東漢時代397 献帝(七十九) 孫権の征討 203年(3)
冬十月、黎陽に至ります。
『三国志・武帝紀』は「東平の人・呂曠、呂翔が袁尚に叛して陽平に駐屯し、その衆を率いて曹操に降ったため、列侯に封じられた」としていますが、『後漢書・袁紹劉表列伝下(巻七十四下)』では「袁尚の将・呂曠、高翔」としています。『資治通鑑』は『後漢書』に従っています。
袁譚が秘かに将軍の印を彫刻して呂曠と高翔に授けました。
曹操が言いました「私は元々袁譚に小計があることを知っていた。私に袁尚を攻めさせれば、その間に民を略して(奪って)衆を集めることができ、袁尚が破れる時には、自分が強くなって我々の疲弊に乗じられるようになると欲したのだ。しかし袁尚が破れたら我々が強盛になるのだから、どの疲弊に乗じることができるのだ(何弊之乗乎)。」
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『三国志・武帝紀』裴松之はこう書いています「袁紹が死んでからここに至るまで、周五月(一年五カ月)を過ぎただけである。袁譚は家を出て伯父(袁紹の兄)の後を継いだとはいえ、袁紹のために三年の喪に服さず、再朞(二年)の内に吉礼を行うというのは、礼から外れている(悖矣)。あるいは、魏武(曹操)はとりあえず約束しただけであり、ここで結婚といっているが、この年に婚姻の礼を成したとは限らない。」
八佾舞は八人が八列に並ぶ六十四人の舞で、天子の儀式で用いられます。混乱のため廃されていましたが、今回、回復されました。
初めて司直の官を置き、中都官を監督させました。
『資治通鑑』胡三省注は「丹陽、豫章、廬陵には山越がいた」と書いています。「山寇」は「山越」のようです。
孫権は引き返して豫章を通った時、征虜中郎将・呂範に鄱陽を平定させ(『資治通鑑』胡三省注によると、建安十五年・210年に孫権が豫章郡を分けて鄱陽郡を置きます。この時(建安八年・203年)の鄱陽はまだ県です。また、『三国志・呉主伝』と『資治通鑑』では「鄱陽と会稽」を平定していますが、『三国志・呉書十一・朱治朱然呂範朱桓伝』では「鄱陽」のみです。『資治通鑑』胡三省注は「地理の状況から考えて、会稽の二字は衍(余分)である」と解説しています)、盪寇中郎将・程普に楽安を討たせ(『資治通鑑』胡三省注によると、鄱陽郡に楽安県がありました。但し、当時の鄱陽はまだ郡ではありません。鄱陽県が郡になってから、鄱陽県に属していた楽安という地が県になったのだと思われます。盪寇中郎将は孫権が置いた官です)、建昌都尉・太史慈に海昏を領させ(治めさせ。『資治通鑑』胡三省注によると、東漢和帝の時代に海昏を分けて建昌県を置きました。どちらも豫章郡に属します。後に孫策が海昏、建昌等の六県を豫章郡から分けて、太史慈を建昌都尉に任命し、海昏を治所にしました。『資治通鑑』は『三国志・呉主伝』に従ってここで「孫権が建昌都尉・太史慈に海昏を領させた」と書いていますが、実際は孫策によって海昏に派遣されていたはずです。『三国志・呉書四・劉繇太史慈士燮伝』でも、孫策が太史慈を建昌都尉に任命して海昏を治所にしており、諸将を監督して劉表の従子(甥)・劉磐を防がせています)、別部司馬・黄蓋、韓当、周泰、呂蒙等に劇県(統治が困難な県。『資治通鑑』胡三省注によると、山越の要地に当たる県を指します)の令長を担当させ(守劇県令長)、山越を討たせて全て平定しました。
建安、漢興、南平の民が乱を為し、それぞれ一万余人の衆を集めました(『資治通鑑』胡三省注によると、建安は本来、冶県の地で、会稽南部都尉が治めていました。建安年間に東侯官(恐らく冶県下の地名)を分けて県を置き、漢の年号を使って建安を県名にしました。漢興県は漢末に立てられました。後に呉が「呉興」に改名します。南平県も漢末に立てられました。西晋武帝が呉を平定してから「延平」に改名されます。当時は全て南部都尉に属しました)。
賀斉はこれらを全て平定し、再び県邑を建てて兵一万人を選出しました。
孫権は賀斉を平東校尉に任命しました。
次回に続きます。