弟として相応しくない傲慢な行為)があったとしても、仁君袁譚は志を降して自分の身を辱め、済事(大事の完成)を務(急務)とするべきだ。事が定まった後、天下にその曲直袁譚袁尚の是非)を評論させれば(平其曲直)、それも高義となるのではないか。」
 
劉表袁尚にも書を送りました「金火は剛柔によって相済(協調して互いに成長すること)し、その後、その和を克ち取って民に用いられるようになる(原文「金木水火以剛柔相済,然後克得其和能為民用」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。五行説では、金(金属)は木に克ちますが、柯(斧の柄。木製です)を持って木を伐るので、木がなかったら金が木を伐るという利が成立しません。水は火に克ちますが、火が水の下にあって共存しなければ水による烹飪(料理。調理)の功が成立しません。金火は相生相克の関係にありますが、調和することで民の役に立っています)青州袁譚は天性の峭急(厳格性急)で曲直に迷っている(是非を判断できない)。仁君袁尚は度数(度量)が弘広で、綽然(余裕がある様子)として余りあるので、大によって小を包み、優によって劣を許容し、先に曹操を除いて先公の恨を卒すべきだ(終わらせるべきだ)。事が定まった後に曲直を議すという計も善いではないか(事定之後乃議曲直之計不亦善乎)。もしも迷って(正しい道に)返らなかったら(迷而不反)、胡・夷にも譏誚(批難、嘲笑)の言が生まれる。ましてや我々同盟の者が君の役(戦い)のために尽力できるだろうか(況我同盟復能勠力為君之役哉)。これは韓盧と東郭が自ら先に困し(窮し)、田父に獲られることになったのと同じである(原文「此韓盧東郭自困於前而遺田父之獲者也」。『戦国策斉策三』に記述があります。韓子盧(韓盧)は天下の俊犬で、東郭狻(東郭)は天下の狡兔です。韓子盧が東郭狻を追って駆けまわりましたが、前後して兔も犬も疲労のため倒れてしまいました。それを見た田父が労苦を必要とせず両方を獲ました)。」
袁譚袁尚劉表の諫言に従いませんでした。
 
辛毗が西平に至って曹操に会い、袁譚の意を伝えました。
諸将は皆、袁譚を疑い、群下の多くの者が「劉表は強盛なので先にこれを平定するべきです。袁譚袁尚は憂いるに足りません」と言いました。
しかし荀攸がこう言いました「天下はまさに有事の時ですが、劉表は坐して江漢の間を保っているだけなので、四方の志(四方を制す志)がないと知ることができます。袁氏は四州の地に拠り、帯甲が数十万もおり、袁紹は寛厚によって衆心を得ていました。もしも二子を和睦させてその成業を守らせたら、天下の難が終息しなくなります。また、今は兄弟が遘悪(憎しみ合あって対立すること)しており、両立できない形勢です(其勢不両全)。もし(片方が片方を)併合することになったら力が一つになり、力が一つになったら図るのが困難になります(若有所并則力専,力専則難図也)劉表を討伐するのではなく)この乱に乗じて(袁氏を)取れば天下が定まります。この時を失ってはなりません。」
曹操荀攸の意見に従いました。
 
三国志武帝紀』裴松之注によると、曹操はこう言いました「わしが呂布を攻めた時、劉表は寇を為さなかった(侵攻しなかった)。官渡の役でも袁紹を救わなかった。これは自守(保身)の賊であり、後図と為すべきだ(後回しにすればいい。原文「宜為後図」)袁譚袁尚は狡猾なので、その乱に乗じるべきだ。たとえ袁譚が挟詐して(詐術を用いて)最後は手を束ねることがないとしても(不終束手)、我々に袁尚を破らせて、(我々が)その地を全て収めれば(使我破尚徧收其地)、利は自ずから多くなる。」
 
本文に戻ります。
数日後、曹操がまた考えを変えました。先に荊州を平定し、袁譚袁尚は共倒れにさせようとします。
辛毗は曹操の顔色を望んで(観察して)変化があったことを知り、郭嘉に話しました。郭嘉がこれを曹操に言うと、曹操が辛毗に問いました「袁譚は必ず信じることができ、袁尚には必ず克てるのか(譚必可信,尚必可克不)?」
辛毗が答えました「明公が信と詐(信用できるかどうか)を問う必要はありません(無問信與詐也)。ただ形勢を論じるだけです(直当論其勢耳)。袁氏が本より兄弟で相伐しているのは、他者がその隙に乗じることを考えず、天下が自分によって定められると考えているからです(原文「非謂他人間其間乃謂天下可定於己也」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。袁氏兄弟は元々他者が乗じることを考えず、青州冀州を一つにしたら形勢に乗じて天下を定められるということだけを考えていたので、互いに争いました)
今、一旦にして明公に救いを求めたので、これ袁譚の状況)を知ることができます曹操に救いを求めたので、袁譚が困窮したと分かります。原文「此可知也」)。また、顕甫袁尚の字)が顕思袁譚の字)の困(困窮)を見ても取れないのは、その力が尽きているからです(此力竭也)。兵革(軍隊)が外で敗れ、謀臣が内で誅され(『資治通鑑』胡三省注によると、逢紀、田豊等を指します)、兄弟が讒(対立して批難しあうこと)し、国が分かれて二つになり、連年戦伐して介冑に蟣蝨(しらみ)が生まれ、加えて旱蝗と餓饉が並んで訪れ(加以旱蝗饑饉並臻)、上においては天災が応じ、下においては人事が困(困窮)し、民は愚智に関係なく(愚者も智者も)皆、土崩瓦解していることを知っています。これは天が袁尚を亡ぼす時です。今、鄴に向かって攻撃したとして、もし袁尚(鄴に)還って救おうとしなかったら、(鄴は)自らを守ることができず、袁尚が)還って救ったとしても袁譚が後ろを追います(譚踵其後)。明公の威を持って困窮した敵に応じ、疲敝した寇を撃てば、迅風が秋の葉を振り落とすのと同じです(無異迅風之振秋葉矣)
天が袁尚を明公に与えているのに、明公がこれを取らずに荊州を伐っても、荊州は豊楽(富裕安楽)なので、国には釁(隙)がありません。仲虺(商王成湯の賢臣)はこう言いました『乱を取って亡を侮る(政治が乱れている国を取り、亡ぼうとしている国に進攻する。原文「取乱侮亡」)。』今は二袁が遠略に務めず、内部で互いに図っているので、乱といえます。居者(住民)には食が無く、行者(道を行く者)には糧がないので、亡といえます。(人々は)朝に夕を謀れず(朝に夜の事を考えることができず。「その日ぐらし」の意味です。原文「朝不謀夕」)、民の命が継続できないのに(民命靡継)(あなたは)これを安定させず(不綏之)、他年(後年)まで待とうとしています。他年にもし豊作になり(他年或登)、しかも(袁氏が)自ら亡を知ってその徳を改め修めたら(改脩厥徳)、用兵の要(機会)を失うことになります(失所以用兵之要矣)。今、請救(救援を請うこと)を機会に撫せば(困窮した民衆を慰撫すれば)、これ以上の利はありません(利莫大焉)。そもそも四方の寇で河北(袁氏)より大きなものはいません。河北を平定すれば六軍が盛んになり、天下が震えます。」
曹操は「善し(善)」と言って袁譚との講和に同意しました(許譚平)
資治通鑑』胡三省注は「辛毗の言を観ると、袁譚のために救援を請うたのではなく、曹操に河北を取るように勧めている」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。